第2話

 ふわりと浮き上がるような感覚がして目が覚めた。何か夢を見ていたような気もするが、よく覚えていない。――というか、思い出したくないと言うのが正しい。ゲームの主人公に転生するだとか、荒唐無稽こうとうむけいすぎて正気を疑うような内容だ。疲れているんだろうか。

 ため息をついて右手で顔を覆い、夢の残滓ざんしを振り払った。まばたきを繰り返してから目を開ける。

 視界に映るのは天井を四角く切り取るカーテンレールと、そこから垂らされる白いカーテンだった。体を起こしてみれば、どうやらわたしはベッドに寝かされていたらしい。周囲はベッドを仕切るようにカーテンで覆われており、全体的な部屋の白さも相まって保健室を連想させた。

 なぜ自分が保健室にいるのかを理解できず、上体を起こした姿勢のまま首を傾げた。倒れてかつぎ込まれでもしたんだろうか?

 とりあえず状況を確認しようと、カーテンの隙間から顔を出して周囲を見やる。

 カーテンの外に広がる景色は、予想通り保健室のそれだった。整然と並ぶベッドに、壁際に据えられた薬品などが納められているであろう大きな戸棚。戸棚の向かいには書き物をするための机が設置され、部屋の中央に長机とイスが数脚向かい合うようにして置かれている。ベッドには今わたしが掴んでいるのと同じ仕切り用のカーテンが、それぞれ束ねられた状態で吊り下げられていた。調度品も含め、やはり室内は白っぽい。

 室内の様子を観察していると、視線を感じたのか机に向かっていた人物がこちらへと顔を向けた。白の詰め襟服の上から白衣を羽織り、仕事の邪魔にならないようにだろう、黄褐色おうかっしょくの髪をうなじのあたりでシニヨンにまとめている。灰緑色の瞳は細く、どこか眠たそうだ。

 認識した女性の顔に、思わずわたしは身を強張らせる。女性の方もわたしに気づいたようで、わずかに目を見開いた。束の間見つめ合う形となったが、すぐに彼女は顔を横へと向ける。

「――ああ、ちょっと待て。気がついたようだぞ」

 その言葉に、ガラリと引き戸を開けるような音が響いた。続いて誰かが室内へと入ってくる物音。高く靴音を響かせながら、その誰かはわたしがいるベッドの方へと近づいてくる。

「気分はどうですか? ルーシャ・ティアニー君」

 問いかける調子のやわらかな男声に恐る恐る顔を上げると、緑の詰め襟服を着た男の人が眼前に立っていた。視線が合うと、彼はにこりとほほえんだ。だがわたしには笑い返す余裕がない。蛇に睨まれた蛙のごとく、硬直するだけだ。


 ――ちょっと待って、さっきのは夢じゃなかったの!?


 そう叫びそうになる衝動を必死になって抑える。

 目の前にいるのは藍色の髪に切れ長の琥珀色の瞳を持つ、優しそうな印象の男性だ。スラリとした細身の体に、軍服めいたデザインの緑の詰め襟服がよく似合っている。顔立ちも整っており、街ですれ違ったならばほとんどの女性が足を止めて振り返るだろうと思われた。

 だが問題はそこではない。彼が先ほど見た荒唐無稽な夢の中に出てきたというところにある。

 加えて、わたしはこの男性をよく知っていた。ゲーム【学園都市シュルトバルト】のキャラクターの一人として。

 彼の名はホレス・バーンズ、学園の教師であり、学科長の一人だ。左腕につけられた紫色の腕章が彼の立場を示している。穏やかな物腰が示す通りの真っ当な常識人だが、やや説教臭いところが玉にきずである。

 ちなみに最初から室内にいた女性もゲームのキャラであり、学園の保健医を務める傍ら教鞭も執っているエイダ・ベイリーだ。全滅からの復帰場所が保健室であるために彼女を目にする機会は多く、記憶に残っていた。

