恋愛フラグは特売玉子・2

「それが無いと弟が悲しむんだよ。夕飯はオムレツだって言っちまったんだから」

 流石に大声は控えていたが、それでも衛士の表情から主婦達もこれは只事じゃないと判断していた。


「ちょっと何あの女性ひと、子供相手に喧嘩?」

「男の子の方、近所の学校の制服よね?」

「そうそう。学校帰りにお遣いしてる良い子を相手に大人気無いわねぇ」

「きっと普段から男にも相手されないのよ。だからあんな酷い事を……」

「ああやって心が荒んで、のよね」


 主婦達の冷ややかな目が彼女を打つ。特に後の二言は完全に風評被害なのだが、しかし彼女にはと突き刺さる言葉だったのは間違い無かった。


 はぐっ! なんで私がこんな惨めな気分に……大体男は関係無いし、まだ二十三だから望みは幾らでも有るっつーの!――


 心の中で精一杯否定する。しかし、ここはどうやらもう潮時だと気付いて衛士に玉子を差し出す。


「……はい、あげる。これでお母さんに美味しいオムレツでも作って貰えばいいでしょ」

 した顔の彼女からもう争う気は感じられず、衛士は手首を掴んでいた手を離して玉子を受け取った。


 やっと諦めたか……ったく手こずらせやがって――


 年上女に対しても容赦無く冷たい眼で見る衛士だったが、一応礼だけは言おうと口を開く。


 しかし、これが悲劇の幕開けだった。


「ありがとっす。ただ、オムレツを作るのは俺ですよ。母さん……ていうか両親共働きで、今家には居ないから」

 衛士の言葉を聞いて突然、彼女が詰め寄って来たのだ。


「え!? キミの家、今親が居ないの?」

「えっ……ああ、そうだけど」

「へ~……ふぅん……」

 彼女が浮かべた深みの有る笑みを見て、衛士の体に何故か悪寒が走った。


 こわっ! ちょっ、なんつー顔だよこのアマ!?――


 彼女は次の瞬間にはと明るい顔になって、衛士の玉子を持っていない方の手を強く握って、小さな子供のようにした。

「えへへ、仲直りっ」

「う、うん……?」

 さっきとは本当にうって変わり口調まで子供みたいな彼女に、衛士はもう嫌な予感しかしていなかった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 両親が家に居ないとはいえ、佐倉家の食卓はいつも和気あいあいとしていた。弟想いの兄・衛士が作る料理を、弟・優士が元気良く食べる様は、それは微笑ましいものだったのだ。今日もそうなる筈だったのだ。


「待たせたな。ほら出来たぞー」

 夕食の特製オムレツを運んでくる衛士。

「やった~、本当にオムレツだ~」

 衛士の料理に目を輝かせるいたいけな九歳の少年優士。

 二人は本当に仲の良い兄弟が座る食卓は、とっても明るい。


 そこに――


「ね~、本当だったね、本当に玉子からオムレツって作れるんだねっ。キミに玉子を任せてホント良かった!」

 二人の食卓に混じった異分子……は衛士よりも年上女の様相を呈していた。正確に言えば、二十三歳であった。


「……玉子から出来なかったら何で出来るんだよ」

 優士への優しい雰囲気とは似付かない棘の有る口調で、衛士は彼女にツッコミを入れた。


「だって私、玉子料理はゆで玉子かスクランブルエッグしか作れないんだもん。でもまさかお店じゃなく、お家で手作りのオムレツが食べられるなんて思ってもみなかったわっ」

 そんなふざけた事を言ってくる彼女だったが、目の前の湯気立つオムレツに向ける表情は本当に感動しているようで、隣に座る九歳の優士と比べても遜色の無い無邪気さが滲み出ていたのである。


 お前それ、精々インスタント麺の上に乗せる程度のもんじゃねーのか? 元はそういうもんを晩に食おうとしていたのか。大人の癖に……このアマ、本物のダメ女だな――


 衛士の感想は、実に地に足を付けたものだった。


「でしょでしょお姉ちゃんっ。衛士兄ちゃんに掛かれば玉子はに姿を変えるんだぜっ!」

 きっとテレビ番組か好みのアクション漫画で見知ったであろう難しい言葉をとにかく使いたがる――そういう年頃である優士の楽しげなノリを兄としては邪魔出来なかったのだが、そのノリと勢いのままオムレツをがっつき始めた事と……


