第9話 パンの耳なのです
三人はリョウコの経営する小麦屋の中へ入った。中は、バターを焼き焦がしたような臭いを立ち込め、嗅いでいるだけで、パリパリに焼けたパンを連想させられる。その臭い通り、店内には何種類ものパンがトレイの上やバスケットの中に入っていた。
「ふぅおおおおおおおおお!!」
陳列する様々な形と色とりどりのパン達に、サナエルは瞳を輝かせる。
「凄いのです! 見たことのないパンが沢山あるのですよ!」
「はしゃぎ過ぎて転ぶなよ」
棚の上に並べられたパンを展示された宝石のように見つめるサナエル。それを見守るテルオにリョウコは話しかける。
「それじゃあ、いつものパンの耳を用意しますね?」
「あ、はい! よろしくお願いします」
テルオはいつもここで主食であるパンの耳を10円で買い、何とか生活をやりくりしていた。時々菓子パンも買ってはいたが、ほとんどが安くて量のあるパンの耳。
お店の売り上げには全く貢献してはいないが、それでも客として優しく接してくれるリョウコに、テルオは心から感謝していた。
だが、これで会うのが最後かもしれないと思うと、少し寂しく感じてしまう。
「テルオ、凄いのです! こんなイガイガなパンは初めて見たのです! このイガイガパンはなんて言うのですか?」
テルオが感謝の思いに浸っていると、棚に置いてあったであろうカレーパンを手掴みで持ってきた。
「うおおおおおい! 手掴みで持ってくるじゃなああああい!」
「え? ダメだったのですか?」
驚くサナエルにテルオが目玉を飛び出していると、パンの耳がたんまり入った袋を抱えたリョウコが、いつの間にか戻ってきた。
「あらあら……」
「あ、ああ、す、すみません鳥城さん! お金払いますんで!」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
リョウコは落ち着いた面持ちで、サナエルに近づく。
「サナエルちゃん。まだ買ってない食べ物は手で持ってはダメよ」
「そ、そうなのですね……」
「ええ、まだそのパンは買っていないのだから、サナエルちゃんが食べて良い物ではないのよ」
まるでお母さんのようにリョウコは話す。
「それなのに、お外から来て手も洗っていないサナエルちゃんが勝手にそのパンを持ってしまったら、外から来たバイ菌が付いてしまうかもしれないわ。そうしたら、せっかく作ったのに誰もそのパンを食べて上げられなくなるじゃない?」
「なるほどなのです……ごめんなさいなのです……」
サナエルはシュンとした表情で、持っていたカレーパンをリョウコに差し出す。
それに対してリョウコはニコリと笑顔を見せ受け取る。
「それとね。このイガイガのパンはカレーパンって言うのよ。中にカレーが入っていて、コロッケみたいにパン粉をまぶして油で揚げた物なのよ」
受け取ったカレーパンを手で裂いて中身を見せる。そして、その裂いたカレーパンをサナエルへと差し出した。
「それじゃあ、サナエルちゃん。お味見してみましょうか」
「え? 良いのですか!?」
「ええ、是非食べてみてくださいな」
しょげていたサナエルの表情は、笑顔に戻った。
「本当に良いんですか?」
テルオは申し訳ない気持ちでリョウコに尋ねると、彼女は笑顔で返す。
「はい! 始めて来て頂いたお客様ですからね! おもてなしですよ」
「いや~本当にすみません。鳥城さん、本当にありがとうございます!」
テルオが頭を下げる。
そうしている間に、よだれを垂らすサナエルはリョウコにもう一度尋ねる。
「本当に食べて良いのですか!?」
「はい! 召し上がってください!」
「いただきますなのです!」
サナエルはカレーパンにかぶりつく。ボロボロとキツネ色のパン粉をこぼしながら、ゆっくりと噛みしめる。
そして、彼女は目を見開き――
「んまああああああああああああああい!!」
と、近所迷惑な大声を上げた。
「美味しすぎるのです! こんなパン食べたことないのです! リョウコは天才、いや天使なのです!」
「本当? サナエルちゃんの口にあって良かったわ!でも、今度パンを取る時はちゃんとアソコにあるトングとトレイを使ってから取ってね」
「わかったのです! ありがとうなのです! リョウコ大好きなのです!」
サナエルはリョウコに抱きつく。見事に腹を掴まれたであろう天使をテルオは眺めていると、リョウコと目があった。
「そうだ、テルオさんにもプレゼントです」
と言って、パンの耳がたんまり入った袋を二つ差し出した。
「え? 二つも? しかもこんなに多い量を?」