「……大丈夫ですか? まだ具合が悪いようなら、寝ていた方がいいと思いますよ?」

 見上げたまま返事をしないわたしの様子に何か誤解でもしたのか、バーンズさんがわずかに首を傾げてそう告げた。それにハッと我に返り、わたしはあわてて首を横に振る。

「いえ、大丈夫です」

 バーンズさんはなおも心配そうな眼差しでわたしを見ていたが、やがて小さくうなずいた。

「ここは学園の保健室なのですが、なぜきみがここに運び込まれることになったのか理解していますか?」

 ちょうど抱いていた疑問について問われ、わたしは再度首を横に振った。おそらく何かしらあって倒れたのだろう、くらいしか想像がつかない。

 そう告げると、やはりと言いたげにうなずいてバーンズさんは口を開いた。

「入学試験の最中に器具が破損するという事故が起こったのです。きみはその事故で頭を強打して意識不明になったため、保健室に運ばれたというわけです」

 語られた理由に思わず言葉を失う。何とも間が悪いと言うか、鈍くさいと言うか……。下手すれば大怪我をしていた可能性もあるということを考えれば、頭を打ったくらいで済んでよかったと思うべきなのかもしれない。――前世の記憶とかいう妙なオマケがついてきた件は、全力で見ないフリをする。

「それは……ご迷惑をおかけしました」

 ぺこりと頭を下げてそう言うと、小さな笑い声が降ってきた。

「いいえ、きみが謝ることではありません。むしろ謝罪すべきは我々なのですから。点検不足で事故を起こした挙げ句、怪我までさせて本当に申し訳ないことをしました」

 ひどく真摯しんしな声音でそう言って、バーンズさんが頭を下げる。腰を直角に曲げた、それは見事な最敬礼だ。

「いや、あの……頭を上げてください。本当に大丈夫ですから!」

 怪我と言ったって大したことはないと訴えると、大きなため息が聞こえた。

「頭の怪我を甘く見ない方がいいぞ、眠り姫。今は何ともないとしても、あとでどんなことになるかわからないからな?」

 トンボでも捕るかのように手にしたペンでくるくると渦を描きながら、呆れたと言いたげな様子で目を眇めたベイリーさんがこちらを見ていた。

 何だか今、妙な単語を聞いたような気がするのだがどういうことだろうか?

 きょとんとした表情で見つめるわたしに、ベイリーさんがもう一度ため息をこぼす。

「おまえがここにかつぎ込まれてから丸一日以上経ってるからな? それだけの間意識不明だったんだから、充分すぎるほどに重症患者なんだよ、眠り姫」

 最後の一語をわざわざ強調して言うと、ベイリーさんは胸の前で腕を組んだ。

「……申し訳ございませんでした」

 やや納得いかない部分はあるものの、勢いにされて思わずわたしは頭を下げる。

「わかればよろしい」

 満足げな彼女の声にそろりと窺うように目線を上げると、体を起こしたらしいバーンズさんと目が合った。大丈夫と言いたげな微笑に、わたしも顔を上げる。

「とりあえず、昨日と今日とで器具の総点検を行い、明日改めて入学試験を執り行うこととなりました。きみにそのつもりがあるならば試験を受けられますが、どうしますか?」

 そう問いかけたあと、バーンズさんはどこか困ったような微笑を浮かべた。

「もっとも、ベイリー先生の許可が下りれば、なのですが……」

 そう言ってベイリーさんへと視線を向けたバーンズさんに倣い、わたしもベイリーさんを見やる。

 彼女はしばらく腕組みしてこちらを見ていたが、やがて腕組みを解いて前髪をかき上げた。いかにも面倒くさいと言いたげな仕草だ。

「そのままじっとしていろよ」

 一方的に言い放つと、ベイリーさんはペンを握った右手をこちらに向けた。ペンを走らせ、眼前の空間に直線と曲線とを描いていく。その筆跡を目視できたならば、きっと緻密ちみつな幾何学模様が描かれていることだろう。術式フォーミュラの陣は、まるでレース編みのドイリーのごとく繊細で精密な幾何学模様なのだ。

