対決
三人は、月明かりの小駄良街道を逃げに逃げた。大酒を飲んでいる上に、酒樽を担いだ才平の足は信じられないほど速い。それでも玄十郎は、なづきの手を引きながら、必死で後を追った。
歩きながら、なづきは何が起こっているのか玄十郎に尋ねた。
そんなことは玄十郎にも分からない。分かるのは、自分の命が狙われているこということだけである。
だから、玄十郎はひたすら歩くことだけを考えた。なづきも、玄十郎に手を引かれながら、無言で歩き続けた。
だが、全ては遅かった。
宗門橋の前には、既に十数人が待ち構えていたのである。
「間に合わなかったな」
才平は、酒樽を担いだまま突進した。
月明かりに照らし出された影たちが、残らず刀を抜き放つ。
そのど真ん中に飛び込んだ才平は、酒樽と共にくるりと回転した。
酒樽が叩きつけられ、十数人が残らず薙ぎ倒される。
刀という刀が、地面の上に転がった。
それでも立ち上がる者はいた。
刀を拾って斬りかかる。
だが、才平は常に紙一重の差で当たらなかった。
刀が振り下ろされるたびに血しぶきが上がったが、それは才平のものではなかった。
才平は刀をかわし、回り、また地面に伏してはごろごろと転がる。
起き上がっては無数の拳を叩き込み、倒れてはその勢いで蹴り上げる。
突きも蹴りも残らず各々の急所を襲い、一人、また一人と、宗門橋の前に刀を落とした影が横たわっていく。
ついには、そこに立っているのは才平一人だけになった。
「お見事」
橋の向こうから、才平に声がかけられた。
長身の男が、大刀を手に現れる。
「諸般の事情あって藩名は名乗れぬが、逢坂無道と申す」
才平も名乗った。
「そんな大層な身分でないが、才兵衛と覚えておけ」
言い捨てるなり、才平は酒樽の栓を抜いて、酒をがぶ飲みした。
残らず酒を飲み干し、樽を投げ転がす。
転がった樽は、立ち尽くす玄十郎の足にぶつかって止まった。
橋を挟んで、才平と無道が対峙した。
橋の向こうから無道が語る。
「その若造は、実は我が主である、さる大名の落胤。守り袋がその証拠よ」
玄十郎は、肌身離さず持っていた守り袋を取り出して眺める。
「二つ白鷺は、主が家の紋所でな。暇を出されるときにそれを渡されても、母親は妊んでおるのに気づかなんだのよ」
なづきがおそるおそる玄十郎の顔を見上げる。
玄十郎は茫然と、頭を横に振った。
無道はふん、と鼻で笑う。
「その主も先ごろ死んだ。正妻の子が後を継いだところで、俺は落胤抹殺の密命を受けたのよ」
歪んだ口元に浮かぶ笑いは、月の光の下でなおも冷たく見えた。
「その若造の居場所は母親の足取りをたどれば分かった。だが、丁度ここを出ようとしておったのでな、見失っても面倒臭い。さっさと手のものに殺させようとしたのだが……」
そこで無道は、楽しげに声を上げて笑った。
「おぬしに邪魔されたのよ」
才平はげっぷ1つして、面倒くさそうに話を遮った。
「ゴタクはいらんよ。お互い、やりたいことをやろうじゃないか」
無道が笑った。
「よかろう。参れ」
「来いよ」
才平が橋の上へと駆け出した。
橋の向こうから、無道が斬り込んでくる。
橋の丁度真ん中で、二人は鉢合わせた。
無道の大刀が振り下ろされると、才平が身体をくるりと回す。
刃は空を切った。
横薙ぎの一閃が襲い掛かる。
才平の身体は膝から後ろに折れ、刀はその腹の上を通り過ぎた。
立ち上がったところに袈裟懸けの一刀が叩きつけられる。
だが、才平は大きく一歩踏み込んだ。
その手足が無道の身体に蛸の如く、くるくると絡み付く。
才平が一声吼えると、ぼきり、という鈍い音が幾つも聞こえた。
うっと呻いて、無道がつぶやく。
「百姓にしておくには惜しい」
歯を食いしばるが、両手に掴んだ大刀は橋の上に高い音を立てて落ちた。
その長身が崩れ落ちる。
遠くから、呼子の音が聞こえてきた。
なづきが玄十郎にしがみついた。
「あれ、何……?」
玄十郎は、その音を聞いたことがあった。
幼い頃、仕事に出る前に吹いてみせてくれたことがある。
「捕り方の、呼子の音だ……。」
「じゃあ……。」
怯えるなづきの肩を抱いて、玄十郎はつぶやいた。
「捕まえに来る」
二人はしっかりと抱き合ったまま、その場に固まって動けなくなった。。
そこへ、橋の上から才平が呼びかける。
息が荒かった。
「ワシの酒樽を持ってこい」
玄十郎は我に返った。
「え……」
才平は、月明かりの下で顔を真っ赤にして叫んだ。
「持ってこい!」
玄十郎は雷にでも打たれたようにすくみ上がった。
酒樽を手に、なづきと共に才平の元へ駆け寄る。
橋の上には、死んだ無道が横たわっていた。
その身体は、無残に抱き潰されている。
小さく悲鳴をあげるなづきを抱きしめて、玄十郎がつぶやいた。
「これはいったい……。」
「こんなことは一生知らんでいい」
玄十郎からひったくった酒樽を、才平は背中に担いだ。
振り向いて、橋の端まで歩いていく。
その時、玄十郎は才平の肩から斜めに切り下げられた傷を目にした。
呼子の音が近づいてくる。
才平の口から、血の塊がこぼれ出て、橋を濡らした。
「それ……」
玄十郎の問いに、才平は答えない。
「逃げろ……達者でな]
「でも!」
「これで本望」
才平は川を背に、酒樽を担いだままの姿で夜空を見上げた。
その先には、東西にぐるりと回った天の川がある。
「死んだ連中にも、言い訳が立つ」
才平は目を閉じた。
「ワシは、酒樽と心中するわい」
言い残して、才平は宗門橋から川へ転げ落ちた。
橋の下から、高らかな歌声が響く。
その声は川の流れに沿って、どこまでも遠ざかっていった。
こちらへ向かっていた呼子の音は、歌声を追うかのように、何処かへと消え去っていく。
玄十郎は、なづきの手を取った。
「行こう。今しかない」
「え……」
見上げるなづきのまなざしと、見下ろす玄十郎の目が合った。
涙を見られるのは嫌だったが、頬を伝って流れてくるのはどうにも抑えがたかった。
精一杯、微笑んでみせる。
「長屋に、母の位牌と骨と、通行手形がある。あれを置いてはいけない」
なづきは唇を真一文字に結んでから、尋ねた。
「あたしは……?」
玄十郎は答えなかった。力任せになづきの手を引く。
二人は、月明かりの下に倒れ伏す追っ手たちを後に走り出した。
才平の歌声は、どこからか、まだ微かに聞こえてくる。
捕り方の呼子は、もう聞こえなかった。
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