第一章『来訪者X』

①沸騰タニア

 八月を目前に控えた太陽は、ギンギラギンに輝いていた。

 雲一つない青空から白銀の日差しが降り注ぎ、乳白色の道路をあぶっている。冬場には温かみを感じるぎょくの鋪装も、この季節になるとどうしようもなく暑苦しい。白濁した石畳が薄く陽炎を漂わせる姿は、燃えさしのロウソクか、融け始めの牛脂ぎゅうしのようだ。

〈ロプノール〉三丁目商店街を行き交うお年寄りたちは、生気のない顔で天をあおいでいる。申しわけ程度に生温かい風が吹くと、シワに貯水した汗がよろよろと垂れた。


「どいて! どいて!」

 目の前の老婆をがなり立て、タニア・ミューラーは曲がり角から飛び出した。

 大きく腕を振り、踏み抜かんばかりに地面を蹴る。曲がるために落としていたスピードが上がると、勢いを取り戻した向かい風が赤銅色しゃくどういろの髪を巻き上げた。首に巻いたタオルが一瞬浮き、トレードマークのポニーテールが意気揚々と弾む。

 ドラムロールのような靴音にあおられたのか、ただでさえ強く胸を打っていた鼓動がテンポを上げていく。下手に足を止めようものなら、興奮した心臓だけが駆け出して行ってしまうかも知れない。


 急げ! 急げ! 心音にき立てられたタニアは、三段跳びのようにストライドを広げる。汗を散らしながら大通りを駆け抜けると、そば屋、弁当屋と連続するショーケースがタニアを写し取った。

 上気した褐色の肌は、メッシュのパーカーとジャージ生地のハーフパンツに包まれている。一一歳の女子にしては色気のないコーデだが、動きやすさと通気性に関してはお墨付きだ。目深まぶかかぶったキャップは熱中症対策で、首に巻いたタオルは日焼け防止と汗拭きを兼任している。


 年齢の割に背は低く、手足は鶏ガラのように細い。〈トルファン〉第一〈小詐校しょうさっこう〉では、五年間、背の順の先頭を任されていた。一度でいいから、「前へならえ」で腕を伸ばしてみたい。

 体型にはメリハリがなく、平らな胸は肋骨の硬さばかりを感じさせる。発育を促すために揉んでも、一向に膨らむ気配はない。むしろ風呂場で孤独な戦いを続けるほど、しぼんでいく気がする。マッサージのしすぎで、内容物の脂肪が分解されてしまったのだろうか。


「そうか、もう一ヶ月ったのかい」

「年を取ると、時間がつのが早くなるねぇ」

 タニアの顔を見れば草むしりをねだるマツさんに、年々開店時間の遅くなる豆腐屋――普段以上にけたたましい足音を聞き付けた人々が、こぞってよもやま話を始める。しみじみとタニアを見つめる目は、三月三日の三人官女や、五月五日の鯉のぼりを眺めているかのようだ。決まった時期に繰り返される光景を見て、時の流れを噛み締めているらしい。


「タニアちゃん、いいブドウ入ったよ、どうだい!?」

 威勢よく呼び掛け、八百屋のクマさんが黄色い房をかかげる。腕を上げた拍子に紺の前掛けがはためき、り用の帽子をかぶった頭から汗が垂れた。

 スイカ、モモ、リンゴ――八百熊やおくまの店頭は原色の見本市だ。ラグビーボール似のハミウリは、クリーム色の果皮かひを活き活きと輝かせている。

 ハミウリはタクラマカン砂漠原産のメロンで、〈ロプノール〉北方の〈ハミ〉や〈トルファン〉で栽培されている。シャリシャリとした独特の食感は、柔らかくしたシャーベットとでも言うべきか。オレンジ色の果肉は網目模様のお仲間より遥かに甘く、見た目にも美しい。


 息を吸うついでに大きく鼻を広げると、瑞々しい香りがタニアの気道を流れ落ちていく。胸一杯に爽やかな酸味が行き渡ると、サウナ状態だった肺が少しだけ温度を下げた。

 乾いた喉がぐびりと波打ち、干上ひあがっていたはずの口に唾が広がっていく。昨日や今日なら即八百熊やおくまに上がり込んだだろうが、何しろ今日は第二週の金曜日だ。果汁一〇〇㌫の給水場より魅力的な代物が、今や遅しとタニアを待っている。


「今日はいい!」

 足も止めずに言い放ち、タニアは八百熊やおくまの店先を駆け抜ける。にべもなく断られたクマさんは、自慢げにかかげていたブドウごと肩を落とした。

「ははっ、フラれたな」

 落ち込むクマさんに、向かいの魚屋から野次が飛ぶ。

 小馬鹿にするように欠けた前歯を覗かせていたのは、魚八うおはちの店主ハチさん。ねじりハチマキを巻いたハゲ頭が陽光を反射し、ピカピカと光輝いている。


「タニアちゃん、まぁた沸騰かい?」

 からかうように問い掛け、ハチさんは磯臭いそくさい指をラーメン屋に向けた。ナルトの描かれた立て看板の上で、せいろのオブジェがピーピーと白煙を吹いている。


 沸騰!?

