恥じらいをとうに無くしたダメ女の翼
芽衣子と遊園地に行く約束をした、その日の夕刻の佐倉家。
「兄ちゃん、桜花姉ちゃんは次いつ来るの~?」
さっきまで夕飯の唐揚げをモリモリ食べていた優士が、思い立ったように手をピタリと止めて聞いてきた。
「さあな。あの人働いてるんだから、そんないつでも来れるって訳じゃないだろ」
衛士はそう答えつつも、少しばかり居心地が悪い気分になる。
俺が来るのを断ったとは、優士には言えん――
以前、寝始めのタイミングに桜花が電話を寄こした時を思い出したのだ。
「え~、俺後で姉ちゃんに聞いてみようかな?」
優士が上目遣いに言ってきたのを、しかし衛士は首を横に振ってみせる。
「お前の方から桜花さんにメッセージ送るのは禁止だって、最初に連絡先交換した時に言っただろ。約束破ったらお前のスマートフォン取り上げるって条件も付けたの、忘れてないよな」
「分かってるよ。おっかないな」
優士は口を尖らせながらも、衛士の言い付けには逆らおうとしなかった。そもそも彼のスマートフォンは、自分が何処かで危険な目に遭ったりした時に直ぐ連絡してこれるようにとの配慮から、衛士が両親に頼んだ為に持つ事を許された物なのだから。
「じゃあさ、兄ちゃんが聞いてみてよ」
「……だから桜花さんは働いてる大人なの。一々こっちから連絡したら悪いって。まあ向こうから連絡が来たら、な」
衛士は柔らかい言葉で拒否したが、これは勿論彼の方便である。
俺の方から連絡なんかしたらあのアマ、絶対調子に乗るに決まってる――
桜花を良い気にさせるのは癪だと感じられた。
しかし、彼と彼女との縁は中々に粘っこい。
夕飯の片付けも終わった頃、まるで見計らったかのようなタイミングでポケットのスマートフォンから着信音が鳴り始めた事に、衛士はドキッとする。
「……懲りない人だな」
着信相手の名前を確認して、そう言いつつも何処か安心する気持ちも湧いて顔が綻ぶ。
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「こんばんわー衛士君。今の時間なら大丈夫だよね、電話しても」
職場の待機場所から、桜花は仕事が終わったと同時に電話を掛けていたのだった。
『良いですけど。で、今日は何ですか?』
衛士の落ち着き払った声を聞いて思わず顔がニヤけてしまう。それを少し離れた所から、椅子に腰掛けた職場の同僚ゆかりに見られている事に気付いて、桜花は慌てて背筋をしゃんとした。
「うん。次の次の日曜に休みが取れたからさ、どっか遊びに行かない?」
桜花が言っているのは要するにデートの申し出だった。客として夕飯を御馳走になりに行くのでは無く、対等な立場でデートをしようという話であった。
ゆかりは傍に有る台で少し気だるげに頬杖を突きながら、桜花の様子を見守っている。
『え……晩飯じゃなくて?』
衛士から戸惑ったような声が発せられる。これ自体は桜花と、そして誘いの段取りを共に考えさせられたゆかりにとっては想定の範囲内の事。
「そう。よく考えたら私衛士君に御馳走になってばかりだったから、たまには御返しとして衛士君を楽しませてあげたいなと思ったの」
ふふん、完璧で無理が無い流れよね――
桜花はそう思った。心の中で自画自賛の愉悦に浸ってさえいた。
今回は、この間の失敗を取り戻すという気概も有り気合十分なのである。
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何だよ、結構良い所有るじゃん――
衛士は桜花の誘いに嬉しい気持ちになっていた。
「こないだの夜の電話で俺怒ったってのに、そんな風に言ってくれるなんて思っても無かったですよ」
自然と声が明るくなる。
『そんなの、気にしてくれなくて良いよ。あれは完全に私が悪かったんだし』
こっちの言った事を即座に包み込んでくるかのような、そんな桜花の言葉に衛士は何だか居た堪れない気持ちになっていく。
だから衛士は、早めにこの会話をぶった切るべきだと感じた。
「ごめん桜花さん。その日は予定入っちゃって無理です」
『えー!? なんでー!』
いつもの彼女を彷彿とさせるバカみたいな声が上がって、衛士はやっぱり桜花さんだな、と思いながら事情を説明していく。
俺が怒った事にも嫌がりはせずに居てくれたんだから、こっちもきちんと断ってあげなきゃいけないよな――
それは衛士の年相応の優しさだった。衛士位の年頃なら、知人と遊びに行くというのはそうウェイトの大きい事では無いし、断る事の重みもそこまでじゃ無い。だからあくまで優しい気持ちで。――しかしその優しさが、大人の女の桜花の心は抉っていってしまうのである。
「今日学校で同じ学年の女が不良に絡まれてるのを助けてさ、向こうがそのお礼にって俺を遊びに誘ってきたんですよ。そんで遊園地に――」
『えっ、女の子!? ちょ、ちょっと待ってちょっと待って!』
