歌う百姓
日が暮れてすぐ、玄十郎はなづきの店を訪れた。
「玄十郎さま、まさかいらっしゃるなんて……」
「いや、たまにはと思ってね」
「何にいたします、お冷ですか? お燗しますか?」
「いや……」
なづきは歓迎してくれたが、本当は酒など飲む気はない。
酒を飲めないわけではないが、それもこれまで父親の法事のほか、母親の葬式を手伝ってくれた長屋の者に振舞ったのに付き合ったくらいである。
とはいえ、なづきはどことなく、はしゃいでいるような気がする。正直に断って、しょげさせるのも気の毒だった。
そうは言っても、酔うわけにはいかない。
飲もうにも飲めない酒にするしかない。
「じゃあ、うんと熱く」
「はい!」
玄十郎が待っていたのは、なづきの言う「呑んだくれのサイベ」であった。
何がどうなっているのか分からないが、命を狙われたのは間違いない。天涯孤独の身ではあるが、新天地を求めて旅に出る前に、むざむざ殺される気はない。
そこに、玄十郎の悩みがあった。
自分の命は自分で守らねばならないが、玄十郎はたいして剣の腕が立つわけでもない。
さらに、相手は盆踊りの輪の中で、人に知られることなく殺人を犯す技を持っているのだ。身に覚えのない刺客とはいえ、道中で下手に刀を抜いては、あらぬ罪に問われることにもなりかねない。
つまり、素手の一撃で相手を昏倒させなくてはならないのである。
この地に留まっては、命がない。故郷を離れて旅立とうとする今、できることはただ一つだった。小駄良才平がやってくるのを捕まえて、夕べの技を教えてほしいと頼み込まなければならない。
侍の面子など、どうでもよかった。命がかかっている。いざとなれば、人前であろうがなかろうが、土下座でも何でもするつもりだった。
「お酌しましょうか?」
「あ、ああ」
店の主がたしなめる。
「なづきちゃん、うちはそういう店じゃない」
「いいんです!」
看板娘にキッと睨まれて、主は何事もなかったかのようにせっせと料理に取り掛かった。
「さあ、玄十郎さま」
「あ、ああ、そのくらいで」
身体を寄せてくるなづきにどぎまぎしながら、一応は酌を受ける。店に集う男たちの、羨望の眼差しがちくちくと感じられた。
怪我の功名というものだが、そんな気持ちで飲む酒は、やはりまずかった。飲もうにも、盃が進まない。玄十郎は、ちびりちびりと酒を飲むふりをして待った。
やがて、戸口にふと目をやったなづきが口を押さえた。
「あ……」
知らん顔をするのに気付いた玄十郎が代わりにそっちを見ると、みすぼらしいなりの小柄な男が店に入ってきた。
年の頃は30ばかりであろう。目をしょぼしょぼさせた、口元のだらしない男である。
一見すると百姓のようだが、玄十郎が不審に思ったことがある。夏の盛りだというのに、顔は大して日焼けしていないのだ。
……ということは、日中、外に出ていないのだ。
稲の実るころであるが、田の草や虫を取るなど、収穫を前にやることは山のようにあるはずだった。玄十郎は武士ではあったが、一揆の鎮圧にあたっていた父親から、その暮らしについては聞かされていた。
決して楽ではない、働くために働いているような苦しい毎日である。それでも稲を植え、水を灌漑し、収穫の時を迎えることだけが彼らの喜びなのだった。
父親が立ち向かっていた一揆は、それを傷つけられることへの抵抗だったように思えた。難しい年貢のことは分からなかったが、取られる米の多い少ないよりも、自分たちのささやかな喜びに思いが致されないことへの憤りのような気がしたのである。
だが、色の生白いこの百姓がそんな気持ちを抱えているとは、とても思えなかった。
なづきが近寄ってきて、吐き捨てるように言った。
「あれが才平ですよ」
玄十郎は半ば呆れ、半ば落胆して溜息をついた。
「そうだろうと思った」
「あいつが昼間に働いてるの、誰も見たことないんですって」
才平をじろりと睨んで、なづきは炊事場に戻っていった。
日焼けのない小柄な百姓は、店の
「オヤジ、まず一本!」
なづきがいらいらと、盆に一合徳利とぐい飲みを載せて運んでいった。玄十郎のそばを通り過ぎたとき、露骨に嫌そうな顔をしてみせた。
曖昧に笑いかけて、玄十郎はそれとなく才平の様子を伺う。
