第3話
イイヤマくんは大学で知り合った同級生の男子だ。ひょろひょろした体型をしていて、どことなく河童みたいな風情をしている。彼の髪の毛がタコノキの葉のようにぴんとしているのが主な要因だ。頭頂部に小皿を乗せたらきっといい具合に河童化するとぼくは睨んでいる。滝廉太郎のように丸い眼鏡をかけ、一年のうち十ヶ月は擦り切れたコーデュロイのズボンを穿いている。ひどく瘠せていて、仮にぼくが食人族だったとしても、イイヤマくんの身体から食べるところを見つけるのはちょっとむずかしそうだ。
イイヤマくんは実人生の60%くらいを自宅のアパートで過ごしている。そこで何をしているのかというと、日がな読書をしたり、テレビを見たり、借りてきたビデオ映画を観たりしているらしい。お腹が空いたら、生の食パンをもそもそとかじったり、鍋のままインスタントラーメンをずるずるとすすったりするそうだ。そのせいで肌はひどく蒼白い。きっと栄養状態がよろしくないのと、太陽光線が足りていないのだろう。でも付き合いはよいので、いつ何時誘っても拒んだりしない。そこが彼のなによりの長所だ。
イイヤマくん宅への道すがら、乳房に対する欲求やらそのような欲求を抱いていることに対する羞恥の念やら複雑な心情がぼくの脳裏に去来した。いくら友人とはいえ、乳房を触りたいなどと吐露したら軽蔑されたりしないだろうか。そんな心配も去来した。
だが、そんなのはまったくの杞憂だ。ぼくはイイヤマくんが
そんなわけで、彼の前で乳房を触りたいと告げることは、怯む必要などない、むしろ堂々と誇ってもよいことだ。
そもそも全人類的観点から鑑みても乳房に淫することは少しもおかしなことではない。むしろ、ふくらみかけの未成熟な女子児童の身体に欲情するイイヤマくんこそ、人として負い目を感じるべきだ。
ところが不思議なもので、どういうわけか、イイヤマくんからは自身の性癖に対して引け目を感じているところが微塵も感じられない。もし仮に少しでも疚しさを感じていたとしたら、あれほど気楽にぼくに打ち明けたりなどしなかっただろう。いや、あれはもはや打ち明け話ですらなかった。
その日、ぼくは学校帰りに彼の部屋に遊びに行った。なんとなく、夕飯でもいっしょに食べようかと思ったのだ。
チャイムを鳴らすと、1分後にドアがガチャリと開き、ああ、という挨拶とも吐息ともとれる音韻が返ってきた。ぼくは、やあ、暇なら夕飯でも食べに行かないかと訊ねた。イイヤマくんはぼくを中に入れてくれた。
イイヤマくんの部屋は20畳もあるワンルームで無駄に広い。そのかわりに2階なのにベランダもなく、窓も1つしかない。その広さにもかかわらず、どことなく拘置所みたいな雰囲気が漂っているのはそのせいだと思う。ぼくはイイヤマくんの部屋を見たときに、世の中には実にさまざまな物件があるのだということを実感した。ぼくならぜったいに住みたくない。
想像したとおり、彼の部屋はかなり散らかっていた。カーペットは埃っぽく、空気は澱んでいた(なにせこの部屋には小さな窓が一つあるだけなのだ)。とはいえ。20畳もあるおかげで足の踏み場もないという惨状は免れていた。もしここが6畳間だったらそうなっていただろう。ぼく1人が座れるスペースは十分確保できた。もう少し片づければもっとずっと快適になるだろうに。ぼくはそう思った。なにも広い部屋だからってその分大胆に散らかさなくてもよかろう。
イイヤマくんの性癖に気がついたのは、ぼくが腰を下ろしたときだった。手をついた先に一冊の本があったのだ。その表紙には第二次性徴期にある少女の写真が載っていた。ぼくは見てはいけないものを見てしまった気がして目を逸らしたのだが、視線の先には別のロリコン漫画雑誌が堆く積まれていた。
そのときのぼくは黙っている方がかえって不誠実な気がして、思い切って訊ねることにした。いま考えると、気がつかないふりをしてやり過ごすのが適切な対応だったとわかるのだが、人は渦中にあるときには最適解が見つけられないものなのだ。
「イ、イイヤマくん……これって……」ぼくは雑誌を手に取り、曖昧な疑問形式で訊ねた。
「ん? ああ、ロリ天がどうした?」
「ロリ天?」
「うん。『月間ロリっ娘天国』だから略して『ロリ天』」
そういうことじゃねえよ! ぼくの中に潜む漫才師が盛大にツッコミを入れた。
「こ、こういうの、好きなの?」
「うん。大好き。毎月買ってる」イイヤマくんは事も無げにそう言った。
自信を持って大好きだと言えることがあるのはよいことだ。
しy主張する人が世の中にはいるけれど、このときのイイヤマくんを見てもはたして同じことが言えるだろうか? なんでも安易に一般化するものじゃない。その分、例外に属するものが余計にグロテスクに見えてしまう。
「そう、なんだ……」
ぼくは同意も反駁もしないようにさり気なくつぶやいた。
経験的にいって、この手の輩はあまり刺激しない方がよい。とはいえ、そのときのぼくは彼を気持ちの悪いやつだとか変質者だとか、犯罪者予備軍だとかやばいやつだとか思わなかった。
それもこれも、彼の威風堂々たる態度にある。むしろ、イイヤマくんがあまりに平然と話すものだから、自分の認識がおかしいような気がしたほどだ。源氏物語の時代では12歳くらいでも大人の女として扱われていたらしいし、そう考えると、特に疚しいことではないのかな? そんなふうに思えてきた。それにつれて、緊張しているのがバカらしくなってきた。ぼくは訊ねた。
「こういうのって、どこで買うの?」
「定期購読してるから送られてくるよ。本屋でも買えるけど」
定期購読してるのかよ。猛者だな。
ぼくはイイヤマくんの腰の据わり具合に圧倒された。ぼくの認識では、イイヤマくんの嗜好性はマイノリティに属しているはずなのに、彼のこの揺るぎのなさは那辺に属しているのだろうか。実に不思議だ。日陰者は日陰者らしく、いくらかはしおらしくしていてもらいたい。というか、そのまま萎れてもらいたい。もう少し羞じらいというものを見せてもよいのではないだろうか。そんなふうに、真夏の浜辺を駆けるように昂然と、泰然自若としてカミングアウトをしなくてもよかろうに。
このようにして、ぼくはイイヤマくんの性的嗜好性を知った。当のイイヤマくんはそんなことはどこ吹く風とロリ天を読み耽ってた。
なんというか、比較的まともな欲望を抱いている人たちの方が羞じらいながらおどおどし、どちらかというと少数派に属している人たちの方がかえって堂々としているのが当世風なのではないだろうか。ぼくはそんなふうに思う。というのも、マジョリティに属する人ほど、どのような嗜好がそこから外れてしまうかを熟知しているけれど、マイノリティの人たちはしばしば自分の欲望がどのあたりにマッピングされるかについて無関心だからだ。自分の欲望に忠実であることを優先させると、得てして人は他者から理解されない獣道を歩むことになる。その意味では、イイヤマくんなど自らの獣道を突き進む求道者というか、イイヤマくん自身が獣なんじゃないかと思わせるところがある。
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