第10話

 ぼくら三人は連れだって喫茶室ルノアールへ行った。それから、ふかふかしたソファに腰かけて、舌がむせび返るほど熱いコーヒーを啜りながら歓談に耽ることにした。

 歓談に耽るといっても、三人のうちの一人はさっき会ったばかりの名前も知らないお爺さんなわけで、世代的にも共通の話題があるとは思えず、まさか、太平洋戦争に参加してたりしますぅ? ラバウルってどうでしたぁ?などと軽薄な質問を浴びせかけて、まったく戦争を知らない子どもたちの子どもたちはどうしようもなく平和ボケしていてこれでは日本もおしまいだな、戦死した戦友たちはなんのために戦ったのだろう、と老い先短いご老人を深い徒労感と厭世的な気持ちにさせてしまうのは敬老の観点からも望ましくないし、なによりも喫茶室ルノアールのふかふかしたソファにもそぐわないではないか。なので、正確には歓談に耽っていたわけではなく、ただ三人で無言のままずるずると珈琲を啜り、それを飲み終わると、砂糖壺の中の砂糖を掌にのせてぺろぺろと舐めるというはしたない真似をイイヤマくんがしやがるものだから、イイヤマくん、そういう妖怪あかなめみたいな振る舞いはよしたまえよ、とたしなめて時間をやり過ごすことになっていたわけだ。そんな時間の使い方は贅沢というよりはむしろ不毛の極致であり、店員も空のカップを下げてお茶を給仕することで、おまえらこれ飲んだらそろそろ帰れよな、という無言のメッセージを茶柱に込めているのかもしれないと思うと、いかにも申し訳ないような、気も漫ろになってきたので、おもむろにぼくはお爺さんに質問をするのだった。


「ところで、お爺さん。どうしたら女性の乳房を触ることができると思いますか?」

 これには普段はCCB(クールなチェリー・ボーイ)を気取っているイイヤマくんも目を丸くしたものだ。おそらく、イイヤマくんの無遠慮な振る舞いは内向きなものであり、見知った人の前でしか披露されず、よく知らない人、とりわけ初対面の年配の人に対するときは借りてきた猫のようにおとなしくなるのだろう。にゃあ。

 それゆえ、ぼくの唐突とも思われる鋭い切り込み方にあわわわわと泡を食ったのだろう。イイヤマくんはぼくを肘でつつくと小声で言った。

「おい。おじいさんにいきなりなんてことを訊くんだよ」

 ぼくはつんと澄ましてその問いかけを無視してやった。いつもいつも応答があると思ったら大間違いだ、この生息子め。

 丸善爺さんは昼下がりの三毛猫みたいに目を細めてぼくの質問を咀嚼した。

「む……女性の乳房、だと?」

「そうです。女性の乳房をとってもとっても触りたいのです」ぼくはきっぱりと言い放った。

「む……白昼堂々なんと破廉恥なことを……きみ、名前はなんだね?」

「ぼくですか? タカナシです」

 そのとき、イイヤマくんが間に入ってきた。

「す、すみません。あばばばばば、あの、こいつちょっと混乱してるみたいなんで、ででででで、気にしないでください」

 混乱しているのはイイヤマくんの方だ。舌がもつれているではないか。邪魔くさいロリコン野郎だ。

 ぼくは質問を続けた。

「いいえ。混乱も錯乱も擾乱じょうらん紊乱びんらんもしていません。ぼくらは女性の乳房をとてもとても触りたいのです。ただそれだけです。山よりも高く海よりも深く触りたいのです。しかしながら、いい方法が浮かばないのです。そこで先人の知恵を借りたいと思い、こうしてお訊ねしている次第です」

