『山彦』
矢口晃
第1話
昔々、ある大きな山の麓にとても貧しい村がありました。先祖代々その土地に暮らす三十人ばかりの村人は、簡単な作物を作ったり、養蚕をしたりしてどうにかこうにかつましい生活を続けておりました。
春も深くなったある日のことです。その日は朝から暖かで、すっかり緑色の草に覆われた地面からは、ゆらゆらと陽炎が立ち上っていました。村から少し離れた小さな川のほとりには黄色い菜の花が咲いて、ゆらゆらとそよ風にゆられています。たくさんのきじばとが山の上から下りてきて、しきりに地面に落ちている餌をついばんでいました。
村に冬にいっぱい降った雪もこのところの陽気でようやく溶けて、村人たちは雪解け水でぬかるんだ地面にたくさん足跡をつけながら、作物の植え付けの準備のために、畑に降りてしきりに鍬を動かしていました。やわらかな土には小石が多く、取っても取っても一向に少なくなりませんから、畑仕事もなかなかはかどりません。男たちが畑を耕している間、女たちは笊に小石を集めて遠く離れた河原まで捨てに歩きます。
するとその村の畑の中へ、ある日突然見知らぬ男が現れました。初めて見る男を前に村人たちがきょとんとした顔をしていますと、筋骨隆々としたたくましいその若い男は、村人たちに向ってこのように話すのです。
「私はここから山を二つ隔てた村からやって来た者です。よかったら、皆さんの仕事を手伝わせて頂けませんか」
突然の男の申し出に、村人たちが驚いたのも無理はありません。第一、いったい何のためにこの男が村人たちを手伝おうと言っているのかさえ、彼らには定かではないのでした。
村の一人の男性が、その男に尋ねました。
「おめえの名は、いってえ何と言うだ?」
若いその男は、白い歯を見せながらこう答えました。
「私はやまひこと言います」
「やまひこ? 聞かねえ名だな」
村人たちの間に、ざわめきが起こり始めました。するとそのざわめきなど気にするそぶりもなく、やまひこと名乗るその男は、いきなり、
「貸して下さい」
と言って一人の村人の持っていた鍬を取り上げるように借りると、その次の瞬間にはもうせっせと畑を耕し始めているのです。
戸惑う村人たちは一人で黙々と働くやまひこの姿を、初めはただ茫然と眺めていました。しかしやまひこはそんなことに構わず、どんどん畑を耕していきます。その耕す速さと言ったら、村人三人分よりもっと速いのでした。次第に村人たちも「こうしてはいられない」という気になって、やまひこの後に続いて、せっせと鍬をふるい始めました。
やまひこが来てからというもの、村の畑は瞬く間に広くなっていきました。村人たちはみんなで、やまひこの来てくれたことを喜びました。そもそも、村には年頃の若い働き手がいなかったのです。そこにある日、風と共に百人力のやまひこが来てくれたのは村人たちにとってどれほどありがたかったことでしょう。やまひこの活躍のお陰で、村人たちはこの春、例年の倍以上の作物の種を埋めることができました。
そんなある日のことです。やまひこは村人たちを村の中央に集めて、何やら話を始めました。村人たちはその話に、一心に耳を傾けています。
その時やまひこは、村人たちに思いもよらないことを言い出しました。
「この村の中央に、川を流しましょう」
「え? それは無理だ」
村人の一人が、渋い顔をしてそう言いました。しかしやまひこはいつものようににっこり笑うと、
「でも村に川が流れれば、そこで魚だって取れるし、田圃を作って米を作ることもできます」
その言葉を聞いて、今度は村の長老がやまひこに意見を言いました。
「じゃが、村の川は村から一町も離れたところを、わずかに細く流れているだけじゃ。その川を村に引こうと言ったって人手も足らぬ」
「何。私ひとりでできますから、どうか任せて下さい」
「何? 一人でじゃと」
この言葉には、長老を始め村人全員が仰天しました。でも、やまひこだけは自信満々で、かえって胸を反らせながらこう言うのです。
「今この村の外れを流れているのは、もともと大きな川から枝分かれした支流です。本流はもう少し山の上の方から、村とは反対の方向へ向かって流れているのです。その川を堰き止めてこの村の真ん中を流れるようにするのです」