 彼女は最後に不可視の幾何学模様を囲むように大きく円を描いた。しばらく難しい顔をしていたものの、やがてうなずく。

「……まぁ、おおむね問題はないか。それで? おまえはどうしたいんだ? ティアニー」

 水を向けられたわたしは一瞬返答に迷った。けれど、今のわたしが【ルーシャ・ティアニー】であるならば、答えるべき言葉は一つだけだ。

「受けます」

 わたしの返事に、バーンズさんが微笑を浮かべてうなずいた。

「わかりました。ではそのように手続きを進めておきます。きみは明日に備えてゆっくりと体を休めてください」

 では、と会釈を残してバーンズさんが保健室から出ていく。それを見送ったベイリーさんもまたイスから立ち上がった。どうしたのだろうと思って視線を向けるより先に、彼女の声が投げられる。

「食事を調達してくる」

 こちらの返事も待たず、白衣の背中がドアの向こうへと消える。

 しばらくして戻ってきたベイリーさんは、両手にそれぞれトレーを抱えていた。彼女はトレーを長机の上に置くとそのうちの一つを自分の前に、もう一つをその対面に置き直した。それから自分の側のトレーからポットを持ち上げると、重ねていたグラスにお茶と思しき黄緑色の液体を注いでそれぞれのトレーの上に置く。そうして準備を整えると、ベイリーさんは無言でわたしを見やった。

 おそらくこちらに来て食べろと言う意味だと察し、ベッドを降りて長机へと近寄る。

 手で促されるままに席についてトレーを見やると、シチュー皿にかゆのようなものが盛られていた。むしろ、牛乳をかけて放置してふやけたシリアルと言った方が近いかもしれない。

「……いただきます」

 一瞬後悔したものの、席についてしまった以上どうしようもない。手を合わせて食前の挨拶をするとスプーンを握った。皿の中の何かをすくい、覚悟を決めて口へと運ぶ。

 最初に抱いたイメージ通り、それはシリアルを煮込んで作った粥のようなものだった。わずかにつけられた塩味が、病人食の白粥を彷彿とさせる。

 おそらく病人食という認識は間違っていないのだろう。丸一日以上何も食べてない人間に普通の食事を与えても胃が受け付けないと思われるので、粥を用意した彼女の判断は正しい。

 お世辞にもおいしいとは言い難い味だったが、一口食べると空腹を自覚してあっという間に全部平らげた。

「ごちそうさまでした」

 食後の挨拶をして手を合わせると、グラスの中身に口をつけた。やわらかな味と共に、ジャスミンのさわやかな香りが口の中に広がる。ふっと肩の力が抜けていく感じに、思っていた以上に自分がこの状況に緊張していたらしいことを悟る。

「食べて落ち着いたなら、適当なところで寝てしまえ。明日はなかなかのハードスケジュールだぞ?」

 ニヤリといたずらめいた笑みを浮かべるベイリーさんにうなずきで応えて立ち上がると、彼女に一礼してからわたしはベッドへと向かった。



         ◆



 翌朝、迎えに来てくれたバーンズさんに連れられて向かった試験会場には溢れるほどの人の姿があった。

 受験資格はこの世界で成人と見なされる【十五歳以上であること】という一点のみであるため、見受けられるのは十代半ばから後半くらいの少年少女たちばかりだ。それ以外の人物は、ほぼ試験監督のための教師陣なのだろう。色や多少のデザイン違いはあれど、全員が同じような詰め襟服を身にまとっていた。

 だが、場を埋め尽くす人の波以上にわたしの目を奪ったのは、設置された器具の数々だった。木材と縄とで造られたそれらは、一言で表すならばフィールドアスレチックの遊具だ。

 ジャングルジムを巨大かつ複雑化したような木製のやぐらに、その頂上部から張られたネット。水場の上に渡された吊り橋は、踏み板の役割を果たす丸太の距離がかなり離れている上、それぞれブランコのように吊り下げられた丸太が前後左右に大きく揺れるために一つ飛び移るのも相当難しそうだ。そのほかにはシーソーのように傾く雲梯うんていや、三日月のごとく弧を描く急斜面を駆け上がって脱出するもの、垂らされたロープをよじ登るといったものなどなど――テレビの特番で体力自慢のアスリートが挑むようなモノが所狭しと並んでいた。これらを遊具と呼ぶのは間違っているだろう。

 現に受験者のものであろう悲鳴や、落下したらしい水音などがひっきりなしに聞こえてきている。この学園の入学試験が難しいというのは設定では知っていたものの、これは想定外である。判断を誤ったとしか言いようがない。

