第9話

 開店直後にもかかわらず、店内には客が少なくなかった。さすがは新宿だ。メガロポリス。ぼくらは二手に分かれて役立ちそうな本を探して回った。

 書棚と書棚の間の通路をゆっくりと歩きながら、紙とインクの混ざった微かなにおいを嗅ぐのが好きだ。そこには心を落ち着かせる作用がある。週刊誌など商品の回転が速い類の書物ではなく、学術書や文学書、画集など息の長い本を扱っている棚の方がよい香りがする。紙が上質だからかインクが違うのか、理由はよくわからない。そもそもにおいというほどはっきりとしたものを嗅ぎとれるわけでもない。ただ、なんとなくそこに漂っている書物の粒子のようなものが鼻腔を擽るのだ。

 梶井基次郎は『檸檬』のなかで、積み上げた書物の上に、そっと檸檬を置くシーンを描いている。なかなかすてきな場面だ。そうして店を出たあと、その檸檬が爆弾だったらと夢想するのだ。

 でも、ぼくだったら檸檬ではなく乳房を置いてくるようにすると思う。哲学書や美術書、画集や小説など色とりどりの書物を堆く積み重ねて、その上に乳房を一房そっと置く。ぼくが立ち去ったあと、おそらく、それに気がついた客の一人が不思議そうにその乳房に触れるだろう。そんなことを夢想しながらぼくは靖国方向に向かうのだ。爆弾とかそういった剣呑な要素は不要だ。むしろぼくの行動を後押ししているのは、そこはかとない気遣いにも似た厚情心だ。読書で疲れた心身を、やわらかくあたたかな乳房に触れたり揉みしだいたり、眼精疲労でしぱしぱしている目をそこに埋めることで解消できたらという心配りなのだ。


「それならば、丸善でやる方がよいな」

 ぼくはひとりごちた。すると後方から声が聞こえた。

「あなた、そこのあなたです。いまなんとおっしゃいました?」

 後を振り向くと、そこには白髪の顎髭を生やした老人がいた。

「(?)」

「あなた、いま『丸善』とおっしゃりましたな?」

「え? ええ、まあ……」

「ここは紀伊國屋書店ですぞ。それなのに、あなたは平気で『丸善』などと口にする。なんとデリカシーのない!」

「え?」

「そんなに丸善がよければ、丸善書店かジュンク堂書店にでも行けばいい! ここは紀伊國屋書店なんだ! だれがなんと言おうと!」

 ぼくは唖然としてしまった。唐突に本屋でお爺さんに激されたら、だれだって面食らうだろう。絶句しているぼくをきっと睨みつけると、お爺さんは向き直り、ぶつぶつ言いながらふたたび書棚に向き直った。


 なにがなんだかわからなかった。すると、声を聞きつけたイイヤマくんがやって来た。

「大きな声がしたけれど、いったいどうしたんだ?」

「いや、なんだかよくわからないんだけど、叱られてしまったんだ」

「……何かしたのか?」

 ぼくは事情を説明した。それを聞いたイイヤマくんも首を捻っていたが、前方にさっきのお爺さんがいるのを見つけると、何かを悟ったかのようにうなずいた。

「なんだ。丸善爺さんじゃないか」

「イイヤマくん、知っているの?」

「いいや。直接は知らないけれど、話には聞いたことがある。噂によると、都内のいろんな書店に現れては、丸善書店のことを吹聴して回っているらしい。なんの意味があるのかは知らん。丸善書店によく現れるので丸善爺さんと呼ばれているそうだ」

「……なんだか都市伝説みたいな存在だね。あれ? でもぼくはさっき、ここは紀伊國屋書店なのだから丸善と口にするな、と叱責されたよ。その文脈だと紀伊國屋書店を支持しているように思うのだけど」

「うーん。よくわからんが、それも丸善への愛着からきてるんじゃないかな? つまり、丸善書店に来てほしいからこそ紀伊國屋書店にいる客が癪に障る、と」

「わかるようなわからないような理路だね」

「あの爺さんはツンデレだからな」

 実によくわからない。そういう態度ってツンデレとは別のものじゃないかしらん?

