③さまよえる湖殺人事件

「やっと逢えたあ……!」

 たまらず歓喜の声を上げ、タニアは受け取ったばかりの雑誌を抱き締める。

 平らな胸に表紙が密着すると、全身にぽかぽかとした温もりが広がっていく。あの人に膝枕され、子守歌を聴いていた時のように。

 誘われるように目を閉じると、記憶の中から澄んだ歌声が流れだす。呼応して薔薇の香りが溢れ出し、タニアの目尻を垂らしていった。


 甘くうららかな芳香は同時に気高く、ともすれば近寄りがたさすら感じさせる。反面、まぶたの裏にぼんやりと見える微笑みは、お布団のように柔らかい。左右の腕は全てを受け止めるように開かれ、少し堅めの胸にタニアを招いている。

 頭の中に懐かしい心音が甦り、タニアの顔を自らの懐に近付けていく。ぎゅっと抱いた雑誌に頬擦りすると、かさついた再生紙が鼻の頭をかすめた。そう、あのふわふわした肌や、甘い香りはどこにもない。


 ……判っていたことだ。


 所詮は偽物。


 薄っぺらな紙で出来た雑誌に、温もりや鼓動があるはずもない。未練がましく表紙に顔を寄せるだけ、インクの乾いた臭いが鼻に届く。


 毎月この瞬間を迎える度に、タニアは胸の叫び声を聞く。


 本物に、本物のあの人に逢いたい……!


 出来ることなら今にでも、自分自身の願いを叶えてやりたい。でもあの人に逢うためには、何度も〈列船れっせん〉を乗り継がなければいけない。何時間も掛けて、ビルが地平線を埋め立てる街にまでいかなければいけない。

 仮にあの人の顔を見られたとしても、分厚い人垣の最後尾から手を振るのが関の山だ。声をらして呼び掛けたとしても、大歓声に掻き消されてしまうだろう。もう一度、膝枕をしてもらうどころか、目が合っただけでも奇跡に等しい。


 今はまだこれで我慢するしかない。我慢するしかないんだ……!


 物欲しそうな鼓動に言い聞かせ、タニアはまぶたを上げる。腕を伸ばし、お免状めんじょうのように雑誌を構えると、目の前に「月刊メルヒェン」の文字が来た。極太のゴシック体を縁取ふちどるラメが、陽光を反射し、ショッキングピンクに輝いている。

 今月号の表紙を飾るのは、月メルの看板作品「乙姫おとひめですわ」。セーラー服を着たヒロインが、烏羽からすば色の髪を軽やかになびかせている。雑誌の中程には〈人魚姫にんぎょひめ〉さまのレターセットと、〈灰被はいかぶひめ〉さまのポーチが挟み込まれていた。

 どうも最近の月メルは、付録のボリュームで中身の薄さを誤魔化している気がする。「乙姫おとひめですわ」も大ゴマの多用と回想ばかりで、もう一年くらい話が進んでいない。


「『眠れる森』はっと……」

 タニアは目次を確かめるため、ペン字講習の広告が載った裏表紙をめくる。だがその瞬間、カサカサの手が裏表紙に乗り、開き掛けていた月メルをぴったりと閉ざした。軽く張り手を喰らったにもかかわらず、げつペンのB子ちゃんはとびきりの営業スマイルを崩さない。

 待望の時を邪魔された不満を込め、タニアは背後を睨み付ける。扁平に潰れた視界に映ったのは、甲板から降りたばかりのアルハンブラだった。


「ターニャ、そりゃ約束違反だあ」

 アルハンブラは珍しく険しい顔をし、タニアをとがめる。

「……判ってるよ。荷下ろしが終わってから、でしょ」

 週一の荷下ろしと配達を手伝う――。

 それがお小遣いの支給及び、毎号月メルを買ってもらうための条件だ。

「ちょっとくらいいーじゃん。私、他の読者より二日も余計に待ってんだから」

 タニアは頬を膨らませ、足下の小石を蹴飛ばす。

 月メルの発売日は毎週第二水曜日――なのだが、「一部の地域」についてはその限りではない。そして一時間に一本しか路線船ろせんせんの来ない〈ロプノール〉は、言うまでもなく「一部の地域」だ。


「まずはハチのところだなあ。そこの段ボールからミネラルウォーター出しとけえ」

 アルハンブラは手元の伝票から甲板に視線を移し、右端の段ボールを指す。

「……あのツラでミネラルウォーターだあ? タコは潮水でも飲んでりゃいいんだ」

「ターニャ、嫌なことはさっさと済ませろお。でないとお、ず~っと嫌なまんまだぞお」

「へ~い」

 投げやりに返し、タニアは渋々甲板によじ登る。

 ポケットから軍手を出し、作業の邪魔になる月メルを甲板の隅に置く。言われた通りミネラルウォーターの段ボールに近付くと、傍らに〈詐連されん〉指定のゴミ袋が転がっていた。