 小さくため息をこぼしつつ、今更やっぱりやめますとも言い出せないため、あきらめの境地で順番待ちの列に並ぶ。ダメ元とか、挑戦することに意義があるとか、そういう言葉もあるし、うん。

 悲鳴から意識を逸らそうとどうでもいいことを考えていると、不意に近くで交わされている会話が耳に飛び込んできた。


「……ほら、アイツだよ。例の――」

「ああ、試験やり直しになった原因の? 迷惑な話だよなぁ」

「まったくだよ」


 声のする方に視線を向けると、数人の少年たちがこちらを見ながら顔を寄せ合って言葉を交わしていた。内緒話と言った風にも見えるが、それにしては声が大きい。おそらくわたしに聞こえるように話しているのだろう。そう思えるほど、彼らの顔は悪意に満ちた笑みに彩られていた。

 わたしは何もしていない、そう叫びたい衝動に襲われる。けれど口を開けば言葉ではなく涙がこぼれてしまいそうな気がして、ぐっと拳を握りしめた。

 突き刺さる悪意ある視線や聞こえよがしな陰口に気づかないふりを装って前だけを見据えていると、不意に握りしめた右手に誰かの手が重ねられた。温かなその感触に驚いてそちらに顔を向けるのと、手の主が声を発するのとは同じだった。

「気にすることないよ」

 わたしの視線を受け止めた少女がにっこりと笑う。やわらかそうな金茶の髪が陽光を受けてきらめき、ふわりと肩口で踊る。

「試験延期の発表があった時に、事故だってちゃんと説明があったし。だからアイツらの言うことなんて気にしなくっていいよ」

 大丈夫だとわたしを安心させるように包む手の温かさに、ぎこちないながらも笑みを浮かべて拳から力を抜いた。自分に非はないのだと理解はしていても、誰かにそう言ってもらえたことにほっとする。

 少女はそんなわたしの様子に深緑の瞳を細め、笑みを深くした。

「キミ、すごくかわいいね。ボク、キミのこと気に入っちゃった」

 唐突な言葉に目を丸くするわたしにはかまわず、少女は両手でわたしの手を掴むと歌うように告げた。

「ねぇ、よかったら一緒に回ろうよ。ボクはメルヴィン、メルヴィン・ルーズヴェルト。キミの名前は?」

 おそらくその瞬間のわたしの顔は、点目にバツ印の口とどこぞのウサギのキャラクターのようになっていたことだろう。眼前の人物が名乗った名前には、それだけの衝撃があった。

 目の前にいるのは、肩を越える程度の長さの金茶の髪に大きな深緑の瞳が印象的な、紛うことなき美少女である。胸元にフリルのついた白いブラウスに濃紺の膝丈のフレアスカートと、至ってシンプルな服装だがよく似合っている。

 けれども残念なことに、目の前の人物はいわゆる女装男子なのだ。貴重な男の娘枠として、一部プレイヤーに人気を博している。

 この世界ゲームに性別迷子なキャラが存在することは知っていたものの、数少ないその一人と早々に遭遇するとは思ってもみなかったためにすぐには反応ができなかった。

 返事をしないわたしを不思議そうに見つめた少女――もとい少年が再度問いを重ねる。それにようやくわたしは我に返った。

「あ、えっと……ルーシャです。ルーシャ・ティアニー」

「名前もかわいいね。ルーシャって呼んでもいい? ボクのことはメルヴィンって呼んでね」

 とろけるような笑みを浮かべると、呼び捨てでいいよと言いながらメルヴィンは指を絡めるようにしてわたしと手を繋いだ。いわゆる恋人繋ぎと呼ばれるアレである。

 かわいいという言葉がさらっと出てきたり、触れるほどの至近距離から顔をのぞき込んだりと、メルヴィンの言動は誤解を生みかねない。けれども当の本人は無邪気そのもので、おそらく深い意味はないのだろう。というか、そう思わないとこちらの精神が保たない気がする。

「あ、列進んだよ。行こう、ルーシャ」

 手を引かれるままに前へと進む。こちらを気にかけてか、常に笑顔で話しかけてくれるメルヴィンのおかげで、わたしは周囲の様子に意識を向けずに試験会場を回ることができた。