間違いなく、夕べの百姓であった。あの時の顔は、白くはなかったように思う。また、こんな頼りない顔つきもしてはいなかった。それはたぶん、大酒を飲んで真っ赤になっていたからであろう。酒が回りはじめれば、顔色も顔つきも変わるのではないかと思われた。
客はまだまだまばらである。才平の顔もまだ赤くはなっていない。静かに、ゆっくりと酒を楽しんでいるようだった。
だが、外が暗くなって踊りのお囃子が聞こえる頃になると、客が増え始めた。
その頃になると才平もだいぶん出来上がってきたらしく、なづきも頻繁に酒を運ばなければならなくなってきた。
やはり酒は強いようだったが、あまりに盃を開けるのが早過ぎる。
なづきの話では、酔うといい声で歌うために、酒代をタダにしても店がやっていけるほど客が来るということである。
だが、玄十郎としても、にわかにはそこまで信じられなかった。
……この調子で呑み続けたなら、夜中まで保つまいに。
ところが、やがて徳利は次第に大きくなり、やがてはなづきも運べなくなった。
「お願い! もう無理!」
すると、店の男が一升徳利を持ってくるようになった。普通、店に置くものではない。家で呑むために、酒屋でまとめて買っていくときに使うものである。もっとも、玄十郎はそこまで買ったことはない。話に聞いて、ここで初めて見たのである。
その徳利も、あっという間に空になる。男たちも面倒臭くなったのか、2本3本とまとめて置いて行くようになった。それほど、この店は混んできたのである。
……それほど流行る店なんだろうか。
確かに、盆踊りはまだ続く。この辺りの店としてはかき入れ時だろう。だが、それにしても、男一人が一升呑み切る速さについていけなくなるほど、この店の客は増えてきたのだった。
いや、この男の呑む速さも相当なものであった。とうとう、一升徳利でも間に合わなくなる。しまいには男2人が樽をえっちらおっちら運んできて、升を才平の目の前に置いた。
これには玄十郎も目をみはった。
……夢でも見ているんだろうか。
酒仙や歌仙や李白という言葉が、頭の中を駆け巡る。才平はそんな言葉がふさわしい思えるほどの勢いで、升に樽の酒を汲んでは、浴びるように呑んだ。
この頃になるとようやく顔に赤みがさしてきて、口元からは小唄がこぼれ始めた。
ええぞ、と誰かが手拍子を取ると、店の客が皆、それに合わせる。
才平は見るからにいい気分で、高らかに歌いはじめた。
その声たるや、店が揺れるほどの大きさなのであるが、決して耳障りではない。むしろ、いつまでも聞いていたくなるほど上手い。
耳を塞いでいるのは、炊事場の奥のなづきぐらいのものである。
客は入れ替わり立ち代りやってきては、才平の歌に手拍子を打って酒を飲む。
樽の酒が空になると、店の男がもう一樽持ってくる。
その酒も飲みつくされた頃、才平は立ち上がってふらふらと歩きだした。店の男に酒樽を担がせてもらって、ふらりふらりと出て行く。
玄十郎はなづきに勘定を払うと、才平を追って店を出た。
踊りの輪の中を泳ぐように、才平は千鳥足で自在に歩いていく。玄十郎は前の晩のようなことがありはしないかと怯えながら、人の波をかき分けかき分け、後を追った。
なんとか踊りの輪を抜けて宗門橋を渡ると、暗い道が小駄良に向かって続いている。才平は右に左にと危なっかしい足取りで歩いていく。
これで追いつけないわけがないと足を速めたが、才平の千鳥足にはなぜか追いつけなかった。ついていくのがやっとである。
道は次第に山道に入り、フクロウの鳴く声が聞こえ始めた。
足元が暗く、玄十郎は何度も転びそうになったが、才平は平気でひょいひょいと歩いていく。
何としても見失うまいとしたが、とうとう才平の姿は、闇に溶けるように消えてしまった。
玄十郎は追跡を諦めた。知らない山道で迷って、獣に襲われたり、昨日の男に殺されたりしては何にもならない。
暗い夜道を一人、玄十郎は肩をすくめて辺りを見回しながらびくびくと帰った。
さて、玄十郎が店を出た直後、二人の男がこんな言葉を交わしていた。
もちろん、才平が去った後でも熱気のさめやらぬ中で、聞いていたものは誰もいない。
「追いましょうか」
「やめておけ」
「なぜ?」
「あの男に出しゃばられると困る」
追うなと止めた男は、客の中でもひときわ目立って背が高かった。
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