結党前夜
円谷が大学院卒業を間近に控えた冬、加賀見は蟹を持って円谷の六畳間にやってきた。円谷は県内の文具メーカーに勤めることが決まっていながら修士論文の執筆が思うように進まず、多少の焦りを感じていた。突然の訪問はいつものことだが、今日ばかりは帰れと告げようと思い玄関先に立つ男の荷物を見遣ると、蟹の入った買い物袋と麦酒の缶、日本酒の瓶が見えたため気分転換も必要だと思い直したのである。
「蟹は一匹か、しけてるな」
「文句言うなら足とカニミソは僕のもんだけどね」
そういって加賀見はどっかりと卓袱台の前に座ったのち、慣れた手つきで室内用のモニターを付けて円谷にはなにやらよくわからない作業を始めた。卓袱台の上にはパラフィン紙が掛かった本がいくつか散らばっており、加賀見は作業をしながらそのつるつるとした感触を確かめていた。
円谷は食材を切る片手間に蟹の下茹でを始めた。せっかくだと思い加賀見の持ってきた酒を少しふる。円谷は日本酒には下戸である。反対に加賀見は日本酒ばかりを延々、ちびちびと舐めるのを好んだ。
「ちょっと!なにしてんの!」
「酔蟹を知らんのか、上海蟹は紹興酒なんかに漬けていただくんだぞ」
「蟹に飲ませるくらいなら僕が飲みたいってのに……」
ちょっとふっただけじゃ味なんて変わりゃしないよ、とぶつぶついう加賀見を放って着々と準備を進める円谷は、早速麦酒を開けて一気に半分以上を煽った。蟹も酔ったら赤くなるのだろうか、と酔蟹を食べたこともない円谷は思う。鍋は渾然一体となって部屋中に冬の匂いを漂わせていた。
「机の上を片づけてくれ、その本は図書館から借りたもんだから床に置くなベッドにしろ」
「この表紙のぺらぺらなんなの、恭しく扱ってくださいって感じでイヤだね。お高くとまった感じがどことなく水瀬さんに似てる」
「うるさいな、お前にパラフィン紙の良さを語っても分かるまい」
カセットコンロを用意してその上に鍋を置くと湯気が通気口から拡散され卓上の空気を暖める。加賀見はぼんやりとその様子を見ていた。円谷は麦酒用のグラス、加賀見は日本酒用の猪口をそれぞれ冷やしていたので、それらをなるべく鍋の熱気から離すように置いた。鍋の蓋を取ると彩りよく並んだ食材が顔を見せたが、強引に押し込んだ蟹が浮上すると怪獣映画のようにその調和を破壊していく。
乾杯は無かった。この二人が初めて出会ったのはゼミの顔合わせ飲み会であった。その時も加賀見だけは最初から日本酒を舐めていた。悪酔いするからと本人は言っていたので、初対面で強引に勧める訳にもいかず杯を打ち付けられない加賀見は乾杯に際して猪口を少し持ち上げるだけだった。それから一度たりとも杯を合わせたことは無い。
「鍋を食べるとか鍋をするって良く考えたらおかしくない?フライパンするっていわないじゃんね。あまつさえ鍋を食べる、だなんて外国人が日本語学ぶのを阻害してるとしか思えないよ」
「確かにそうだな、しかしフライパンなんかは煮る焼く揚げる蒸すなんでもござれだが鍋は煮る一択だからな、その辺が関係してるんじゃないか」
適当な答えにそっかぁと呟く加賀見は抜け目なく大きな蟹足を引き寄せている。円谷は2本目、調理中に飲んだ物を含めれば3本目の麦酒を取りに行きながら加賀見の奢りだから仕方ないと自分に言い聞かせた。
「どうでもいいけどさ、カセットコンロなんてよく持ってたね」
「最近買ったんだ、火のない料理など認めん」
「これに対応する鍋とガスボンベがあるのもすごいよね、懐古趣味もここまで行くと清々しいな」
円谷の部屋を見渡すと紙の本こそ先の借り物しかないが、機械式の時計、切子細工やらの民芸品、トランジスタラジオなどの品があちこちに並んでいた。加賀見の言うとおり懐古趣味の円谷は今やほとんど見かけなくなったもの、新製品に駆逐されたものの蒐集を何より楽しみにしていた。
「見ろ、これはコンロと一緒に手に入れたMDプレーヤーというやつだ。CDは知ってるよな?それが円盤の形を失う前にCDの縮小形として登場したものでな、前世紀の終わりに流行したもんだ。まぁ中身は聞けないんだが眺めるだけでうっとりする。やはり小型化は日本人の十八番だったことがよく分かる。」
加賀見は興味なさそうに鍋をつついていたが、やがて思い切ったように蟹の頭部を持ち上げてそれを開封すると中にあるカニミソに蟹肉を混ぜて食べることに夢中になり始めた。円谷は悲しげにMDプレーヤーをしまって話を中断した。
それからぽつりぽつりと話しつつ酒を飲んでいると、それに伴って鍋の中身も片付いていった。一応今日の鍋は奢りかどうか確かめるため、円谷は対面にいる男が燗を所望するであろうタイミングで立ち上がった。蟹は哀れにも殆どその身を解され、意外に白い肌の内を晒していた。
「この蟹は結構するのか」
「まぁそんな高くはないよ、この日本酒の方が高いくらいさ」
熱燗を冷酒の半分以下のペースで舐め、加賀見は答えた。ややあってから、奢ってほしけりゃ蟹雑炊が食べたいなぁとニヤつくので円谷は悪態をつきながら台所に立った。加賀見はこういった人の目論見にやたらと鋭かった。温めたご飯を投入後、葱を散らし、卵を入れて火を止めた。
「俺が調理したんだ、なによりこれで金を取ったんじゃ押しかけ居直り強盗だ。ここは奢ってもらうぞ」
「2年目薄給の行員なのに可哀想だと思わない?」
「来年から1%になるんだからその予行演習だと思え」
加賀見は大学の学部を卒業した後、地元の銀行に就職した。円谷は大学院に進学したため疎遠になるかと思いきや相変わらず週に1度は会っている。来春から円谷が勤務する文具メーカーもこの近辺にあり、卒業しても恐らくこのままだろうと考えると円谷は腐れ縁という言葉を思わずに居られなかった。
「いま0.5%といっても年間で2万円取られるわけだからね、この鍋5杯分だよ」
「年収が露呈したな。銀行は3年目から給料が上がるんじゃなかったか」
「それが搾取されるからこうして嘆いてるんじゃないか」
加賀見の身の上を考えるといまや定型句となった「じゃあ結婚しろ」という言葉も使うことが出来ず、円谷は一瞬言葉に詰まった。そんなつもりはなくとも普段から定型文ばかりで会話していることを意識する。なにかにつけ頑張れと言い、問題が起こればすぐにすいませんと言ってしまう。そういった定型の会話を円谷は人間の悪癖と考えていた。
その隙に加賀見は口を開いた。何気ない口調だったが今日もこれを言うために来たのだと円谷にははっきりと理解せられた。
「なぁ円谷、やっぱり卒業したら一緒に住もうぜ」
この言葉に回答する定型句があるなら教えてほしい。円谷は思った。
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