桜花が同じ言葉を二度言ってきた。そんな何やら慌てた様子に、衛士は呆気に取られてしまう。知人と遊びに行くのはそんなに重い事では無い、という認識への自信が揺らぐ。
「えっと、俺なんか変な事言いました?」
『と、とにかく、落ち着いてーっ!!』
い、いや、それはお前がだよ……
衛士は心の中でそう突っ込まざるには居られなかった。
『その子、何!? どんな子!?』
きっと興奮しているからだろう、桜花が言葉途切れ途切れになりながら聞いてくるのは。
なんか慌ててるし、ここは簡潔に伝わる言い方をしなきゃいけないな。えーっと――
衛士は気遣いが出来る少年だ。だから本当に簡潔に要点を纏め上げてみせる。
「まあ簡単に言うと……黒髪で一見真面目そうに見えるけど、でも黒いパンツ履いてて、それに応じるみたいに中身は行け行けどんどんな所の有る女って感じかな」
これ以上無い、分かり易い説明である事には違いなかった。
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「黒い、ぱんつ!?」
桜花がその単語だけをいきなり大声で復唱したものだから、さっきまでずっと気だるげな態度を崩さないでいたゆかりが、それは眼つきを険しくしながら身を乗り出してくる。
「佐倉衛士君……思っていた以上に、やる子ね」
通話を横で聞いているだけの断片的な情報しか汲み取れなくても、井田ゆかりという冷静沈着な大人の女であれば、察しが付く部分というのは有るのだろう。
『ええ。なんか意外な感じがするでしょ? そんな奴なんです』
「えええ、ええっと……」
桜花はこの時、頭の中で想像を巡らせまくっていた。
何? パンツ見たってのは、パンツが見えてたって事? 何で? その子不良に絡まれてたって言ってたわね。もしかしてヤバい位の感じで襲われてたって事? ぬ、脱げてた? 制服が脱げてた? それを助けた……そ、それだけ? 衛士君落ち着いた感じでパンツって言ってるけど、パンツだからね? 見ただけ? お礼に遊びに誘われたって言うけど、その前にパンツ状態からもう色々他の事をお礼にって、そのままお楽しみになったとかまさかそんな展開が有ったりとかしちゃったりするんじゃ……
この間、五秒である。
「早くも他所で女を知っちゃったか」
そんな事を呟くゆかりに向けて、桜花は物凄い顔をする。
「うわっ、夜叉……夜叉が居るわ」
夜叉って何よっ!――
解説しておこう。夜叉とは、顔つきがとても恐ろしく猛悪な鬼神の事であり、要するにゆかりは今の桜花の顔がその夜叉みたいだと言っていたのだ。
『桜花さん、桜花さん?』
「あっ。ごめん、ちょっと電波が悪かったみたいっ」
衛士の呼び掛けにそう誤魔化しながらも、桜花のパニックは収まる様子が無い。
衛士自身は賢吾の言葉を聞いただけで実際の所、直接芽衣子の下着を見てはいない。慌てる桜花を気遣って、話を端折っただけなのだ。だから少し踏み込んで『何でパンツなんて見たの』とでも聞けば『いや、見てはいない』と直ぐに誤解が晴れる返事が返ってくるのだけれど……
衛士君って咄嗟の時の行動力が凄いから、そんな事が有っても、おかしくは、無いのよね――
そう思ったら桜花は心がきゅっと締め付けられて、問い質すのが怖くなってしまう。桜花は衛士のそんな突発的に出る強さが好きだ。そこに今は翻弄されてしまう。
自分が好きになった相手の部分に翻弄される……恋してる内はままある事だ。恋とはそういう厄介なものなのだ。
ま、まあ良いわ。一回の過ち位は、若いんだからそりゃあ有るわよ……物の弾みってやつよ。本気にさえならなきゃ、何て事も無いわ――
犯してもいない衛士の過ちを、桜花は寛大な心で以て水に流そうとしていた。
過ちなんて犯していないのに、どうして男と女はこんなに簡単に擦れ違いを起こしてしまうのだろう。全く以て恋とは無常なものである。
「でも衛士君。あくまで助けてあげたお礼として遊びに行くのよね? だったらさ、遊園地なんて気合入った所じゃなくても、カラオケでパパッと済ませちゃえば良いんじゃないかなー」
『あー。でもそいつ相手の不良の事をまだ気にしてるみたいでさ、真剣に忘れられるようにちゃんと楽しませてやりたいなって思っちまったんすよね』
何それ、優しいっ!――
不意に出てきた衛士の柔らかさを感じさせる心に、桜花は脊髄反射でそう感じてしまった。
『気苦労が絶えない状況の中に居るとしんどいのは、俺も知ってますからね。だからふと、協力してやっても良いかなって』
衛士君いつも親が居ない分の家事を真面目にこなしてるもんね! その気持ち、私にもちゃんと分かるよっ!――
この時桜花は思った。例え衛士が同世代の女の子とほんの間違いで一夜を過ごしていようが、そんな事は小さな事なのだと。だって彼はそんな風に手を差し伸べられる、優しい子なんだから。私は私のこの愛で、そんなキミこそ包んであげたいのだと。自分は彼より大人なんだから。そうよ、年上ってそういう事だもん!――と。
