第2話

 家を出ると、すぐ近所に住む中年女性に出会った。ぼくの住むアパートの隣に住んでいる方で、年齢は五十代後半か六十過ぎくらいだろう。髪の毛はすっかり灰白色に染まり、綿飴みたいなパーマがかかっている。毎朝自宅前を掃除しているので、一時限目の講義に出るときなど、たまに見かけて挨拶をする間柄だ。

 彼女はぼくの姿を確認すると、「あら、お出かけですか?」と和やかな口調で訊ねてきた。ぼくは一瞬ドキリとしたが、すぐに気を取り直し、取り澄ました顔で「え……ええ、まあ、そんなところです」と答えた。ほかに答えようもないではないか。まさか、ええ、ちょいとひと揉みできる乳房を探しに行くところです、などとどうして言えようか。

 ぼくは会釈をし、彼女も頭を下げた。

 その刹那、中年女性のカットソーの襟ぐりから胸の谷間がちらりと覗いたではないか。年齢を差し引いたとしても、彼女の乳房はなかなか立派なもので、申し分のないと豊かな量感でもって胸部を彩っていた。きっと若い頃はその威光により局地的に名を馳せたことだろう。

 けれども、それはぼくが触りたい種類のものではなかった。

 言うまでもないことだけれど、ぼくが触りたいのはうら若き乙女の乳房であって、盛りを過ぎたのものではない。桃で喩えるならば、噛んだときにぎゅっと音が鳴るくらい弾力性と歯応えがあるものだ。ちょっと力を入れただけで果汁が滴り落ちるように熟成したものではない。こういうふうな言い方をするのは気が引けるけれど、おばさんのおっぱいなんて眼中にない。てんでお呼びじゃない。

 くわえて、こんな近所で目的を達成してしまっては、いかにも近場で簡単に済ませました、という感じがするではないか。そういうのはよくない。ぼく自身の乳房を希求する欲望に対しても誠実さを欠いているし、おばさんの乳房に対しても失礼だ。冒涜的ですらある。切実な欲求とはいえ、間に合わせで済ませるような態度ではすべてを台無しにしまいかねない。ぼくは足早にその場を立ち去った。


 秋晴れだった。青々とした空を背景に見事な鱗雲が点々とどこまでもつづいていた。裏庭で秋刀魚を七輪で焼き、ビールでも飲めば、すぐに缶ビールのコマーシャルフィルムが撮れるだろう。松茸なんかも焼いたりしてね。モクモクと立ちのぼる煙が鱗雲と混ざっていく様子はいかにも日本の秋といった風情ではないか。

 そんな日に乳房を求めてあてもなくうろうろするなんて、ちょっとばかし変質的ではないだろうか? ぼくの頭にそんな疑問が浮かんだ。この晴れやかな日に、世間的には性的な部類に属するほの暗い願望を抱いて街をうろつくなんて、ずいぶんといかがわしい所業ではないか。仮に今晩、郷里の母から電話がかかってきて、今日は何をして過ごしていたの? と母特有の子を想うやさしげな口調で問われたとして、はたしてぼくはうしろめたさを感じずにいられるだろうか? そんなことをたずねられたら、思わず電話口で押し黙ってしまいそうではないか。そして電話を切ったあとで忸怩たる想いに駆られて、しばらくは正座を崩すことすらできずに、ぐっと歯を食いしばることになるのではないか。

 そうはいっても、ぼくの乳房に対する思いは季節感や天候に左右されるほどやわなものではなく、持ち重りのするしっかりとしたものだったので、自宅のアパートに引き返すことはしなかった。だいいち、母から電話がかかってきたとしても出なければいいのだし、うちの母親はめったなことでは電話なんてかけてきやしないのだ。


 気持ちは固まったものの、ぼくはそれほどすっきりした気分にはなれずにいた。その原因は家を出るまであれほど強く希求していた乳房への思いが、いくらか歩いただけで揺らいでしまったことに対する自責の念からだった。ちょっとばかし快晴だというだけで躊躇い心が生まれるなんて! ぼくの乳房への想いはその程度のものだったのか! 踵のすり減ったキャンバス地のスニーカーでぺたぺたと歩きながら、ぼくは自分の薄弱さを呪った。

 しかしよくよく考えてみると、それも致し方ないことのようにも思える。なにせ、いまぼくはたったひとりきりで自分の欲望と向き合い、それに対処しようとしているのだ。多少弱気になってしまうのが情理というものではないだろうか? さらにいうと、人がその能力を爆発的に開花させるには、外部からの要請が必須というではないか。求められてこそ、人は力を発揮できる。つまり、なにかを成し遂げるときには共に支え合う仲間が必要なのだ。

 そうだ。仲間だ! 

 ぼくは共に乳房を求めてさまよってくれる友人がいないか、頭の中で検索してみた。すぐに一人思い浮かんだ。イイヤマくんだ。

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