第5話

 道すがら、腹ごしらえをすることを提案した。ちょうど喫茶店の窓に「ガーリックチキンライス」と書かれた貼り紙が貼られているのが目に入ったのだ。

「なあ、イイヤマくん。ちょうど昼時だし、ここで食事をしていかないかい?」

「む……かまわないけど、どうしてこの店なんだ?」

「うん。それはね、ここに『ガーリックチキンライス』と書いてあるだろう。それがなんだかとてもおいしそうに思えるんだ。ぼくは『ガーリックチキン』という文字列を見ると、無条件に食欲を刺激されるんだよ」

「む……」イイヤマくんは怪訝そうな顔をした。「はたしてそれはどうかな? 軽々に判断を下すものじゃないぜ。そう思うなら試しにこれを読んでみてくれ」

 そう言うと、イイヤマくんは智慧型携帯電話機スマートフォンに文字を打ちこんで見せてきた。ぼくはそれを読んだ。

「ん? 『ガーリックチキン』がどうしたんだい?」

「ふふ、もっとよく見たまえよ」

 ぼくは目を凝らした。よく見るとそこには「ガークッリキチン」と書かれていた。

「なんだい、これは?」

「うむ。にんんげは さしょい と さごいの もじさえ あってれいば もじのじんばゅんが めゃちくちゃ でも よめて しうまのだ。おろもしい だろう?」

「たしかに読める。となると、ぼくは『ガーリックチキン』という表記における文字配列よりも、むしろ文字構成の方に食欲を刺激されていたのかもしれない。でもそんなことはどうでもいいのだ。ぼくが主張しているのは、文字表記における配列と構成の優劣ではなく、ある種の文字配列に食欲が刺激されるという事実性、およびその効能なんだからね」

「うむ」イイヤマくんは生えていない顎髭をさする仕草をした。「それはつまり、ロラン・バルトのいうところのスティルだな?」

「スティル?」

「ああ。バルトは言語の層をラング、スティル、エクリチュールと3つに分けたが、きみが『ガーリックチキン』的文字配列に反応するのは、スティルに属する話だ。スティルとは各人が自然に身につけてしまう語感に対する好悪の念のことだ。だれにだってあるだろう? 『シュバインシュタイガー』はなんだか強そうだけれど、『ポンテ』はかわいらしく感じたりするという、例のあれだ。つまり、きみが『ガーリックチキン』に食欲を刺激されるのは、スティルが内的な規制として働いているからなんだ。ちなみに、ラングとは母語のことであり、エクリチュールとは『書くこと、書かれたもの』という意味だが、もう少し言葉を添えるなら、社会言語や特定社会集団における言語運用といったところだ」

「そうかもしれないね」ぼくは相づちを打った。

 正直なところ、そんなことはどうでもよかった。そんなことを言ったら、イイヤマくんだって、童貞をこじらせた小児性愛者知識人風大学生のエクリチュールを採用しているではないか。でも、そんなことをいちいち指摘したところで、チキンの味は変わらないし、イイヤマくんが童貞ロリコン野郎であることに変わりはない。大人は当たり前のことをあえて指摘しないのだ。あるいは、当たり前のことをいちいち指摘しないのが大人としての第一歩なのだ。イイヤマくんはもっと成熟した方がよい。


 店に入り、ぼくはガーリックチキンライスを、イイヤマくんはポークジンジャーライスを注文した。でも出てきた料理はガーリックチキンライスというよりも単なる鶏肉丼だった。ご飯の上にニンニク醤油で炒めた鶏肉がのっているだけだった。

 たしかに食材は表記されているとおりだ。調理法もニンニクを使う以外に指定はないのだからどこもまちがってはいない。まちがってはいないけれども、ぼくの食欲を刺激したものとは何かが違った。不正解ではないが、正解でもないという答がこの世には存在するのだということを痛感した。

 要するにこれは鶏肉丼であって、ガーリックチキンライスではない。その違いが那辺に存するのかというと、とどのつまり、それはカタカナ表記における外来性に由来する。日本語においては外来のものをカタカナで表記するというルールが定まっているがゆえに、同種のものであっても、ひらがなかカタカナか漢字で書かれるかによって、そこに立ち上がってくるイメージが変化するわけだ。言い換えると、シニフィアン(記号表現)によってシニフィエ(記号内容)に変化が生じるということだ。その意味では、鶏肉とチキンは同じ物体でありながらも同じものではないのだ。そこのところが翻訳のむずかしいところだ。

 とはいえ、料理人とぼくとのあいだでイメージのすり合わせをすることなど不可能なので、釈然としない気持ちを抱えながらもぼくはその丼を食べた。味そのものは悪くなかった。ほどよく効いたニンニクの風味が鶏肉の味を引き立てていた。そんなぼくの気持ちとは裏腹に、イイヤマくんは何事もなく豚肉のしょうが焼きをと平らげた。

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