第2話 落ちるのです

 耳をつんざくくような風の音の中で、彼は詰まらない人生だったと改めて振り返る。人々に気を使い、下げたくない頭を下げて、我慢して、堪えて、踏ん張って、

 だが、こんな様で、

 何か偉業を成し遂げた訳でもなかった。生まれてから29年、何かをしたいとは思わなかった。人に気を使うことに精一杯で、将来なんて物を考えても来なかったのだ。もう、真っ暗な余生なんて興味ない。

 こんな夢も希望もない、こんな世の中から消えたかった。

「グッバイ……意味のなかった我が人生よ」


「きゃああああああああああああああああ!」


 眼を伏せ、頭から落ちるテルオが悟りを開いてほくそ笑んでいると、が聞こえてくる。たぶん、下に居る女の子か何かが、テルオの落ちる様を見て叫び、高層住宅の良く分からない反響音的な影響で、左から聞こえてくるのだろうと勝手に納得する。

「すまないな嬢ちゃん……トラウマを植え付けてしまって……」

「きゃああああああああああああああああ!」

 が、サイレンのように鼓膜を揺らす。

 それでも、テルオは気を止めず、

「ああ……なんて……」

「きゃああああああああああああああああ!」

 さすがの彼も、あまりの五月蠅うるささに顔を向けてしまった。

「落っこちるのですうううううううううう!」

 そこには、短い白い髪に色白の肌、白い布を纏い頭の上に黄色く薄い天使の輪っかのような物を付けて涙を垂れ流す少女が、のである。

「うわああああああああああああああああ!」

「きゃああああああああああああああああ!」

 二人は、地面に向かって落ちていく。このままでは、テルオと共に何故か幼い少女も身体が地面に叩き付けられること請け合い。

「嬢ちゃん捕まれ!」

 とっさに少女へと手を伸ばした。

 こんな甲斐性のないお兄さん29歳と一緒に死ぬなんて、余りにも可愛そうだと、テルオは自虐心を抱いた訳ではない。ただ助けようという気持ちが、テルオの枯れていた心を突き動かし、落下している無理な体勢を無理矢理動かし、少女を掴んだのだ。手が届いた所で、この高さではどう足掻いても助からない。

「でも……この子だけでも、なんとか……」

 だが、彼はどうにか助けたいと思ったのだ。


「……はっ!?アナタのが、増えた気がするのです!」


「……え?」

 落ちる真っ白い少女は、謎の単語を放つ。テルオは、一瞬呆気に取られると……


「これなら飛べるのです!」


 少女はそう言うと、突然背中から目映い黄金の光を発し始める。

「な、なんだ!?」

 さらにテルオが度肝を抜かれていると、彼女の背中から大きな羽が一瞬にして生えた。大きさは、方翼だけで2メートル程はあるだろうか、成人男性がスッポリ収まる程の大きさである。

「しっかり捕まるのですよ!」

 少女は、一度大きく羽をばたかせ、テルオと共に高層マンションの壁を蹴った。



 テルオの視界には壁も床も無く、足下には自分が住んでいた街、頭上には羽を生やした少女と、さえぎる物のなくなった不作法に照り付ける太陽と、晴れ渡る青空が広がっていた。

「飛んで……いるのか?」

 そう、テルオは大きな翼を広げる少女に捕まり捕まれ、グライダーのように銀白の羽毛を散らしながら空を滑空していたのだ。

「ふぅ……何とか助かったのです!」

「な、なあ!何で俺達飛んでるんだよ!っていうか、君の背中に翼が生えてますけど!そもそも、君は何者なんだ!」

 テルオは自分の身に起こった常識の崩壊に付いていけず、事情を知っているであろう少女へ、質問を三点打ちする。

「えーっと……サナエルの名前はサナエルなのです!」

 元気良く自身の名を名乗る。少女の名は、サナエルのようだ。

「サナエルは天使なのです!」

 サナエルは天使だった。

「この羽は、人のに触れると、その点数に応じた羽が生えてくるのです!天国イデア人の特徴なのです!」

 テルオの頭の上には、沢山のクエスチョンマークが浮かんだ。

「な……何を言っているのか、全然分からん」

「えーっとですね……まず、ここの人達と接触した時のマニュアルがあったのです!確か……サナエル達、天使というものから説明するのですが……」

 えーっと、えーっと、とサナエルが説明文を模索していると……


 バキッ!


 と、何か木の板のような物が折れた、安っぽい音が聞こえた。空を飛ぶ二人は音の鳴った方、サナエルの背中へ恐る恐る眼を向ける。左翼が取れており、外れた左翼は羽毛をまき散らしてきりもみ落下し、最終的に風船が弾けるように消えた。

「おい!何か翼が取れてるぞ!」

「た、たたた、大変なのです!こ、このままじゃ落ちるのです!」

 慌てふためき、二人はパニックにおちいった。

「な、何とかしろ!天使なんだろ!」

「サナエルは、まだ飛行検定9級だから上手く不時着出来ないのです!このままじゃ痛いことになるのです!うわ―ん!あ―ん!」

 泣き始めるサナエルに、テルオは頭を抱えた。

「……確か、がどうとかで、翼が生えるんだよな!?」

「うわ――ん!」

「おい、聞け!俺が何かすれば、また羽が生えるのか?頼む!答えてくれ!」

 すると、サナエルは涙を拭う。

「……良いことをすれば、善意点は増えるのです」

「良いこと?とにかく、良いことをすれば羽が生えるんだな!」

 テルオが聞くと、サナエルはすすり泣きながら頷く。彼は必死になって、良いことについて考えた。

(良いこと……いいこと……イイコト……)

 そして、彼はある思考にたどり着く。

「……エッチなことってことか?」

 無い頭を必死に絞って、出た答えはこれだった。いくら必死とはいえ、まだ幼い少女に対して事案的問題で言ってはならないことを言ってしまったと、彼は後悔の念にひたり始める。

 そして、サナエルはその言葉を聞き反応する。

「えっち……って、何なのですか?食べ物ですか?」

「……」

 それ以前の問題であったことに、テルオは内心ホッとしてしまった。彼等は、そのままグルグルと空中で回転しながら流星のように落下していく。


「「あああああああああああああああああああああああああああ!」」


 二人は泣き叫びながら、大きな水飛沫みずしぶきを上げ、近くの川に落下した。打ち所と落ちた所が良かったのか、奇跡的に死傷者は出ず、近隣住人は隕石が落ちたのだと噂を勝手に広げ、しばらくの間話題となるのだが、これはまた別のお話。

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