 しかしながら、これはぼくのよくないところなのだが、ぼくはお爺さんに俄然興味が湧いてしまった。どういうわけか、ぼくはおかしな事象に遭遇すると、好奇心がと初春のつくしのようにもたげてきてしまうのだ。

 というのも、その不条理な言動とは裏腹に、お爺さんはきちんとした服装をして、清潔な身なりをしていたからだ。フェルト製のハットはとても似合っていたし、ツイードのジャケットもシックで上質に見えた。なかなかの洒落者だとお見受けする。もし、このお爺さんが小汚い垢だらけの赤ら顔で、擦り切れてしみだらけのジャージなんかを穿いていたら、ぼくはそのまま立ち去っていたと思う。そういう自堕落ななんてお呼びじゃないのだ。

 ぼくが気になるのは、このお爺さんのように局所的かつごく私的な範囲における偏執具合だ。英語で言うと、strangeというよりかはweirdな人。そういうおかしな人のおかしみにぼくは興味がある。


 人間にとって、全面的に気が狂うのはそれほどむずかしいことではない。もしそうしたければ、スイッチを切り替えるように、すべての価値基準や規矩をずらしてしまえばよいのだ。そうすると、自分だけのルールに従って行動するようになり、その結果、だれからも理解を得られなくなる。それが気が違うということだ。でもそれではただ単に、側から側に行ってしまうだけで、残るのは深い断絶でしかない。

 そうではなくて、ぼくが惹かれるのは、こちら側に軸足が残っている人なのだ。ある程度の常識や道徳を身につけているにもかかわらず、ごく個人的なことでまったく偏狭になってしまっている人たち。彼らの偏り具合が実に興味深い。そこには考察の余地がある。一見至極まともに見える人がどうしてこうなってしまったのか? 探究心をくすぐられるテーマ性に満ちていると思いませんか?


 ぼくはお爺さんに近づいていった。イイヤマくんは後ろからついてきた。

「先ほどは失礼しました。お爺さんは書店愛に満ち満ちておられるのですね」

 ぼくがそう言うと、お爺さんは棚から目を離さずに不機嫌そうな口調で応えた。

「ふん。愛などという不確定なものなどどうでもいい。そんなものは人類が生み出した便宜的な詭弁にすぎん。大切なのは心遣デリカシーいと民主制デモクラシー、そして親切心カータシーだ」

「ははあ……なるほど。そうですね……そのとおりだと思います」

 ぼくはよくわからないままに同意した。

「わかればよろしい」

「ときにお爺さん、よろしければ近くでお茶でもご一緒にいかがですか?」

「む、お茶か。よいね。ちょうど喉が渇いていたところだ」

「では、いきましょう」

 ちょうどそのとき、ぼくの袖が引っぱられる感触があった。妖怪袖引き小僧の仕業だろうかと勘ぐったが、そんなはずもなく、その正体はイイヤマくんであった。まさかイイヤマくんが袖引き小僧だったとは知らなんだ。まったく灯台もとクラシーであることよ。

「おい。いったいどういうつもりだよ。あんなじいさんを誘ったりして」

 イイヤマくんが倒置法を巧みに用いてぼくに訊ねるものだから、ぼくもここは修辞法を用いて返すのが礼儀だというような気がしてきて、反語法で答えた。 

「どうして誘ってはいけない理由があるんだい?(いや、ない)。たしかに風変わりな翁だけれど、彼ほど本屋に長けている人物がいるだろうか?(いや、いない)。人生経験も豊富で、知識と知恵も申し分ないだろう。となると、これほど頼りになりそうな人物に相談しない手があるかい?(いや、ない)」

 イイヤマくんはじっと考え込んだ。

「よくわからんが、きみがそれほど言うならいいけど。ボクもちょっと疲れてきたことだし」

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