 試験内容は、見た目からの想像通りフィールドアスレチックのタイムアタックであった。時折試験を見守る監督官がうなずいたり、首を横に振ったりしながらメモを取っているところから察するに、技量面も加味されるのであろう。

 結果の方はと言えば、うまくできたと胸を張れるほどではないけれど、特に大きな失敗もなく済んだのではないかと思う。

 時計回りに会場を巡り、その課題の終了チェックをもらうために名札を差し出すと、担当の監督官は手元の一覧表とを見比べて何か書き付けた。

「では、これですべての試験が終了しました。あちらで手続きをした後、各自指定された宿に戻ってお休みください」

 そう言って監督官が示したのは、運動会や屋外の催事などで使われるようなテントだった。おそらくそこで事務作業をしているのだろう、長机とイスとが設置され、茶色の詰め襟服に身を包んだ女性たちが列をなして並ぶ受験者たちの応対に当たっていた。

 返された名札を受け取ると、メルヴィンと共にテントへと向かう。

「はーい、お疲れさまでーす! 名札の提出をお願いしまーす!」

 列に並んで待つことしばし。順番が回ってきたわたしたちを迎えたのは、やたらにテンションの高い女性だった。褐色の肌に、左右で三つ編みにされた鳩羽はとば色の髪。目元は長く伸ばされた前髪で隠れているものの、見える口元は笑みを浮かべている。ちなみに長机に並んで座っている女性たちが、表情こそ違えど全員同じ顔である理由は汎用NPCだからである。彼女たちもそうだが、受験者の方も結構な確率で同じ顔が混ざっているため、なかなかにシュールな光景だ。

 求められるままに名札を渡すと、彼女は手元の書類にチェックを入れて名札を足下に置かれた箱へと入れた。代わりに横に置いた箱から同じような札を取り出し、それをこちらに差し出した。

「これで試験の全行程は終了です、宿でごゆっくりお休みください! 結果は明朝、お部屋まで職員がお届けに上がりまーす! それではお疲れさまでしたー!!」

 言いたいことだけを一方的に言い放つと、実にイイ笑顔で手を振って彼女はわたしたちを送り出した。

 戸惑いながら周囲を見やると、手続きを終えたらしい受験者たちが列を作って歩いているのが見えた。おそらくあちらの方向に都市部があるのだろう。この都市シュルトバルトは遺跡の出入り口を中心に、東側が学園部、西側が冒険者が拠点とする都市部というように分けられているのだ。

 とりあえず受験者たちの波に乗り、彼らと共に試験会場を出て都市部を目指して歩き出す。

「そういえば、ルーシャはどこの宿に割り振られたの? ボクは白鳥の星だったよ」

 わたしの右手を絡め取り、メルヴィンが小首を傾げて問いかけてくる。言葉に上がった宿屋の名前であろう単語から、あることに気づいてわたしは小さく声を上げた。

「わからない。意識が戻った時は学園の保健室にいたから……」

 わたしの言葉に、メルヴィンも眉を寄せる。

「それじゃ、さっきのところに戻って訊いてみようか?」

 そう言って視線で事務員たちがいたテントを示す。わたしもそちらに目を向けたものの、すぐに視線を前に戻した。かぶりを振って口を開く。

「ううん、いいよ。たぶんどうにかなるんじゃないかな」

 今から戻るにはこの人波を抜けなければならないが、中心あたりに流されてしまったせいで抜けようにも難しい。学園部と都市部との境目に来れば誘導のために学園関係者がいるだろうし、仮にいなくても人の流れが分散するからそこから引き返すことが可能だろう。

 そう告げると、メルヴィンはなおも心配そうに眉を寄せていたものの、やがてうなずいた。

 けれど、わたしたちの心配は杞憂に終わった。しばらく歩いていると、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえたからだ。

 周囲の人に謝りながら声の聞こえる方へと流れを脱すると、緑の詰め襟服を着た男性がこちらへと駆け寄ってきた。バーンズさんだ。

「ああ、ティアニー君。見つかってよかった」

 ほっとしたように表情を緩めると、バーンズさんはわたしへと向き直った。

「今は何もないとは言え、事故の後遺症が出ないとは限りません。何かあった時にすぐに対処できるよう、きみの部屋は教職員寮に用意されることとなりました。本来ならば試験の終了手続きの際に伝えるはずだったのですが、不手際があったようです。重ね重ねすみません」