「やめろやめろ。いくらお前さんが若くて力持ちだと言っても、そんな危ないことをさせるわけにはいかねえ」
村人の一人が必死でやまひこを止めようとします。しかし一度やると決めたやまひこの気持ちは、誰にも止められないのでした。次の日からやまひこは、朝のまだ薄暗いうちから一人で鋤を持って村の後ろに控える大きな山の中へ入ってゆきました。
それから夏が本番を迎え初蝉が鳴き始めるころになっても、やまひこは朝早くから夜遅くまで、一人で山の中で黙々と働いていました。初めはまるで他人事のように取り合わなかった村人たちも、自分たちのために懸命に汗を流すやまひこの姿を見て、誰からともなく、一人また一人とやまひこを手伝うようになっていまいた。そして蝉しぐれが村いっぱいに降り注ぐ頃には、何と村の真ん中に、幅三間、深さ十尺ほどの大きな溝が出来上がっていたのです。
長老をはじめ、村の人々全員が、これをみて舌を巻きました。まさかこんな短い時間で、わずか四、五名の人手でこんな溝が掘れるとは思っていなかったからです。泥だらけの格好で長老の前にやってきたやまひこは、きらきらと額に汗を輝かせながら明るく言いました。
「長老、村のみんなの協力もあって、やっとここまできました。後は、上流の流れを堰き止めて、この溝に水を流すだけです」
「おお。よくやってくれた。ありがとう、ありがとう」
長老は心からの感謝を込めて、固くやまひこの手を握りました。
次の日、村の男たちと再び山に入ったやまひこは、最後の大仕事に取り掛かりました。白いしぶきをあげて流れる源流から、自分たちで掘り上げた溝へ流れを引き込んだのです。やまひこたちは大きな石をいくつも積み上げて川の流れを遮るように堤防を作りました。堤防がある程度の高さになった後、たくさんの土砂を使って川の流れを止めました。行き場を失った川の水は東西に大きくあふれ出し、やがてやまひこたちの作った溝の方へ引き寄せられるように流れ始めました。その水は深く掘られた溝を伝って、初めはちょろちょろと村の中を流れるだけでしたが、日にちが経つにつれ次第に溝には水が満ち、いつしかそこには見事に大きな川が出来上がっているのでした。
村人たちは万歳をしてやまひこと川の完成を喜び合いました。やまひこは再び長老の前にお辞儀をして、こう言いました。
「長老。山には毎年たくさんの雪が降ります。その雪解け水が春には川となって、一年中この村を潤してくれることでしょう」
長老は感謝のしるしとして、村一番の美人で自分の娘であるちよをやまひこに娶らせました。二人は誰が見てもうらやむ、若くて美しいお似合いの夫婦になりました。
ところがそんな喜びも束の間、ある日忽然とやまひこが姿を消してしまいました。村人たちがみんなで心配し合っていると、その次の日、何食わぬ顔でやまひこが村へ帰ってきました。やまひこのいつもに変わらない元気そうな笑顔を見て、村の人々はほっと胸をなでおろしました。ちよは、まる一昼夜もかけてどこへ行っていたのかとやまひこに問い詰めました。するとやまひこは背中に担いでいた大きな革袋の口を開けて、ちよに覗かせました。革袋の中にはたくさんの水が入っているようでした。
「いったい、これは何の水なの?」
ちよは不思議そうにやまひこに尋ねます。やまひこはこう答えました。
「この水の中にはサケという魚の稚魚が、何百匹も泳いでいるのだよ」
「サケ? それはおいしい魚なの?」
ちよは初めて耳にするその魚について、やまひこに聞き返しました。やまひこはにっこりと笑うと、
「サケという魚はね、川で育ったあといったん海に出て、海でお腹にたくさん卵をこしらえると、また自分の育った川に産卵のために戻ってくる、そういう不思議な魚なのだよ」
「海で?」
「そうさ。そしてそのサケのお腹に詰まった卵はイクラと言ってね、とてもおいしくて栄養のある食糧なんだ。いったんこの村にサケが住み着けば、この村では毎年おいしいイクラが取れる。村の人たちが、もっと豊かに暮らせるようになるのだよ」
言い終わるとやまひこは、苦労して担いできた袋の水を、村の川にゆっくりと流し始めました。革袋の中にいたたくさんのサケの稚魚が、川の中に放流されました。
「このサケが海に出てまた帰ってくるまでに、少なくとも二年はかかるだろう」