「はい! いつも買いに来てくれますし、今日も何となくですが来て頂けると思っていましたので用意していました。それに食べ盛りの子もいましたから、ほんのオマケです!」
「そ、そしたらお金を……いつもこんな安いのばっかり買わせて頂いているのに、申し訳なくて……」
「何を言っているんですか! ほんの気持ちなのでお金はいつもと同じ10円で大丈夫ですよ! テルオさん、いつもお仕事ご苦労様です!」
まるで、家で帰りを待っていた妻のようなことを言ってくるリョウコに、二つの袋を抱えたテルオは固まった。
公園でサナエルから感じた何かをまた感じた。いや、その感じた気持ちはさらに大きいモノだった。
「……テルオさん? どうしました?」
テルオの異変に気づいたリョウコは、心配そうに顔を軽くのぞき込もうとする。
「い、いや、別に何も……」
「!? ……テ、テルオさん! どうしたんですか!?」
「……え?」
頬に違和感を覚え触ってみると塗れていた。後をたどってみると、いつの間にか目から涙がこぼれていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「は、はい……なんとか……」
急いで涙を拭うテルオ。それに驚くリョウコだが、少し冷静さを取り戻し、テルオを気遣う。
「何か……あったんですか?」
「……」
テルオは揺らいだ。
この涙の理由は何となく分かる。
今までになかった、ちゃんとした人の慰めに触れて感極まってしまっただけだ。
自分の中にあったわだかまりを全て肯定し、認められたような錯覚を感じてしまっただけだと彼は思う。
「話して……頂けませんか?」
「……え?」
リョウコが、テルオに一歩踏み寄る。彼は予想外の彼女の行動に同様が隠せなかった。
「い、いや、鳥城さんには関係ないことですから……」
「……私は聞きたいです」
差し伸べられた手を思わず振り払ってしまうが、また新たに手が伸ばされる。
「私は何でテルオさんが辛そうな顔をしているのか知りたいです」
何故だ。
と、彼は聞き返したかった。
まあ、その答えは分かってもいた。
鳥城リョウコはそういう人間なのである。
誰にでも優しく、世話焼きで、困っている人見過ごせない人間であると、テルオは経験上知っていた。
だがテルオは、その特別でもないちょっとの優しさに、おのずとすがりたいと思ってしまったのだ。
「……実は」
彼は、リョウコに打ち明けてしまった。会社で精神的に追い詰められ自主退社し、働き所も見つからず、上手く行かない世の中に絶望して自殺を試みようとして失敗してしまったこと――
話し終えた時、テルオは自己嫌悪にった。家族でも恋人でもない、ただの赤の他人であるリョウコにこんなことを話したところで、優しい彼女を困惑させてしまうだけであると――
テルオは、自身の負の感情をこの優しい人物に押しつけてしまったことに、不甲斐なさを感じた。彼は目も向けられず、下を向いてしまう。
「……ちょっと、待っててください」
話を聞き終えたリョウコは、サナエルを優しく引き剥がし、急いでカウンターからビニール袋を取り出す。
店内を小走りで駆け回り、陳列されたパンを何個かビニールに積めていく。
「あ、あの……」
いつもと様子の違うリョウコに、テルオは戸惑っていると、パンで袋を満杯にした彼女が戻ってくる。
「これ、全部差し上げます」
「え!? いや、こんなに沢山なんて……」
「良いんです。お代もいりません。パンの耳のお代も頂きません。だから、これからは自殺しようなんて思わないで下さい」
怖くはないが、リョウコの怒った表情を初めて見たテルオ。どうしていいのか分からず、慌てることしか出来ない。
だが、リョウコは続けた。
「テルオさんが居なくなったら、悲しむ人が沢山居ると思います」
「いやいや、俺が死んだ所で、悲しむ人なんてたかがしれて……」
「テルオさんが死んだら、私は悲しいんです!」
テルオの言葉を振り切って、リョウコは言い切った。
何も言い返す言葉なんて出なかった。
喋ろうとしても言葉が出てこず、口をパクつかせることしか出来なかったのである。
ただ、心だけは何かに満たされていき、思いだけがテルオの瞳までこみ上げてくる。
やがて、耐えきれなくなった彼は、鼻水をすすり――
「あ、ありがとうございます!」
グチャグチャな耳まで真っ赤になりながら、心の底からお礼を言った。
その様子を店の外に居たキャベツは、顔面をガラスに擦り付けるように覗き込んでいた。キャベツは地獄の番犬の如く歯軋りと唸り声を上げながら、テルオを睨みつけていた。
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