 袋の中身はズタズタに裂けたブラウスで、ドブですすいだように黒ずんでいる。すぐ近く――そう、雪だるまの頭と胴体ほどの距離には、ヘブンイレブンの袋も転がっていた。こちらの中身は砂埃にまみれたウィッグで、袋の口は緩く結ばれている。


「……まぁた砂漠のゴミを拾ってきたな」

 タニアはボヤき、半透明の厄介者に白い目を向ける。自動的に首が振れ、ご自慢のポニーテールが左右に揺れた。

 砂見すなみに訪れた観光客が、人間の目の付く場所にゴミを捨てていく――。

 ここ数年、〈ロプノール〉の住民を悩ませている問題だ。

 各町会は清掃活動や観光客への注意喚起を行っているが、正直、改善が見られるとは言いがたい。「砂漠は掃除出来ても、人の心は綺麗に出来ない」と、いつもは威勢のいい伯母が悲しげにこぼしていた。


「これ、どーすんの? もうゴミの収集船しゅうしゅうせん行っちゃったよ? 次に燃えるゴミ出せるの週明けだけど、それまで家に置いとく気? またおばちゃんにドヤされるよ?」

「いやあ、おいらも悩んだんだけどなあ~。けどお、ほっとくわけにもいかんだろお」

 伯母の名前を出されたアルハンブラは、気まずそうに鼻の頭を掻く。ボヤ騒ぎがあっても眉一つ動かさない大物にプレッシャーを掛けるとは、やはり伯母はミューラー家の首領ドンだ。

 ゴミを拾ってくること自体に問題はない。むしろ道端の空き缶を素通り出来ない性格は、伯母も評価している。

 ただ今は、ぼちぼちセミも鳴き始めている季節だ。生ゴミが混じっていれば悪臭が発生するし、コバエも湧く。不快なのは勿論もちろん、お客さんに不衛生な印象を持たれてしまう。


「とりあえず一回落とすよ、コレ」

 タニアはゴミ袋を指し、アルハンブラに許可を求める。

 何しろ小柄なタニアが両腕を広げただけで、右端から左端まで届いてしまう甲板だ。余計なものを片付けないと、邪魔な段ボールを退けておくスペースも取れない。

「まあ、天地無用って感じじゃなさそうだったしなあ」

 アルハンブラの口からタバコの煙が上がり、入れ替わりに顎が下がる。

「ゴミに壊れ物も何もないでしょ……」

 ボヤくようにつっこみ、タニアは肩幅に足を開いた。

 あの人との「ごっこ遊び」を思い返し、ふくらはぎに力を込めていく。ランニングで鍛えた腿が張り詰め、体重を掛けられた甲板が鈍くきしむ。


「フォイアーキーック!」

 脳内BGMの主題歌に合わせて絶叫し、ヘブンイレブンの袋に渾身の飛び蹴りを見舞う。がきーん! と荒々しい衝撃音が天を震わせ、荒波に揉まれたように船体が揺れる。

 手応てごたえ――と言っていいのか、靴底に伝わってきた感触は妙にぶよぶよしている。そのくせ芯にはカルシウムっぽい硬さがあり、激突した足をじ~んと痺れさせる。ウイッグしか入っていないように見えたが、生焼けのスペアリブでも交じっていたのだろうか。


 うげえ!


 一撃必殺のキックが袋を弾き飛ばした刹那、ヒキガエルのような悲鳴。


 ……アレ?

 コンビニのレジ袋って喋ったっけ?

 目を白黒させるタニアを余所よそに、出来たての放物線が宙を舞う。なぜだか全く触れていないはずのゴミ袋まで吹っ飛び、甲板のふちを跳び越えていった。

 瓢箪ひょうたんのように連結した二つの袋が、太陽の真下を横切っていく。背面跳びそっくりのアーチは見る見る高度を落とし、ガッチガッチに固められた舗道に突っ込んだ。

瓢箪ひょうたん」の連結部が直角に曲がり、べしぃ! と言う墜落音がタニアの鼓膜を殴打する。そう、コンクリの壁にスイカを叩き付けたような音が。


 硬い舗道に打ち返され、二つの袋が弾みだす。がん、がんと低くバウンドする残像は、次第に沿道のブロック塀へ近付いていった。

 激烈な衝突音が歯の根を震わせ、二つの袋が塀の根元に転がる。同時にゴミ袋の脇から痩せ細った枯れ枝がこぼれ落ち、道路にへばり付いた。

 五本に分かれた枝先に、赤く日焼けした樹皮じゅひ

 ぴくりとも動かないくせに、生命線は手首まで伸びている。

 何回も波打つ運命線は、大河ドラマばりの波瀾万丈をタニアに予感させた。


 枯れ枝……?


 いや、あれは……、


 あれは……、


 ヒトの腕だ。

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