滔々と流れる川面を見つめながら、やまひこは静かにそう言いました。
「二年たったら、そのイクラが食べられるのね?」
ちよはやまひこの顔を見上げながら、そう言いました。やまひこはちよの言葉に満足そうに頷きながら、しばらくじっと川の上に目を落としていました。
さて、それからの二年の間にも、やまひこ力で村の暮らしはどんどん豊かになってゆきました。まずやまひこは日当たりのいい山の斜面を利用してたくさんの果樹園を造りました。また一年中清冽な流れをたたえる川を利用して、紙作りも始めました。米や麦も毎年食べきれないほど収穫できました。この村の噂を聞きつけて、遠いい村から続々とこの村に新しい人々が移り住んできて、村の人口はあっという間に百人を超えました。牛の鳴き声があちらこちらで聞こえ、家の煙突からは白い煙がもくもくと上がっています。のどかな田園の風景が、大きな川を中心にどこまでも広がってゆきました。
そしてやまひこがサケの稚魚を川に放してから二年目の秋には、まるまると太った何匹ものサケが、卵を産みに村の川へ戻ってきました。
やまひこがその一匹を捉えて腹を裂くと、中からはきらきらとまばゆく輝く宝石のような卵がいくつも出てきました。やまひこがお手本を示すようにその卵を口に入れます。
「ああ。甘くてとてもおいしい」
やまひこの言葉を聞いて最初は半信半疑だった人々も、恐る恐るその卵を口の中に運びました。そしてその後には、村の誰もが、イクラのあまりのおいしさに目を丸くして驚きました。
やまひこは、村のみんなに注意を与えました。
「いいかい。サケを全部獲ってしまってはいけないよ。ちゃんと卵を産ませれば、サケは来年も必ず帰って来てくれるから。数年後、この川がおびただしい量のサケで賑わうようになったら、そのイクラを村の特産にして、他の村との交易に役立てよう」
やまひこのこの提案に、村の全員が賛成をしました。
さて、それから二、三日経った日のことです。また朝から、やまひこの姿が見えなくなってしまいました。でも、前にも何度かやまひこは突然いなくなったことがあり、その度に村の人々は心配をしたのですが、やまひこはその後一日ほどでけろっとした顔で、必ず何か村にお土産を持って帰って来ていたので、今度も待っていればきっとすぐに帰ってくるだろうと、村のみんなは心配もせず、やまひこの帰りを待っていました。
それでも、今回はどうも様子がおかしいと村の人々が思い出したのは、それから二日経ってもやまひこが帰って来なかった頃からです。
「もしかしたら、どこかへ行く途中で、道に迷ったのではないか」
「どこかでけがをして、動けずに困っているのかも知れない」
そう思って心配になりだした村の人々は、その翌日から手分けをして村の近辺を捜索し始めました。
しかし何日歩いても、やまひこの姿はどこにも見当たりません。妻のちよはだんだん不安になって来て、夜も眠れなくなってしまいました。村の人々は総出で、毎日やまひこを探し回りました。が、やまひこの足取りをつかむ手掛かりは、何一つとして発見できませんでした。
ちよは毎晩、座敷の上でしくしくと泣きました。すっかり憔悴したちよを慰めるため、長老が毎日ちよの家に通ってちよを慰めました。
「いったい、どこへ行ってしまったんだろう」
誰もが、そんな焦りに駆り立てられていた、ある晩のことです。その日は、大きな満月が村の空に燦々と輝いていました。ちよは泣きはらした目を座敷の窓に向けながら、そこから見える大きな月をぼんやりと眺めていました。
するとちよの眺めていたその月が、ひときわぼうっと明るく光ったかと思いますと、突然ちよの耳に、あのやまひこの声が聞こえてきたのです。
「ちよ。私はやまひこだ」
「やまひこ!」
ちよは咄嗟に振り向きました。しかし振り向いた先には、柱に寄りかかったまま転寝をしている長老の他、誰の姿も見当たりません。
「やまひこ! 一体どこにいるの?」
「ちよや。すまないが、いくら探しても、私はもうそこにはいないのだよ」
ちよは真っ暗な家の中を、それでも満月の光を頼りにやまひこの姿を探し続けました。
「ちよ。いま私は、遠いところから心を通じてお前に話しかけている。これから私の言うことを、どうか信じておくれ」
ちよは月を見上げました。月はさっきより一層力強く輝いています。