重ねて言うが、そもそも衛士は過ちも犯していなければ、芽衣子と一夜を共にもしていない。
だから桜花のこの想いが正しいか間違ってるかなんて議論に意味は無い。意味は無いが、とにかく彼女には目の前の自分の道が見えていたのだ。
「衛士君、もしかしてその子と二人だけで行こうとしてない?」
『え、そのつもりですけど』
「やっぱり。気晴らしに遊んであげるんだったら、もっと人数が多くなくちゃ駄目よ。ほら、前に恋愛相談に乗ってあげてた喜亮君と千紗ちゃんって居てたでしょ。その二人も誘ったら良いわ」
あくまで諭すような言い方で、桜花はしれっと衛士と芽衣子が二人きりになるのを阻止しに掛かる。
ナイスな機転だわ。これはナイスな機転だわっ!――
横を見ると、ゆかりも半分呆れながらもうんうんと頷いていた。
でしょでしょ~。いける、押し込められるわ!――
「うーん、でもあいつらはあいつらで世話が焼けるから、これ以上面倒が増えるのは――」
「駄目! 駄目ったら、駄目ぇっ!!」
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桜花の勢い任せの叫びに、衛士はハッと息を飲む。
「そ、そんなに駄目ですか?」
『ぜぇったい、駄目ぇ~!』
桜花のその勢いを衛士は何故か撥ね退けられなかった。普段ならこういう他人の押し付けがましいような言葉には反発したくなるのが衛士の性質なのだが、それでも心の中で桜花の必死な顔が思い浮かんでしまって、どうにも振り払えなかったのである。
「まあ、桜花さんの言う事も一理、有りますよね。これはあの小暮の憂さ晴らしみたいなものなんだから、大人数でワイワイやった方が、良いかな……」
『そうよそう! 流石衛士君、分かってるぅ!』
こっちが賛成したと同時に桜花が急に活き活きしだした事に、何か胡散臭さを感じながらも、今更そこを気に掛けられる流れでは無かった。
「兄ちゃん、もしかしてさっきから桜花姉ちゃんと話してるの?」
いつの間にか優士が傍で聞き耳を立てていたからだ。
「うぉっ!? そ、そうだけど……」
つい反射的に答えてしまう。優士がジト目でこちらを見てくる。
「姉ちゃんから電話してくれたんだ? だったらまた晩ご飯食べに来てくれるように頼んでよ。向こうから連絡来たらそう伝えるって言ってただろ」
優士の押しの強さに衛士はこれまた息を飲むのである。
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スマートフォンから優士の声が聞こえてきたのを、桜花は当然聞き逃しはしない。
「優士君近くに居るの?」
『えっ!? い、居ますよ。――こら、スマホを取ろうとするなっ』
どうやら優士がこちらと話したがってるようだと気付いて、桜花は瞬時に思い至る。
これこそ、最大のチャンスっ!――
「あのさ、その日曜なんだけど衛士君が遊びに行ってる間、私が優士君のお相手をしてあげるっての、どうかな?」
強引さは自覚していた。しかし恋は、時に勝負に出なければいけない。
『……』
衛士は暫し沈黙していた。
「……」
桜花も黙る。黙る。
むむむ――
心の中では唸りを上げていた。これは最早……
「運に身を任せたわね」
向こうには聞こえないように、ゆかりが囁く。
『……優士、お前桜花さんと二人きりでも過ごせるか?』
今度は桜花が息を飲んでいた。
『……そうか、分かった。――桜花さん、お願いしても、いけますか?』
桜花の顔がみるみる明るくなるのを見て、ゆかりも張り詰めた糸が切れたようになりながら、目を閉じて微笑む。
「もちろん! これも衛士君へのお礼としてだし、優士君にも何かしてあげなきゃだしねっ」
これもまた桜花の本心に繋がる思いである。だから無理無くその言葉が出ていた。
『有難う、優士も喜んでますよ』
「うんっ」
それから二、三言話して桜花は通話を切った。
「……はぁ~、疲れたぁ」
そう言いながら、ゆかりに近付いて寄り掛かる。
「私も途中からそわそわさせられたわよ、全く。年下君を相手するってのも、馬鹿に出来ない労力なのね」
親友としてのゆかりの悪態に、桜花はしかし満足げな顔をする。
「でも良いっしょ。なんか日常にもハリが出るってもんでしょっ」
桜花はそんなにしっかりした大人じゃあない。
それでも彼女は手強い年下少年である衛士に対して、半ば無意識に年上の女らしく振る舞っていて、その年上女ならではなやり方で、彼との仲を少しだけ進展させてみせた。弟の優士に近しい存在として認めて貰えているのも、桜花が地で持つ大人の女としての包容力が有ればこそだ。
相手の女子高生芽衣子の事で有らぬ誤解を持とうとも、擦れ違いも、時には恋を加速させる起爆剤となるのだろう。
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