さようなら、カリガリ博士

@akifumi

第1話

 唐突に乳房が触りたくなった。触りたくて仕方がなくなった。その欲求は大西洋北部を襲ったハリケーンのごとく、ぼくのなかのあらゆるものをなぎ倒し、またたく間にすべてを洗い流し、なにもかもを吹き飛ばしてしまった。

 そんなことが起こるなんて、まさしく青天の霹靂だった。

 言うまでもないことだけど、ぼくだっていつもを触りたがっているわけではない。勘違いしてもらっては困る。四六時中おっぱいおっぱい言っているようではあまりに欲求不満ではないか。ぼくは夫とご無沙汰気味の性欲過多な三十代の団地妻ではないのだ。

 とはいえもちろん、おっぱいには人を惹きつける魅力があることは素直に認めたいと思う。あのやわらかそうなフォルム、得も言われぬ触感、脇下から正中線に向けて流れる見事な曲線美……惹きつけられないものなどどこにいようか?

 なので、おっぱいを触りたいこと自体はさして驚くべきことではない。

 そうではなくて、強調すべきことは、このときのぼくの触りたさの度合いが尋常ではなかった点だ。それはかつてないほどの激しさをもってぼくを虜にした。


 考えてみると、もうどれくらいまともにおっぱいを触っていないだろうか。最後に触ったのはどれくらい前になる? 

 ぼくはおっぱいを軸にして自分の実人生を振り返ってみた。まさか母親に授乳してもらったときではないだろう。ふざけてもらっては困る。いくらなんでもそんなに遡るはずがない。おまけにそのときの記憶などほとんどないに等しい。

 では、幼稚園のときにふざけて保育士さんの胸にタッチしたとき? まさか。そんなのはものの数に入らないし、そもそもそんなことをしたかも定かではない。

 それではいつなのだろう? 

 わからない。

 とはいえ、これ以上追求する必要はない。というのも大切なのは、ぼくがどれくらいおっぱいから遠ざかっているかという計量的尺度ではなく、いまぼくがどれくらいおっぱいを触りたいかという熱量的見地なのだから。

 その意味ではぼくの熱情はかなりのものだと自負している。もし電力量に換算できたとしたら、食パンの二、三枚を軽くトーストしてみせる自信がある。バターをぺろりと溶かし、こんがり狐色に焼いてみせる。

 この欲求はもはや飢えに近いといっても過言ではない。砂漠で遭難している人間が泉の幻を見るように、そっと目を閉じると、瞼の裏にはたわわに実った二つの乳房が初夏の風に揺れる桜桃のようにまざまざと浮かぶほどだ。

 ところでこう言ったところで信じてもらえないだろうが、ぼくのこのおっぱいを渇望する気持ちは猥褻なものではなく、むしろ純粋さの証しだ。

 どういうことかというと、実際のところぼくが求めているのはおっぱいそのものではなく、乳房的なもの、つまりイデアとしてのおっぱいであり、それは非存在として現存するひとつの観念でしかない。実定的なかたちでおっぱいを求めるとは、究極的には性的欲求解消のための手段でしかないわけだが、それに反して、ぼくにとってはおっぱいを触ることそのものが目的なのだ。

 ぼくのおっぱいに触れたい気持ちに他意はない。

 それは性欲の発露や欲求不満の解消ではなく、きわめて実存的な欲求だ。これが純粋でなくてなんといおうか。

 夢想的な願望を述べることを許していただけるのなら、ぼくとしては、できることならポケットにおっぱいを入れて、気の向くままに触りながら街をぶらぶらと歩いてみたい。あっちへふらふら、こっちでもみもみといった具合に。そういうのってなんだか心落ち着くような気がするじゃないか。

 でもじきにそれだけでは物足りなくなってしまうかもしれない。いや、きっとそうなることだろう。人間の欲望には際限がないのだから。ぼくの夢想的な欲求はさらにエスカレートするにちがいない。