「ちよ。実は私は、人間ではなかったのだ。私の本性は、山の神なのだ。諸国にある貧しい村を回りながら、そこに生きる人々の手助けをするのが、私の役目なのだ」
「やまひこ……やまひこ……」
ちよはまぶしい月を見上げながら、何度も口の中で繰り返しそう呟きました。声は、なおもちよに優しく語り続けました。
「ちよの村は、村人たちの力で今ではだいぶ豊かになった。もう私がいなくても、お前たちの村は大丈夫だろう。私はそろそろ違う村に渡り、また新たな人々を助けようと思う。これからは、ちよたちみんなが力を合わせて、自分たちの村を支えて行っておくれ」
「でも、私は……」
ちよは涙を零しながら心の中で訴えかけました。ちよの心の中には、優しいやまひこの姿が目に浮かぶように映っていたのです。
やまひこの声は、慈しむようにちよにこう言いました。
「ちよや。お前の前から、こうして突然姿を消さなくてはならなくなったことは、本当にすまなく思っている。でも、安心しておくれ。私はいつでも、遠い空の下から、お前を見守っているから。さびしくなったら、いつでも会えるんだよ」
「……いつでも?」
「ああ。いつでもさ。嘘だと思ったら、明日村の男たちと、山の頂上まで登ってごらん。そして頂上まで行きついたら、お腹のそこから大きな声で、私に呼びかけるのだ。お前の声が聞こえたら、私も必ず呼び返すからね」
ちよは涙を手のひらで拭いながら、だんだん薄くなるやまひこに向かって言いました。
「必ず、必ずですね」
「ああ。必ずさ」
そう言うと、ちよの心の中に映っていたやまひこの姿は、山の霧が晴れるように次第に遠く薄くなって行ってしまいました。
ちよは慌てて、
「待って、行かないで」
と叫びましたが、その時にはすっかりやまひこの姿は消えてしまい、それから声も一度も聞こえなくなってしまいました。
夜が明けると、ちよはさっそくやまひこに言われた通り、村の男二人と一緒に山を登り始めました。それほど高くはない山でしたが、ちよの足では頂上まで登る頃には、時間はすっかり昼近くになっていました。
それでもやっとの思いで山の頂上に辿り着くと、ちよは夕べやまひこの声が教えたように、お腹に力を込めて精一杯の大きな声で、
「おおーい」
とやまひこに向かって呼びかけました。すると、どうでしょう。その後しばらくたってから、ちよの呼びかけた山の向こうから、まるでちよの声に答えるかのように、
「おおーい」
とはっきりと声が聞こえたではありませんか。
「やまひこだ。やまひこが答えているんだ!」
興奮したちよは、両手を口元にあてて続けて叫びました。
「やまひこおお」
するとやはり山の向こうから、
「やまひこおお」
と声が返ってきます。
脇で見ていた二人の男も、つられて声を出し始めました。
「元気かあー」
一人の男がそう言うと、山の向こうから、
「元気かあー」
と声が返ってきます。
「こっちは元気だぞおー」
また一人の男が声を張り上げると、向こうからも、
「こっちは元気だぞおー」
と声が返ってきます。
やまひこが、見てくれているんだ。そう思うとちよは嬉しさのあまり、それから何度も遠い空の下のやまひこに向かって色々な声をかけ続けました。その声はきっと、どこかにいるやまひこの耳にも届いていたにちがいありません。
この後もやまひこは、日本中の貧しい村々を回って、住民たちに力を貸し続けました。何十年後かには、日本中の村でやまひこの訪れない村は一つもなくなったくらいでした。そしてやまひこは一つの村を去る時、村人たちを勇気づけるために、必ずある言葉を残していったのです。それは、
「私はいつでもあなたたちを見守っています。もし嘘だと思ったら、山の頂上に登って、大きな声で私に呼びかけてみて下さい。あなたたちの声が聞こえたら、私も必ず呼び返しますから」
というものでした。そしていつしか日本中の山で、やまひこの声の聞こえない山はほとんどなくなったのでした。
そしてやまひこは「やまびこ」と呼ばれるようになった今でも、遠い空の下から、いつでも私たちの生活を見守ってくれているのです。
『山彦』 矢口晃 @yaguti
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