波乱の小暮芽衣子・2

 翌週の土曜日、放課後の廊下。


「さくらちゃん、今日は土曜だからゆっくり出来るんだろ?」

 隣で歩く賢吾の言葉に、衛士は気乗りしない様子だった。

「んー、そうだなぁ」

「あれ、結構お疲れモード?」


 少し間を置いてから、衛士は口を開く。

「いや、寧ろ昨日は負担が少なかったよ」

「そか。喜亮は千紗と二人でどっか行っちまったし、ここは俺らも誰か女の子と遊ばないか?」

「女の子? 女か……」


 年頃の男子らしく楽しい異性交遊に期待している風の賢吾に対し、衛士は遠い目をしてさえいた。

「さくらちゃーん、本当に俺の話聞いてるか?」

 賢吾に顔を覗き込むようにされて、ようやく衛士は気を取り直した。


「ああ、すまん。女っていっても、あいつら基本的には面倒臭いじゃん」

「でも中には千紗みたいに気さくに話せる子も居てるだろ」

「そうだけど、何ていうか学校の女達じゃ物足りない……」

 そこまで言って衛士は口を噤んだ。


「えっ!? さくらちゃんそれどういう意味だよ」

「何でもない、忘れろ」

「まさか、何時の間にか学校の外で彼女作ったとか……」

「彼女じゃね―よ!」


 ムキになって否定してしまった。賢吾は目ざとくそこを突いてくる。

「怪しいな。てか別に俺には話してくれても良いだろ、阿呆の喜亮と違って俺は口は固いぜ」

「まあ確かにそうだけど。……話すと長くなるが、でも最初に言っとくけど彼女とは違うからな」

「はいはいって、あれ?」


 賢吾は通りかかった教室から聞こえてくる喧騒に気が付いた。

「一組か。ギャラリーもちらほら居てるぞ」

「放課後早々誰か喧嘩でもしてんのか? 青春してるな」

「そんな達観した事言ってるけど、さくらちゃんもまだまだ青春真っ盛りだからな。もっと自分を大事にして良いんだぞ」

「ふん」


 そんな事は言われなくても分かってるよ――


 そう思って賢吾の方を見ていたから、衛士はその教室の扉から出てくる者の存在に気付かなかった。

「さくらちゃん危な――」

「え、どうわっ!」

「きゃっ」


 勢い良く衛士にぶつかってきた、そのロングの黒髪とプリーツスカートがなびいていた。背中から受けた衛士は床に突っ伏した格好になり、上からに圧し掛かられてしまう。重みの中に二つの柔らかな感触を得てしまう衛士。そして賢吾が「うわっ、黒」と驚いた言葉を漏らした事に察して、彼は咄嗟に叫ぶのだ。


「退けっ!」

 急かせるように両手を伸ばしてを、気持ち少しだけゆっくり目に撥ね退ける。


 さっさとスカートを直せ!――


 衛士はが「あっ……」と恥ずかしげな声を上げてから少しだけ間を置いて後ろを振り向く。今はぺたんと尻餅をつきながらも、服装は整っているが、清純そうな可愛い女の子を姿をしている事をようやく視覚でも認められたのだ。それまでは、背中に当たっていた胸の感触だけが判断材料だったが、目で見てみると確かに着ているブレザーを押し出す程に実りある大きさであった。


 黒髪で、黒を履いているのか。どういう奴だ?――


たた……ご、ごめんなさい!」

 お尻を押さえつつもしっかりと衛士を見て謝ってきた彼女の事を、一連の出来事を茫然と見ていた賢吾がこう呼んだ。

小暮こぐれ芽衣子めいこだ。面倒な子が来たなこりゃ」


 衛士はその言葉を聞き逃さなかったが、一先ずはその小暮芽衣子に声を掛ける事にした。

「気を付けろよ、相手に怪我でもさせたら面倒だぞ」

 今回自分に怪我は無いという意味も含ませつつ芽衣子に注意を促す言葉。周囲に居た生徒達から「おいおい、女の子なんだから優しくしろよ」等と、彼の薄情さを訴える声が聞こえてきたが、衛士は特に気にしなかった。


