鬼と少女 1/2
あれは、深々と雪の降る夜でした。
私はまだ、五つか六つだったのだと思います。でも、あの時のことはよく覚えています。
「…誰だ」
彼はとても背が高くて、逞しくて、ああ、私はここで食べられてしまうんだ。バリバリと、頭から。それがかなしくてこわくて、私は涙がとまりませんでした。
「お、お…」
「…お?」
「おにしゃん、おねがい、たべないで」
「あ?」
彼の声に私はびくりと身体が跳ねました。
「ごめ、ごめんなしゃ、ごめんなさい」
そして、彼は暫く途方にくれたあと。
「寒い。とりあえず中に入れ。雪も吹き込む」
そういって、私を暖かい部屋に入れてくれました。
「落ち着いたか」
「ひゃい」
「で?ひとんちの前で、しかもこんな山小屋で、しかもこんな雪の中。何してたんだ」
「………」
私はまた泣きました。
説明しておきますが、私はこの時は彼が怖くて涙が出たというよりも、説明をしようと思ったらかなしくてかなしくて泣けてしまったのです。
結果。
ぐぅ~~…
私は言葉を発することはできませんでしたが、私の腹の虫は黙っていることができませんでした。
朝からなにも食べていないため、遂に虫は悲鳴をあげたようでした。
「…腹へってんのか」
彼はそういうと、待っていろと言い残し席を立ちました。私はその間、気恥ずかしさと、まだ残る哀しさで俯きながらじっとしていました。
「……」
彼は暫くしてから戻ってくると、私が正座する前にお盆を置きました。
そこには、おにぎりと、お漬物、そしておみおつけ。
恥ずかしながら涎がとまりませんでした。
「夕飯の残りだが。食べると良い」
私は御礼を言う余裕もなく、おにぎりにかぶりつきました。そのご飯が、とても、とても美味しくて、嬉しくて。
そして、ご飯ではない何かの味がして。
「…?」
不思議な顔でかじった握り飯に眼をおとしたら、薄桃色の何か。
「川でとれたマスだ。焼いてあったんで入れといた」
私は今でも、マスのおにぎりが大好物です。
「今度こそ落ち着いたか」
私はぬるめのお茶を飲んで、こくり、と頷きました。
「おかあさまと、おねえさまが、やえはいらないこだと」
口に出したらまた悲しくなってきて、俯きました。でもぐっと堪えて、続けます。
「だからおににたべられてしまえと、ゆうこく、おいていかれました。ないていたらくらくなって、ゆきがつめたくて、あかるかったからこちらにきて、のきさきをかしていただいたのです。おにさんのおうちとしらなくて、こわくてかなしくて」
今にして思えば、なんともわかりづらい説明です。でも彼は、黙って聴いてくれました。
「…名は、やえと言うのだな」
「はい」
「何となくの事情も察した。今日は泊まると良い」
「たべないのですか」
「ん?」
「わたしを、たべないのですか、ばりばりと」
彼は何度か瞬きをしたあと、おかしそうにわらいました。
「いいか、やえ」
「はい」
「俺は人間を食べる趣味はない」
「しょうなのですか!」
この頃の私は、泣いたり驚いたりするとさ行の発音がうまくできませんでした。
私の反応と言葉に、彼は更に大きくわらいました。
「へえ、女の子?」
「ああ。年の割りには言葉も作法もしっかりしてる。それなりの家の子なんじゃないかと思うんだ」
「なるほどねえ…話を聞く感じ、どこの子かわかっても返さない方が良い気もするけど。まあ何か情報があれば連絡するよ」
「その辺は事情がちゃんとわかってから考えるさ。よろしくたのむ」
翌朝。彼の話し声で、私は眼を覚ました。
「た、たいへん」
もう陽が昇っています。当時の私は、夜明けと共に起きて掃除をしなければ行けないという言い付けがあり、こうして寝過ごすことは許されませんでした。
慌てて起きて、声がした方に顔を出すと、彼の横には知らない男の人が居ました。
鍛えられた身体をした彼とは対称的に、すらりとした身体。雑に切られた彼の髪とは対称的に、手入れされサラサラで真っ直ぐな髪。
「あ!この子?」
男の人は私と眼を合わせると、笑顔で言いました。
「やえ、おはよう」
その横で彼も微笑みます。
「僕、コハクっていうんだ。やえちゃんだよね」
「おはようございます、はい、しののめやえともうします」
「東雲…?」
私の言葉に、コハクさんと彼は驚いた顔でお互いを見合いました。
「東雲家か…なるほどね」
「…姓を名乗れるなら早く名乗れよ」
心なしか、低くて怖い音で彼は私を見ます。
「や、ご、ごめんなしゃい」
「まーまー、怒るなよベニ」
「べに…」
私は彼を見上げます。
「おにさんは、べにさんというのですか」
「なんだ、名乗ってなかったのか。お前、レィディに名乗るならまず自分が名乗れよ」
「なんだ、そのれぃでぃとやらは…。しかし、そうだったな。名乗っていなかった」
「…べにさんは、おにさんではないのですか」
