第6話

 満腹になったぼくたちはそれから15分ほど歩き、ヤスハタくんの住居までやって来た。予想に反してヤスハタくんの家は割と立派なマンションだった。学生の分際で居住するにはのではなかろうか。玄関もオートロック式のインターフォンがついている。生意気にもほどがある。ヤスハタくん風情は木造モルタルアパートの一階角部屋にでも住めれば上等なはずだ。

 そのマンションの醸し出す雰囲気アウラに気圧されているぼくとは対照的に、イイヤマくんはものともせずにインターフォンを鳴らした。しばらくすると、金属製のマイクを通して気怠そうなヤスハタくんの声が聞こえた。

「……はい?……」

「ヤヤヤ、ヤスハタくんかい? ボク、イイイ、イイヤマだけれども……その、同じ学舎の学徒として、べべべ、勉学に励んでいる……」

 イイヤマくんもやはり緊張していたようだ。吃音気味だし、言葉のチョイスもいくぶんおかしい。こんなやつがアポイントメントなしでやってきたら、ぼくなら入れない。

「ああ、イーさんか。どうしたんだ? まあ、入れよ」

 イーさん? イイヤマくんのあだ名だろうか。考える間もなく、割と最先端の科学技術に拠っている自動ドアがすっと開いた。ぼくらは中に入った。オートロックの向こう側はふつうのマンションだった。ぼくらはエレベーターで7階まで行き、ヤスハタくんの部屋を訪れた。


 外観に違わず、室内もなかなか瀟洒な2LDKだった。西南向きのリビングルームへは陽の光がふんだんに射し込み、艶々としたフローリングの床を煌めかせている。壁紙はアイボリーなので黄ばみが目立ちにくく、清潔感がある。ドアの外枠の木製部は落ち着いた色合いをしており、マットな質感のアルミサッシとよく調和している。駅から徒歩15分というのがいささか遠く感じられるが、近くにバス停もあり、健康のために歩くのも悪くはない。その分、家賃が低めに設定されているのでお得である。おすすめの物件。

 ヤスハタくんは起き抜けらしいぼさぼさの髪に部屋着のままでリビングのソファに腰かけると、アメリカンスピリットに火を点けた。立ちのぼる煙が日射しと混ざり合い、気怠い午後のひとときを彩っている。

「なんか飲む? 冷蔵庫から好きなものをとっていいよ。プリン以外なら何でも」

 ヤスハタくんは気楽な調子で歓待してくれたが、その声はどこか疲れていた。ソファに深く腰かけくつろいでいるイイヤマくんを残して、ぼくはキッチンの冷蔵庫を開けた。中にはいろいろと詰めこまれていたが、飲めそうなものはミネラルウォーターと缶ビールとコーラくらいだった。最大限譲歩しても、あとはフレンチドレッシングと焼き肉のタレしかなかった。ぼくはコーラの缶を二つ持ってソファへと戻った。


 コーラの缶を片手にぼくは訊ねた。

「ヤスハタくん、なんだか疲れていないかい?」

「ん? うん、まあね……」

「体調でも悪いのかい? それならば、日を改めるけど……」

「いや、大丈夫だよ。ちょっとばかし疲れてるだけさ」ヤスハタくんは気丈にも微笑んで見せた。

「いったいどうしてまたそんなにげっそりしてるんだ?」

 コーラの缶を開けながらイイヤマくんが訊ねた。

 ヤスハタくんはその質問には答えず、ただ眉を吊り上げただけだった。ぼくは話題を変えようとした。

「それにしてもヤスハタくん、きみがこんなによいところに住んでるとは知らなかったよ。ぼくの周りにオートロックの付いたマンションに住んでいる人なんて一人もいやしないよ。すごいねえ」

 ぼくは正直な感想としてそう言ったのだが、ヤスハタくんはやはり力なく微笑むだけだった。それから溜息混じりに話し出した。

「べつにすごかないさ。おれが借りてるわけじゃないしね。おれはただここに居候しているだけなんだ」

「じゃあ、ここはだれの部屋なの?」

 ぼくがそう訊ねると、ヤスハタくんは肩をすくめた。イイヤマくんは前歯でコーラの缶をかちかちと噛んでいた。

 小さくひとつ息を吸い込んでからヤスハタくんは言った。

「平たくいうと、女の部屋なんだよ」

「なるほど。で、彼女は出かけているわけだね」

「そういうこと。仕事で夜までは帰ってこない」

「となると」ぼくはひとつ間を置いてから続けた。「お相手は年上の方なのかな?」

「まあね。38歳だ」

「けっこう年上なんだね」

 ぼくは言葉を詰まらせてしまった。17、8歳も上の人と付き合っているとは思ってもいなかったのだ。一方では10歳近く年下の女子を好み、他方では20歳も年上を好む。2人を足して2で割ったらちょうどいいのに。うまくいかないものだ。