「すっごいわ、正に玉子のイリュージョンね!……!」

 優士と調子を合せるように、自分もスプーンを手に速攻で食し始める彼女の姿には口を挟まずには居られなくなる。


「おい二人共、先ずは『いただきます』を言ってからだろ」

「ああごめん兄ちゃん。いただきます――。所でイリュージョンってなんか分かんないけどカッケーなその言葉っ」

「いただきます――。イリュージョンっていうのはね……」


 随分と雑な『いただきます』をしてすぐに、また新たな言葉を教わる優士と、それを教える彼女に衛士は閉口した。

 しかしその仲の良さげな二人の姿は、或いは本当の姉弟のようにも見えるのだ。波長が合う、とはこういう事なのだろう。

「ぐむむ……」

 衛士は初対面の優士相手にノリを合わせてくる彼女の様子になんだかむかつきさえ憶えていた。


 玉子からオムレツ作って、なんでそれがイリュージョンなんだよ。逆にウケたわ、逆の意味でな!――


 もういちいち彼女の言葉が引っ掛かる。

「なあ、夕飯食ったらすぐに帰れよな」

 そう言って、彼女に対して予防線を張るが――


「え~、もっとゆっくりしてって貰えばいいじゃん」

 なんと優士が彼女を庇ってしまうのだ。

「う~ん、でも長居すると衛士君迷惑そうだし……」

「兄ちゃんは素直じゃないから居て欲しいのに強がってんだよ。桜花おうかお姉ちゃんも別に構わないでしょ?」


 優士が彼女を『桜花おうか』と呼んだ時、衛士の寒気が増した。

 衛士の脳裏にスーパーでの玉子争奪戦のその後の出来事が思い出される――


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


『じゃあ、仲直りしたから私もキミの家に行って一緒にご飯食べるわ』

『はあ!? なんでそうなるんすか!』

『でもそしたら私もその玉子食べられる事になるし、これが一番誰も傷付かないでしょ。私は一人暮らしだから別に無理にで食べなくても良いし』

『ふっざけんな!』


『ひそひそ……何? 今度はあの子が彼女をイジメだしたわよ』

『今の若い子っていきなりキレだすもんねぇ』

『女の人もさっき謝ってたんだからもう許してあげればいいのに……』


『なっ……!?』

『ほら、奥様方がまた有らぬ事言い始めたわよ。キミだって噂になって、このスーパーに今後来難くなったら嫌でしょ?』

『アンタ、今度は逆にあの人らを利用する気かよっ』

『……ふふっ』

『ふふっ、じゃねー!』


 結局世間体を気にして折れてしまったのだが、直後お互いの名前を教え合った時に、衛士にまた嫌な予感が走ったのだ。


『アンタ、名前は? 流石に名前も知らない大人を家に上げる訳には行かないから、教えて』

『もちろん。宮原みやはら桜花おうか、桜の花って書いてよ』

『えっ!?』

『どしたの?』

『い、いや、別に』

『キミの名前も教えてよ』

『……佐倉衛士』

『さくら!? 名字の方だけど、私の桜と一緒だねっ』

『俺のは字が違うから』


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 そこをやけに強く押してしまったのは、自分のあだ名がだからに他ならない。

 友達連中の賢吾や千紗にとっては――喜亮にだけはそう呼ぶ事を決して許してはいない――自分は佐倉ではなく『さくらちゃん』というイメージなのだ。


 このふざけた年上女の事だ、それを知ったら絶対にからかってくるに違いない――衛士はそう確信していたから、今日だけはさくらちゃんのイメージの元になったあの薄ピンクのエプロンは着けなかった。


 衛士のジト目に、桜花は遠慮がちに微笑んだ。彼女の隣では、口元にケチャップを付けた優士がと訴え掛けてくる目をしている。


「ちっ。遅い時間までじゃ無かったら、良い」

 衛士の言葉に二人の顔が明るくなった。

「よっしゃあ、さすが俺の兄ちゃんだぁっ」

「じゃあ、お言葉に甘えて……。ありがと、衛士君」


 桜花が最後に感謝の言葉を告げた時――衛士にはその顔が少しだけ陰を帯びていたような気がした。正確には、ようやく大人らしい顔を見せたという所なのだが、今の衛士には彼女について気に掛けるだけの余裕は無かった。


「ああ。その代わり優士としっかり遊んでやって下さいよ」

「うんっ」

 既にダメ女の雰囲気に戻っていた桜花の返事を受け、衛士は複雑な心境で湯呑みのお茶をすする。


 優士が懐いてるんだから、悪いひとじゃないだろうけど……なんか心に纏わり付いて鬱陶しい……


 衛士はその感覚の正体がまだ分かっていなかった。

「……今日はどっと疲れた」

 一息吐いてそう呟く衛士。しかし彼の波乱はまだ始まったばかりなのだ。

 今日というこの日に、佐倉衛士の眩しいばかりに桜色な日々が幕を開けたのだから。

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