「わかりました。わざわざありがとうございます」

 申し訳なさそうに頭を下げるバーンズさんに向かってかぶりを振ると、わたしは隣に立つメルヴィンへと視線を向けた。

「ごめん、そういうことみたいだから、わたし行くね」

「ううん、気にしないで。休む場所がわかってよかったね」

 にっこりと笑ってわたしにそう答えると、メルヴィンはどこか名残惜しそうな様子で繋いでいた手を離した。

「それじゃ、おやすみ。また会えるといいね!」

「うん、またね」

 笑い返して手を振ると、メルヴィンは大きく手を振り返してくれた。軽やかに駆けていく姿を見送ると、バーンズさんへと顔を向ける。

「すみません、お待たせしました」

「いいえ。では行きましょうか」

 わずかに微笑を浮かべてかぶりを振ると、バーンズさんは元来た道を歩き出す。アスレチックフィールドと呼ぶべき試験会場の前まで戻ると、そこを左に折れた。雑木林の中に敷かれた道をしばらく歩いていると、不意に開けた空間に出た。

 目の前には外国の映画に出てきそうな、レンガで組まれた趣のある建物があった。四階建てのそれは横に長く、階の半ばあたりから建物が二つに分かれる構造となっている。

 地面から一段高い所にあるその建物が教職員寮のようで、道の先に続く階段の上にベイリーさんが立っていた。

 わたしたちに気づいたのか、ベイリーさんがわずかに右手を挙げる。同じように手を挙げてそれに応えると、バーンズさんは彼女に近づいた。

「お待たせしました、ベイリー先生。ではあとはよろしくお願いします」

「ああ、わかった」

 どこか面倒くさそうな様子でうなずいたベイリーさんにもう一度よろしくと言うと、バーンズさんはわたしに向かって軽く会釈してまた林へと向かって足早に歩き出した。おそらく受験者の案内などをしに行くのだろう。

「じゃあ行くぞ。ついてこい」

 そう言うと、ベイリーさんはくるりと反転して歩き出した。アーチ状の柱の先にある扉を押し開けると、そこで顔だけをこちらに向ける。早く来いと言いたげなその眼差しに、わたしはあわてて彼女を追いかけて歩き出した。

 扉をくぐってすぐ目の前に大きな階段があったが、なぜかベイリーさんはそちらではなく左手に続く通路へと向かった。しばらく歩くと階段にたどり着く。先ほどよりは小さいが、よく磨かれた飴色の手すりには精緻な飾り彫りが施されている。それを三階分昇り、正面の通路を進む。

 通路には一定間隔で扉が設置されており、おそらく教職員の私室であろうことが推測された。

 そのうちの一つの前で足を止めると、ベイリーさんは白衣のポケットから鍵を取り出して扉を開けた。

「ここがお前に用意された部屋だ。あっちがあたしの部屋だから、もし具合が悪くなったら壁を叩くなり何なりして報せろ。いいな?」

 そう言って、ベイリーさんは左側、元来た側の通路にある隣室を示した。

「聞いていると思うが、試験の結果は明日職員が持ってくることになっている。……ああ、預かっていた荷物はすでに部屋の中に運んでいる。何もないとは思うが、一応中身の確認はしておけよ? こっちは女子寮だが、たまに変な趣味持ってるのがいるから、寝る時はちゃんと鍵をかけろ。扉だけじゃなくて、窓にもだ」

 びしりとわたしの鼻先に指を突き付け、ベイリーさんはつらつらと注意事項を連ねていく。正に立て板に水だ。

 その後部屋に入って荷物のチェックをした後、彼女に連れられて食堂で夕食を取った。

 ふたたび部屋に戻ると、ベイリーさんに言われた通り扉と窓とに鍵をかけ、そのまま倒れ込むようにベッドに体を投げ出した。ごそごそと布団の中に潜り込む。

 これからどうなるのか、あるいはどうすればいいのか。不安しかないけれども、襲い来る睡魔には勝てずにわたしは眠りへと落ちていった。

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