波乱の小暮芽衣子・1
午後十一時四十三分。暗くしていた自分の部屋で、衛士は突然来たスマートフォンの通話コールにイラついた。
「……殴れば良いんだな?」
コールを掛けてきている相手の名前を見た第一声が、もうこれである。
衛士は大きく
「くっそ」
毎朝優士と自分の朝食を用意している衛士にとって、日が変わる前には既に眠りに着いているのが普通であり、僅かにでもその流れを妨げる事は例え友人の賢吾達でも許されていない。
「ダメ女だと時間の感覚もおかしいんだろうな」
衛士はすぅ、はぁ、と深呼吸をしてなるべく感情を落ち着けてからコールに応じる。
『こんばんわー! ねぇ、突然だけど一週間後の金曜またお邪魔して良いか――』
「うるせぇ、今何時だと思ってんだ。こっちはもう寝てんだよ……!」
テンションの差が天と地だった。
『えー!? ちょっと、いきなりこっちの心折ってくるじゃん……』
出会い頭にカウンターパンチを食らったが如く、スマートフォンの向こうの桜花がしょげかえる。
『折角勇気出したのにぃ』
「これまで晩飯たかるのに勇気を出してたのかよ。意外だな、食べさせて貰って当然みたいに思ってるんじゃ無かったんですね」
衛士は刺々しい言葉で、しょぼくれているであろう桜花に更なる打撃を与えていく。わざわざ通話に応じたのは、この為だ。声を荒げないのは隣の部屋で健やかに寝ている優士に配慮してるからであり、流石の兄っぷりを発揮しているのだが。――それは桜花には分からない事であった。
『物っ凄い嫌味な言い方してくるしーっ! 私だって感謝位はしてるもん!』
憤慨し、いきり立つような桜花の声。衛士は自分の言い方が桜花の誤解を招いている事を理解していたが、そこはもうそれで良いとしてしまう。眠気で頭が上手くは回っていないから、深く気にする気にもならないのだ。仕方無い。
それでも湧き起こる、懇々とこの年上女に説教してやりたいという気持ちは止まらない。せめてなるべく冷静に桜花に注意を促していく。
「じゃあ時間ってもんを考えてよ。相手が寝てたっておかしくないは無い時間でしょうが」
『まあ、そう言われたらそうだけどさぁ。……でも急に話したくて電話する時もあるじゃん』
何だそのさも当然だみたいな返しは? 大人だったらそういうのがまかり通るとでもいうのか? まあ仮に大人でも、お前はダメ女だけどな!――
衛士は心で非難していても、それでも優士を思って声だけは荒げずに説教を続ける。
「俺は明日早く起きて朝飯作るんすよ。桜花さん自分でまともに朝飯作ったりします? 結構時間掛かるんですよ。だから寝かせて下さい。てか夜十一時回ったら電話とか止めて。――俺は毎日、常にいつもその頃には寝てるから」
ここで桜花に優士の名前を出して話すのは、それは癪だった。ここはあくまで自分自身の怒りの問題として、桜花に話して聞かせたかったのだ。
念を押しまくる衛士に桜花も彼の事情を察したようで、間が有った後で冷静な言葉が返ってくる。
『……ごめん、気を付ける』
「ああ、気を付けて下さい。じゃ――」
『ああっ! ええっと、その……今度の金曜、なんですけどぉ』
桜花は慌てながらもなるべく低姿勢で要件の答えを求めてくる。
しかし間の悪い時というのは、何をやっても駄目なものなのだ。
「最近食費が
衛士は嘘を混じえつつも、はっきりと断ってみせる。今の怒りの精神状態で、桜花の分も含めた夕食の献立を考えなければいけなくなる事を受け容れる等、とんでもなかったからだ。
分かる人には分かるだろうが、相手の為に食事の献立を考えるというのは本来、かなりの愛情が必要とされるものである。
今回はとても無理だけど。また変な事で怒らせさえしなければ、次は愛情を注いでやらない訳じゃない。