彼は、少し迷ってから、私にこう答えました。
「さあな。俺が鬼かどうかは、見る人が決めるものだ」
そのあと、慌てて掃除をしようとする私を制し、彼、ベニは私に朝食を出してくれました。
「東雲家、調べてみたよ。二年ほど前に後妻と連れ子が嫁いでいた」
「前妻は」
「彼女を産んですぐ亡くなってるね。東雲は女性が跡取りになるしきたりがある。おおかた、連れ子を跡取りにしたい後妻がやえちゃんを追い出したのだろう」
「父親は何をしてるんだ」
「神隠しにあったと泣く後妻を信じてるみたいだよ。大分後妻を可愛がってるようだしね」
数日後、ベニとコハクのそんな会話を聞きながら私は昼寝をしていました。
私はその時寝ながら泣いていましたが、この会話の意味を知り泣いていたのではありません。初めて膝枕というものをしてもらったことが嬉しくて泣きました。ベニの膝は固くて快適とは言えませんでしたが、暖かさと安心感に私は言い様のない心地よさを感じていたのです。
それから、私はベニの家で暮らしました。コハクはとても博識で「折角今までそれなりの教養を受けてきたのにそれを無くすのは勿体無い」と、私に読み書き、行儀を教えてくれました。
あまり外に出ることはしませんでしたが、私はこの生活がとても幸せでした。
恩返しになるかはわかりませんでしたが、掃除や料理、裁縫など、ベニの身の回りのことを覚えて尽くしました。
私が十四になったころでした。ある日ベニがとても傷ついて帰ってきました。
大きな怪我はないものの、あちこちに小さな切り傷や痣がありました。
「ベニ!どうしたのですか、何かあったのですか!?」
「なんでもない。転んだ」
「…怪我の手当てを」
私はそれ以上何も訊かずにベニを介抱しました。
「無茶をしたね。あまりやり過ぎると、戻れなくなるよ」
「やえに聞こえる」
「寝たんだろ?」
その日の晩。その声で、私は目を覚ましました。コハクが来て隣の居間で話をしているようでした。そのまま気づかれないよう、息を潜め、耳をそばだてました。
「もし俺に何かあったら、やえを頼む」
「嫌な話だね」
「お前の仕込んだ学があれば、家業の手伝いくらいできるだろうさ。どこかに嫁にやってくれてもいい」
「じゃあ僕が貰おうかな」
「……やえが構わないなら、それも良い。お前ならそれなりに良くしてくれるんだろう。…なんなら、いますぐやえに訊いた上でもらってやってくれ」
「酔ってるのかい?馬鹿なことをいうね」
「本気だ。お前もやえも、この家から遠ざかった方が良い」
「……考えておくよ」
その日、私は眠れませんでした。
「今日は遅くなる。コハクが一晩預かってくれるらしいから行ってこい」
次の日。朝食を食べながらベニは私にそう言いました。
「…遅くなっても、構いません。此処で待っています」
「駄目だ。コハクのところへ行け」
「っ…」
その言葉は私を強く突き放すようで。とても悲しくなりました。
「やえのことが嫌いになりましたか」
「そんなことは言ってない」
「では、邪魔に?」
「やえ」
彼は低い声で名を呼びます。
「コハクのところに嫁いでいけと?」
「…起きてたのか。盗み聞きは趣味が悪いぞ」
「たまたま耳に入ってしまっただけです」
「同じことだ」
「やえは、どこにも嫁ぎません。ベニの傍に居ます」
「それは駄目だ。ちゃんとどこかに嫁げ」
「どうして」
「女は年になったら嫁に行くものだ」
「嫌です」
「…とにかく、今夜はコハクのところだ。これは絶対だ」
「行きません」
「それは参ったな」
ベニが出ていったすぐ後、迎えにきたコハクに背を向け、私は膝を抱えていました。
コハクはのんびりとした声で言います。
「ごめんなさい、コハクを困らせてるのは承知しています、ベニが怒るなら罰はやえが受けます」
「まあ陽が暮れるまではまだ時間がある。ゆっくりしようか」
「コハクは怒らないのですか」
「やえちゃんがそんな我儘言うの初めてじゃない?男を困らせるくらいの方が女性は可愛い。それに、それだけ譲りたくないことがあるんだろう」
コハクは私の隣に座り、ただ微笑みます。
「…ごめんなさい、コハクは優しいですね」
無理矢理連れていくこともできたのだと思います。でもコハクはそうはしませんでした。
「やえちゃん、今夜…ここに残るかどうか、やえちゃんが決めて良いよ。ただし」
コハクは真剣な眼で私をまっすぐ見ました。
「ここに残るなら、君は過酷な運命を選ぶことになるだろう。その覚悟があるなら」
「その運命には、やえの隣にベニはいますか?」
「…君が、覚悟を決めるなら」
「…残ります。やえはベニと共に居ます」
ゆっくり決めていいんだよとコハクは少し笑いましたが、私に迷いはありませんでした。
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