第11話
三人は喫茶室ルノアールの柔らかなソファに無言で腰かけていた。店内にはBGMとして低音量で古いボサ・ノヴァの曲がかかっている。だが、三人の耳にはそのメロディは聞こえていない。彼らは三者三様べつのことを考えている。あるいはそれは思考と呼べるほどまとまりのあるものではないのかもしれない。一種の混乱した心理状態が渦巻いているだけで、何かを考えているとはいえないのかもしれない。いずれにせよ、彼らのうちの誰ひとりとしてスタン・ゲッツのテナーサックスに耳を傾けるものはいなかった。
時計の針は無慈悲に歩を進めていた。沈黙の時間が長引けば長引くほど、その静寂を破るのには多大な心理的負荷がかかる。そのことを熟知しているイイヤマがこの場をうまく納めようと試みた。
「しかし、あれだな。その、昼間から大声で語り合う内容じゃなかったよな」
沈黙。
「なんていうか……その、いい天気だし……」
イイヤマのその涙ぐましい努力を感じとった老人が相づちを打った。
「む……そうだな。今日は、その、実にいい天気だ」
「ですよね」とイイヤマ。
「秋晴れというやつじゃな」と爺。
二人とは対照的にタカナシはじっと黙っていた。二人の世間話に加わり、場を和ませる気分ではなかったし、自分がまちがったことを口にしたとは思っていなかったからだ。たしかにそれは声高に主張するような内容ではなかったかもしれない。だが、それを避けることもまた本来の目的から離れることを意味している。それは正しい認識である。だが、正しい態度が常に支持されるわけではないことは歴史が証明している。
気詰まりな空気が三人の間に漂っていた。タカナシが沈黙を保っているうちはそれを打破することはむずかしいだろう。そのことを察知したタカナシは自ら発言することで重苦しい空気を払拭しようとした。
「天気の話なんてどうでもいいでしょう? ぼくは乳房の話をしているのです。イイヤマくん、きみも何だ? 天気の話に興じるなんて! そんなのは知的怠惰の極みだ。きみは目的を見失ってるんじゃないのかい? ぼくらは女性の乳房を触るために東奔西走しているんじゃないか。きみだって、中学生女子の胸を触りたいと言っていたじゃないか! もう触りたくて触りたくて鼻血が出そうだって言ってたじゃないかあああああ!」
その発言により場は凍りついた。それだけでなく、周りにいた客もちらちらと三人のテーブルに目を向けては何事かとひそひそ話を始めた。ウエイトレスがやって来て、他のお客様のご迷惑となりますので、もう少しお静かに願えますか、と礼儀正しくたしなめた。結果的にタカナシの発言は重苦しい空気を吹き払うどころか、なにもかも洗いざらい吹き飛ばしてしまった。
居心地が悪くなった一行は河岸を変えることにした。だれからともなくそそくさと店を出て、ぶらぶらと歩き出し、行くあてもないままに新宿通りをまっすぐ進んだ。すると、そのうちに新宿御苑にたどり着いた。三人はあたたかな陽射しと心地よい気候に誘われてその中に入り、さらにしばらく散歩をつづけた。空は青く澄んでおり、刷毛で引いたような雲がうっすらと広がっている。そぞろ歩きするには絶好の季節だった。
空いているベンチを見つけたので、三人は横並びに座った。向かって左から爺、タカナシ、イイヤマという並びだった。その順番に特別な意味があるわけではなく、おそらく恣意的な結果だった。
店を出てからというもの、三人は終始無言だった。この状況に適した話題を見つけることのできるものがいなかったからだ。しかしこのままでは、三人は日が暮れるまでベンチに座ったままでいることになる。清々しさを感じさせる秋の気候とは対照的な無駄に重苦しい空気を発散させて、道行く人を威嚇することになる。それはきわめて不本意である。そのことを年の功で察知した爺が率先して沈黙を破った。老人はタカナシに訊ねた。
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