「うっせーよお前ら。さくらちゃんは寧ろ被害者だろーが」

 賢吾がそう言って周りに牽制してくれている事もあったし、衛士自身別にこれで周囲や芽衣子に嫌がられようが構わない、とも思っていた。


 中身の薄い事を言う奴らに合わせてられるかよ――


 それが衛士の同学年に対する基本的な見方であり、その分析はあながち間違いでも無い。


「あの、本当にごめんね?」

 今回は、それが外れていたようだ。不機嫌になるかとも思っていた芽衣子が、こちらをきちんと気遣ってくる様子を衛士は見逃さなかった。

「……良いよ。俺も真っ直ぐ向いてた訳じゃ無いし」


「芽衣子!」

 衛士がそう言って立ち上がったのと同じ位に、同じく一組の教室から出てきた茶髪に染めたツンツン頭の男子生徒が彼女に呼び掛けた。

「うっわ渋谷しぶや恭平きょうへい。これはマジで面倒臭いぞ」

 賢吾が苦虫を噛んだような顔でしていたのを見て、衛士はこの男が何なのかある程度の察しを付ける。


「おい、お前の方が芽衣子に謝れよ!」

 いきなり衛士に向かって声を荒げてくる恭平。衛士は、イラついた。

「……えっと、お前ってもしかして、状況の把握が出来ないタイプか?」

 何故か賢吾がとした。いや、正確には彼は衛士の怒り方の特徴を知っていたからそうなったのである。


 さくらちゃんって、タイプなんだよなぁ――


「あぁん、お前俺を舐めてんのか!!」

 怒りを露わにし今にも殴り掛かって来そうな恭平に周りの生徒が固唾を呑む。しかし――

「やめてよ恭平! こんな所で大声出すなんて恥ずかしいでしょっ!」

 彼を制したのは他ならぬ芽衣子だった。


「お前は黙ってろ、芽衣子!」

「何でよ!」

「こういう時は俺に任せりゃ良いんだ!」

「そうやって独り善がりだから嫌なのよ!」


 唐突に始まった恭平と芽衣子の言葉の応酬。衛士はそれが所謂痴話喧嘩なのだろうと見抜く。だからそれを黙って聞いていたのだが、それはだったのである。

 一早くその事に気付いた賢吾が衛士の傍に寄る。

「さくらちゃん、落ち着けって」


 そう声を掛けて衛士の横顔を覗き込んだ賢吾は、いや駄目だ、これはもう駄目だ! と思い直したのであった。

 タイプの衛士に黙らせておくという事は、即ち彼の中の怒りをゆっくりとさせていくという事なのだから。


「賢吾、今日は退屈しなさそうだな」

 衛士が低い声で言ってきた事に、賢吾はこう答える。

「……オーケー、派手にやったれ」

 賢吾の眼つきも既にギラついていた。まるで阿吽の呼吸みたいに、衛士の感情に合わせてみせていたのだ。


「そもそもいきなり芽衣子が教室から出て行かな――」

 恭平はそこまで言い掛けてから気付き目を見開く。

「ふあ……」

 未だ床に腰を降ろしている状態の芽衣子は、自分の上を跨っていくようにジャンプしていく衛士を見上げて、思わずそんな声が漏れてしまった。


 下から覗く顎の輪郭と、学校の、決して上質ではない天井の蛍光灯からの光を受けて逆に陰影の付いた顔つきが、芽衣子にはいたく勇ましく見えていた。


「お前のペースでっ!!」

「――きゃべつぁっ!?」

 衛士は右足からの飛び蹴りを恭平の側頭部に叩き込んで、彼の体を教室内へと送り返した。倒れ込んでいく恭平に向かって、衛士は着地しながらこれが俺のペースだとばかりに言い切るのである。


「喋り続けられると思うなよっ!!」

 賢吾の「よっしゃ、流石さくらちゃんだぜ」と誉め讃える言葉は芽衣子には聞こえていなかった。


 何、この人!――


 体が熱くなるのを感じながら、芽衣子は黙って衛士の背中を見つめていた。

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