 何事にも全力投入のオ・ト・メに、何てことを言うのか!


 心ないあだ名への義憤が、タニアの視界を真っ赤に塗る。昼時の往来が茜色に染まると、トロ箱のサバがモンスター級の金魚に変わった。

「タコが霊長類の言葉吐くな! 墨でも吐いてろ!」

 タニアは怒鳴り、八重歯をき出しにし、ハチさんを睨み付ける。真っ赤な視界に収まったハゲ頭は、茹でダコと言う他ない。少なくとも、絶対に哺乳類ではない。


「タ、タコ……」

 唖然と口を開け、ハチさんはザ・頭足類とうそくるいな頭を撫でる。一部始終を見ていたクマさんは豪快に笑い、先程のお返しとばかりに野次を飛ばした。

「そうだ! タコは大人しく水槽に入ってろ!」

「何だと!? テメェだってジャガイモみてぇなツラしてるくせに!」

「テメェの女房なんかヘチマみてぇじゃねぇか!」

 ジャガイモとタコは血走った目をき出し、胸ぐらをつかみ合う。罵声と唾の撃ち合いを尻目に、タニアは大通りをひた走る。

 電器屋、本屋、白いたい焼き屋と、数奇な変遷へんせんを辿った空き家を通り過ぎ、T字路をまっすぐ進む。昨年閉店した靴屋の前を駆け抜けると、視界の奥に鉄骨製のアーチが現れた。


 商店街の入口にそびえ立つそれは、悠々と二階建ての惣菜屋を見下ろしている。城門を彷彿とさせる重厚な雰囲気――客足の減少に追い詰められた町会長が、年間予算の三分の二を注ぎ込んだだけのことはある。

 けばけばしく造花で縁取ふちどられた横断幕おうだんまくには、「おいでませ! ロプノール三丁目商店街!」と染め抜かれている。台形の頭にカラメルの髪を生やしたイラストは、ご当地のゆるキャラ「ロプリン」。年間予算の三分の一を投入した着ぐるみは、お正月以来、町会長宅の物置で出番を待っている。

 限界げんかい集落しゅうらく一歩手前の〈ロプノール〉では、住民の九九㌫が腰痛を持っている。スーツアクターを見付けようなど、ハナから無理な話だったのだ。


「……ゆるキャラブームなんて、とっくに終わってるっての」

 タニアはその場に溜息を残し、待ち合わせ場所のアーチに駆け寄る。砂に研磨され、傷だらけになった支柱が近付くにつれて、晴れていた視界は象牙色にかすんでいった。

 アーチの向こうに広がる住宅街を、お馴染なじみのボロ船が航行している。えっちらおっちら平屋ひらやの間を這う姿は、半分浸水しているかのようだ。

 ハコフグをかたどった船体は釣り船ほどの大きさで、側面には「ミューラー商店」の文字が刻まれている。船尾のノズルは咳き込むように圧縮空気を噴き、甲板に積まれた段ボールをガタガタと揺らしていた。


 ごほごほ、ごほごほ……。

 いがらっぽい噴出音と共に白煙が路面に吹き付け、薄く積もった砂が舞う。船体の背後には砂煙が掛かり、雲一つない空を粉っぽく曇らせていた。

「船が航行している」と言っても、住宅街に水路が張り巡らされているわけではない。ボロ船の航路になっているのは、何の変哲もない舗道だ。水路どころか水溜まり一つない。〈詐術師さじゅつし〉のタニアにとっては見飽きた光景だが、人間がの当たりにしたら確実に腰を抜かすことだろう。


 海原でもつまずきそうなスクラップが、なぜ陸上を移動出来るのか?


 その秘密は船底と道路の間に張った、半透明の薄膜うすまくにある。

 一見すると巨大な寒天かんてんにも思えるそれは、「嘘によって作り出した水面」だ。端的に言うなら、「超局地的な海」とでも形容したところか。ピッタリと船底に貼り付き、陸海問わずに船を航行させる。


 どくん! どくん!

 待ちに待った船影が、タニアの鼓動を一層激しくしていく。血流が天井知らずに速まり、機械的に腕を振っていた肩がそわそわと揺れ動く。


 もうすぐあの人に逢える! あの人に逢えるんだ!


 歓喜の声が脳裏に響き渡り、目に映る物体が金貨のように輝きだす。先程まで砂塵でくすんだシャッター通りだった場所が、今や極東にあると言う黄金の国だ。


 もう待てない!


 タニアは待ち合わせ場所のアーチを潜り抜け、船体に駆け寄る。

 地面を蹴り、蹴り、蹴りまくり、うすのろな身体を前に突き出していく。スピードに付いて行けなくなった景色が無数の横線に変わり、背後にすっ飛ぶ。船影を包む砂煙に突っ込むと、目の前に歯を満開にしたアホづらが現れた。試着室や洗面所でよくはち合わせる顔だ。


 オフホワイトの船体が、タニアの顔をくっきりと映し取っている。八重歯まで見て取れる鮮明さは、とてもすり傷だらけのボロ船を鏡にしているとは思えない。まあ、使い古しの牛乳瓶だって4Kな鏡像を映すだろう。正面衝突までコンマ数秒の距離まで肉薄すれば。

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