第一章『来訪者X』
①沸騰タニア
八月を目前に控えた太陽は、ギンギラギンに輝いていた。
雲一つない青空から白銀の日差しが降り注ぎ、乳白色の道路を
〈ロプノール〉三丁目商店街を行き交うお年寄りたちは、生気のない顔で天を
「どいて! どいて!」
目の前の老婆をがなり立て、タニア・ミューラーは曲がり角から飛び出した。
大きく腕を振り、踏み抜かんばかりに地面を蹴る。曲がるために落としていたスピードが上がると、勢いを取り戻した向かい風が
ドラムロールのような靴音に
急げ! 急げ! 心音に
上気した褐色の肌は、メッシュのパーカーとジャージ生地のハーフパンツに包まれている。一一歳の女子にしては色気のないコーデだが、動きやすさと通気性に関してはお墨付きだ。
年齢の割に背は低く、手足は鶏ガラのように細い。〈トルファン〉第一〈
体型にはメリハリがなく、平らな胸は肋骨の硬さばかりを感じさせる。発育を促すために揉んでも、一向に膨らむ気配はない。むしろ風呂場で孤独な戦いを続けるほど、
「そうか、もう一ヶ月
「年を取ると、時間が
タニアの顔を見れば草むしりをねだるマツさんに、年々開店時間の遅くなる豆腐屋――普段以上にけたたましい足音を聞き付けた人々が、
「タニアちゃん、いいブドウ入ったよ、どうだい!?」
威勢よく呼び掛け、八百屋のクマさんが黄色い房を
スイカ、モモ、リンゴ――
ハミウリはタクラマカン砂漠原産のメロンで、〈ロプノール〉北方の〈ハミ〉や〈トルファン〉で栽培されている。シャリシャリとした独特の食感は、柔らかくしたシャーベットとでも言うべきか。オレンジ色の果肉は網目模様のお仲間より遥かに甘く、見た目にも美しい。
息を吸うついでに大きく鼻を広げると、瑞々しい香りがタニアの気道を流れ落ちていく。胸一杯に爽やかな酸味が行き渡ると、サウナ状態だった肺が少しだけ温度を下げた。
乾いた喉がぐびりと波打ち、
「今日はいい!」
足も止めずに言い放ち、タニアは
「ははっ、フラれたな」
落ち込むクマさんに、向かいの魚屋から野次が飛ぶ。
小馬鹿にするように欠けた前歯を覗かせていたのは、
「タニアちゃん、まぁた沸騰かい?」
からかうように問い掛け、ハチさんは
沸騰!?
何事にも全力投入のオ・ト・メに、何てことを言うのか!
心ないあだ名への義憤が、タニアの視界を真っ赤に塗る。昼時の往来が茜色に染まると、トロ箱のサバがモンスター級の金魚に変わった。
「タコが霊長類の言葉吐くな! 墨でも吐いてろ!」
タニアは怒鳴り、八重歯を
「タ、タコ……」
唖然と口を開け、ハチさんはザ・
「そうだ! タコは大人しく水槽に入ってろ!」
「何だと!? テメェだってジャガイモみてぇなツラしてるくせに!」
「テメェの女房なんかヘチマみてぇじゃねぇか!」
ジャガイモとタコは血走った目を
電器屋、本屋、白いたい焼き屋と、数奇な
商店街の入口に
けばけばしく造花で
「……ゆるキャラブームなんて、とっくに終わってるっての」
タニアはその場に溜息を残し、待ち合わせ場所のアーチに駆け寄る。砂に研磨され、傷だらけになった支柱が近付くにつれて、晴れていた視界は象牙色に
アーチの向こうに広がる住宅街を、お
ハコフグを
ごほごほ、ごほごほ……。
いがらっぽい噴出音と共に白煙が路面に吹き付け、薄く積もった砂が舞う。船体の背後には砂煙が掛かり、雲一つない空を粉っぽく曇らせていた。
「船が航行している」と言っても、住宅街に水路が張り巡らされているわけではない。ボロ船の航路になっているのは、何の変哲もない舗道だ。水路どころか水溜まり一つない。〈
海原でも
その秘密は船底と道路の間に張った、半透明の
一見すると巨大な
どくん! どくん!
待ちに待った船影が、タニアの鼓動を一層激しくしていく。血流が天井知らずに速まり、機械的に腕を振っていた肩がそわそわと揺れ動く。
もうすぐあの人に逢える! あの人に逢えるんだ!
歓喜の声が脳裏に響き渡り、目に映る物体が金貨のように輝きだす。先程まで砂塵でくすんだシャッター通りだった場所が、今や極東にあると言う黄金の国だ。
もう待てない!
タニアは待ち合わせ場所のアーチを潜り抜け、船体に駆け寄る。
地面を蹴り、蹴り、蹴りまくり、うすのろな身体を前に突き出していく。スピードに付いて行けなくなった景色が無数の横線に変わり、背後にすっ飛ぶ。船影を包む砂煙に突っ込むと、目の前に歯を満開にしたアホ
オフホワイトの船体が、タニアの顔をくっきりと映し取っている。八重歯まで見て取れる鮮明さは、とてもすり傷だらけのボロ船を鏡にしているとは思えない。まあ、使い古しの牛乳瓶だって4Kな鏡像を映すだろう。正面衝突までコンマ数秒の距離まで肉薄すれば。
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