 お爺さんは目をしばたたかせ、お婆さんは川に洗濯に行き、イイヤマくんは頭を抱えた。

「ふむ……。どうやら冗談ではなく、真剣な話のようだな」

「ええ。もちろんです。伊達や酔狂でこんなことを見知ったばかりの方に訊ねられるものですか。言うまでもなく全力で真剣です。全力少年です」

 時計の針がこちこちと鳴る音がメタファーとして聞こえた。だが、メタファーなので本当は何も聞こえていなかった。ここだけの話、メタファーは耳では聞こえないのだ。


 お爺さんはメタフォリカルにではなく、アクチュアルに返答した。

「ふむ。ということは、さだめし、きみらはここに至るまでにあれこれと策を練ったことだろう。そして、それらが功を奏さなかったがゆえに、こうして私に訊ねているのだろうな。そうだね? となると、私が答えるべきことは、どうすればきみらが女性の乳房を触ることができるのか、という具体的な方法論ではなく、なぜきみらがそれを求めるのかという動機について考察することで、問題の次数をひとつ繰り上げることなのかもしれん」

 ぼくらは黙って続きを待った。面倒臭そうな問答が始まりそうなとき特有のつんとした予兆が漂っていた。

「では訊くが、どうしてきみらは女性の乳房に触りたいのだね?」爺が訊いた。

「わかりません。矢も楯もたまらず触りたくなったのです」

「まったく心当たりはないのかね?」

「ありません。強いて言えば、そこかしこに乳房があるからです。そして、ただあるだけではなく、たくさんあります。その数はざっと女性の数の二倍です。それはとても大きな数字です。この世界は乳房で溢れています。ある意味では、世界は乳房でできているといってもよいぐらいです。そして、もし仮にここが乳房のない世界だったら、ぼくらはそんなものを触りたいとは思わないでしょう。そこに山があるから登るのだと宣う登山家と同じことです。欲望は対象があって発生するのです。その逆ではありません」

「ふむ……」

 お爺さんはあからさまに困惑した顔をした。年配の人間が困った顔をしているのを見るのは胸が痛む反面、なんだかサディスティックな欲望を刺戟されてワクワクする。欲望は対象があって発生することの好個の例だ。

 お爺さんは口を開いた。

「うむ。そうだな。たとえば女性の乳房は母性の象徴であることはわかるだろうね——」

「あっ、そういうの、いいです」

 ぼくは間髪入れずに話を遮った。いかにもぼく好みじゃない話が展開しそうだったからだ。乳房を安易に母性と結びつける父権主義パターナリズムなんてお呼びじゃない。そんなのは女性尊重フェミニ主義ズム以前にまで遡る黴臭い発想だ。時計の針は先にしか進まないのだ。懐古的になるのは人生の終焉になってからで十分だ。

 ぼくは続けた。

「象徴とか寓意とか形而上的概念とか、そんな話じゃないんです。ぼくらがしているのはもっと実定的かつ実際的な話なんです。ぼくらは抽象概念としての乳房を触りたいのではないんです。そんなのでよいなら、目を閉じて頭の中で想像上の乳房をすればいいんです。それで満足できるのならば、おっぱいパブは商売あがったりです。パブは軒並み閉店に追い込まれ、おっパブ娘たちは失業して路頭に迷うことになり、路上には行くあてのないおっぱいが溢れることになります——それはそれでなんだか薔薇色の未来予想図にも思えますが。そうではなくて、ぼくらはきわめてアクチュアルな意味で乳房を触りたいのです。というよりも、乳房を触るという行為はいつだって実際的で現実的で、そこには想像的な要素が入り込む余地などまったくないのです!」

「ちょっと落ちつけよ」イイヤマくんが童貞特有の遮り方でぼくを止めに入った。「お爺さんが面食らってるじゃないか」

 お爺さんはニューブリテン島でアメリカ兵に出くわした日本兵のようにあんぐりと口を開けていた。それを見た途端、ぼくは自己嫌悪に陥ってしまった。見ず知らずのお爺さんにこのように強く主張するのは端ない振る舞いだ。イイヤマくんもちょっとではないか。イイヤマくんのように人類学的に劣っている人間にそのような目で見られるのは心外だ。だが、それもこれもぼくの招いたことだ。穴があったら入りたい。

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