 たとえば、こんな具合に。


 ぼくとおっぱいは小春日和の海辺にいる。風はいくぶん冷たく、ひやりと頬に吹きつけるものの、あたたかな陽射しのおかげでそれも心地よく感じられる。両掌に感じる砂浜の感触はさらさらと滑らかで、独特の刺激が伝わってくる。止むことなく打ち寄せる波の音と、時折耳に届くカモメの鳴き声だけが、ぼくらに聞こえてくるすべてだ。

 そのうちにぼくらは砂を払って立ち上がる。ぼくなんとなく愛おしさのようなものに満たされて、おっぱいに触れようとする。すると、乳房はぼくの手をひらりとかわして波打ち際を走り出して言う。

「ふふふ、あたしをつかまえてごらんなさあい!!」

 乳房はそう言う。ぼくは小走りで追いかけながら呼びかける。

「こら、待てよう。待てったらあ」

 あははは。

 うふふふ。

 ひとしきり追いかけっこをしたあとで、ぼくと乳房は浜辺にごろりと寝転がり、さんさんと降り注ぐ陽光を浴びながら、乱反射する水面に目を細めて、ぎゅっと手を握り合うのだ。それからぼくは乳房の乳房に触れる。今度は乳房も逃げ出したりはしない。そのようにしてぼくらは愛を確かめあう。

 

 もちろんこれはあまりに夢想的な願望だ。この殺伐とした現実社会ではおっぱいを触りたいなどと言い出せば、大抵の人はぼくのことを性欲の抑制すらできない、未成熟で危険な犯罪者予備軍と見なすことだろう。それが世間一般の見方であることは重々承知している。いくらぼくが、いや、そうではなくて、ぼくの動機は極めて清廉なものなのですよ、きわめてプラトニックなものなのです、と朗らかに主張したところで、まず聞いてはもらえまい。

 なので、ぼくはそんなことは言わない。ただ一応、申し開きをしておこうと思っただけである。

 つけ加えると、ぼくのこの衝動はお腹を減らした乳幼児が母乳を求めるときの純粋性とも異なっている。なぜならば、乳幼児が求めているのは詰まるところ、ミルクであって乳房ではないからだ。言ってみれば、乳幼児にとっての乳房とは、母乳を求めた際に付随するものでしかなく、生ビールにおけるジョッキ、キャラメルマキアートにおけるマグカップでしかないわけだ。

 そしてここが肝心なところだが、乳幼児が乳を求めるのは食欲を満たすため、つまりは生存本能である。ところがぼくの場合、当然のことだけれどそのような欲求とは無関係だ。先にも述べたが、ぼくはそういった生物学的欲求とはべつの求め方でおっぱいを求めている。いうなれば、ひとつの観念としてのおっぱいを求めているのだ。


 たとえ世界中のだれからも信じてもらえなくとも、少なくともぼくは自分自身の欲求を卑俗なものではないと確信している。確信しているので、これ以上くどくどと説明することはしない。むしろ説明しないことで、かえって自分の内に潜む清廉なイノセンスが保たれる気がする。だれがなんと言おうと。


 ところで、こんなことを吐露するとまたいらぬ誤解を生んでしまいそうだが、おっぱいおっぱいと連呼するとどうにも生臭いというか、いかにもいやらしい感じがしてしまうので、ぼくとしてもいささか気恥ずかしさを感じてしまう。もちろん、どのような呼び名であってもおっぱいはおっぱいなのだが、そこまで割り切ってしまうのもいかにも情操がないというか、こう、なにかを振り切ってしまったがゆえのみたいなものが醸し出されてしまうように思われる。

 やはりここはおっぱいではなく乳房と呼称を統一することで、下卑たニュアンスをあく抜きし、いくばくかの高尚さと文学性を付与したいと思う。決してぼく自身の性的欲求をカモフラージュしようなどという卑小な試みではないことを読者諸氏には知ってもらいたい。ほんとだよ。


 そんなわけで、ぼくはこの行楽にふさわしい一年のうちで最もすばらしい季節に、新鮮で溌剌とした乳房を探しに出かけることにした。

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