ん……怒らせなかったら、桜花さんが来ても良いと思ってるのか? 俺は――
『うぅ、そっかぁ。じゃあね……』
桜花がまだ未練有る様子で別れの挨拶をしてくる。
「……ちょっと」
衛士は、桜花を呼び止めた。
『えっ、まだ怒るの?』
「このままじゃ寝つきが悪いからさ、おやすみって言って」
衛士はふと、気だるげにそう伝える。
『え……?』
「……寝起きで桜花さんに怒ったら凄ぇ疲れたから、悪いと思ってるなら最後は気分良く電話切らせてって言ってんの」
『ああ……そうだよね。うん、分かった』
ややあって、桜花から落ち着いた感じの相槌が返ってきた。そして――
『おやすみ、衛士君』
「有難う、おやすみなさい」
衛士は自分もおやすみと告げると、そのままもう通話を切ってしまった。
スマートフォンを手放して衛士は枕に頭を乗せて天井を見上げる。
「途中から怒ってるのと同時に、なんかそれが楽しいみたいな気にもなってたな。説教してやりたいとまで思うとか、そんな暇有ったら一秒でも早く寝た方が良いのに」
自分のストレスを発散したかったから? それとは少し違う気がした。
衛士は目を閉じる。
思いがけず桜花の『おやすみ』が頭の中で再生された。その声と言葉は疲れた衛士の心を、何故かとても落ち着かせていったのである。
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桜花はゆかりと別れた夜の帰り道で溜め息を吐いた。
「あーあ、失敗したなぁ」
飲み屋でゆかりに言われた『他に女を知る前に自分しか見れないようにしろ』という言葉。
「次に会う時に一気に距離を縮めようと張り切って電話したらこれじゃん、もーっ! ゆかりの馬鹿っ!」
衛士のような年頃の子と大人の付き合いで飲みに出掛ける自分とでは、夜の活動リミットが違っても当然だ。桜花はそれを失念していた事の憂さを、ゆかりへと向けて発散する。
お酒が入っている分、聊かタチが悪くなってしまっているようだ。
しかし――
「でも、おやすみか。……ふふっ、おやすみかー。男の子におやすみって言うのって、何か良いわねっ」
唐突に衛士との別れの挨拶を思い出し、にやけ出す桜花。
「衛士君もおやすみなさい、だって。怒っててもちゃんと返事をしてくれてたのは、大人相手に背延びしようとしてたから? 感情任せに怒ったままなのは子供みたいで嫌だとか、私が年上だから無意識に大人への対抗心が出てたのかな? もー、あの子のそういうトコが本っ当に可愛いっ」
桜花は両手を頬に当てて衛士の心境を妄想でデコレートし、一人夜道の中勝手にデレデレさえし始める。……お酒が入っている分、本当にタチが悪かった。
「衛士君ってそうなのよねー、最初にスーパーで逢った時からそう」
そう言って酔いながらもしっかりと、彼と特売玉子の最後の一つを取り合った時を思い出していく。
「私に負けたままなのが嫌で、玉子を持ってこうとしたこの手を反射的に掴んだりした事や、その後で実は親が家に居ないって聞いた事で分かっちゃった。――あの子は相手を前にして自分の殻を破ろうとしていく、そういう性根を持った強い子なんだって。そんなのさ、欲しくなっちゃうよ」
桜花はお酒の所為で火照っている顔を想いで更に熱くさせて、自分のその目利きの鋭さを自慢げに思っていた。自分に期待を持たせてくれる、そんな異性がたまたま年下の男の子だったのは、桜花にとってはあくまで些細な事に過ぎなかったのだ。そう、この時は。
数日後に彼女は浮かれていたこの時の自分自身の顔を、ぶん殴ってやりたいと思うような出来事に遭遇してしまう。
それは衛士が強い男の子だからこそ訪れた、桜花にとっての悲劇だったのだ……
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