「とはいえ、おれはべつに熟女好きってわけじゃないんだぜ——」そう口にした途端に、ヤスハタくんはつけ加えた。「おっと、熟女なんて言ったら大変なことになる。要するにさ、おれは年上好きなわけじゃないってことだ。ほんとうのことを言えば、おれだって同年代の若い娘の方がいい。けれども、同年代の女子でおれを娘を見つけるのは簡単じゃないからね。選り好みしていられないんだよ」

 囲ってもらおうとするのがそもそもまちがっているんじゃないだろうか。ぼくはそんな感想を抱いた。なかなか複雑な事情がおありのようだ。

 妙なことに踏み込んでしまったな。ぼくはここに来たことを後悔し始めていた。ぼくとは対照的にイイヤマくんは、ヤスハタくんの打ち明け話を聞いてもどこ吹く風でコーラをちびちびと飲んでいた。もしかするとすでに知っていたのかもしれない。あるいは、年上の話になんて興味を示さないのかもしれない。

「そうかあ。まあ、他人の家に住まわせてもらうのは気苦労が絶えなそうだねえ」

 ぼくは共感を示すようにそう言った。

「うーん、そういうわけでもないんだがね……」ヤスハタくんは言葉を濁した。

「というと?」

「うん。昼間っから話すことじゃないんだけど、夜のが大変なんだよ。なんていうか、彼女はほとんどセックス依存症みたいでさ。性欲が半端じゃないんだ。発情期のアメリカバイソンみたいに猛烈なんだ。そのせいで毎晩搾り取られちゃうんだよ。気恥ずかしい話だけど、もうへとへとなんだ」


 Yさん(21歳)は力なくそう語った。

 セックス依存症とはあまり聞き慣れない言葉だ。少なくとも日常的に耳にする症例ではない。世間には実にたくさんの症候群があるものだ。

 それがどういうものなのかと訊ねると、Yさんは訥々と語ってくれた。

「要するに、毎晩求められちゃうわけです。おれもまだ若いですし、やりたい盛りでもあるのでそれ自体は悪くないんだけれど、その求められ方が尋常じゃないんですよ。一晩のあいだに少なくても3回、多いときは5回も6回もですからね。休日なんてほとんど一日中やってますよ。そのために前日から食料品やら精力剤やらを用意してね。正直、たまったもんじゃないですよ」


 たしかにそれは体力的にもしんどそうだ。でも、それならば回数を減らしてもらえるように頼んでみたり、いっそのこと関係を解消するなりすればいいんじゃないだろうか。

「そうもいかないんですよ。まあ、それがふつうの対応だってのはわかるんですけどね……」Yさんは力なくそう言った。

 筆者がさらに問い詰めると、匿名なのを条件にYさんは自身の抱える事情を語ってくれた。

「なんていうのかな、おれは彼女に囲われてるようなものなんです。部屋に住まわせてもらって、生活費やらお小遣いやらをもらっているんです。一応学生なんで、ヒモってほどじゃないんですけど、まあ、それに近いですかね」


 21歳の大学生を囲う「アラフォー女子」とはどんな人なのだろう。Yさんの携帯電話に保存されている写真を見せてもらった。髪はミディアムくらいの長さで、うっすらと茶色に染められている。化粧もほどよく、けばけばしい印象はない。むしろこれといった特徴のない、地味な女性に見える。街ですれ違ったとしても気にもとめないだろう。

「ああ、そうですね。すごいふつうですよ」Yさんはつづけた。「掃除とか洗濯とかもするし、ごはんも作ってくれるんですよ——あんまり上手くはないんですけどね。でもちゃんと食べられるものは出てきますよ。仕事もきちんとしてるみたいだし、遅刻や欠勤もおれが知る限りはないですね。よくは知らないけれど実家との関係もふつうみたいです。ただ、セックスに関してだけおかしなことになっちゃってるんですよね(苦笑)。付き合い初めのころは、なんでこんな人が?と思いましたよ。あまりにギャップがあったので。まあ、そこもまともだったら、そもそもおれとこんなふうな関係になってもいないでしょうけど」


 うーん。世の中には実にいろいろな男女の関係があるものだ。決して彼らの関係を否定するわけではないが、筆者としてはできればふつうの関係がいいなと思うのだった。

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