才平を待つ
次の夜も、玄十郎は家を空けた。
刺客がいつ襲ってくるかもしれないという心配もあったのだが、それを言いだしたら、夜道を歩くのも同じことだ。
どっちみち、その時は命の尽きるときである。玄十郎の心の中には、そんな覚悟をするだけの変なクソ度胸も据わってきていた。
だが、なづきのいる居酒屋へ顔を出したりはしない。大事な路銀を酒に変えて呑んでしまうわけにはいかなかった。
街を出て、道端に虫たちの鳴く一本道をどこまでも歩いた。
やがて、昨夜に才平を見失った辺りの山道にたどり着くと、道を外れた。山に生い茂る木々の陰に屈んで待ち伏せる。腰の刀には、しっかりと手をかけていた。
……必ず来るはずだ。
もう一方の手は、胸に下がった形見の守り袋を握り締めている。
あの、向かい合わせのシラサギを刺繍したものだ。
病の床にあった母は肌身離さず持っていたが、ある夜中、急に容態が悪くなったかと思うとこれを玄十郎に渡した。形見分けだと気付いたので固く拒んだが、骨ばった指はものすごい力で玄十郎の両手を掴み、掌に押し込んできたのである。
諦めて受け取った時はもう夜が白々と明けていて、母親は安心しきったかのような穏やかな顔で、薄い布団の上に横たわってこと切れていた。
……お許しください、母上。
危険なことをしているのかもしれなかったが、生きてこの地をでるには、他に手がないのである。
刺客が襲ってくる限りは。
毎晩、酒を飲みに出るのであれば、帰りもここを通るはずである。昨夜見失った辺りで待っていれば、必ず捕まえられると踏んだのだ。
暗い山道である。鬱蒼と茂る木々の下には、月の光などほとんど差し込んでは来ない。あの男が来ても、提灯でも下げていない限り分かるかどうかといったところである。
暗いだけではなかった。フクロウが鳴き、遠くから獣の吼える声まで聞こえる。人が長居するところではないと、山の神が鳥獣の
それはそれで薄気味悪く、獣におそわれるのではないかという身の危険も感じはしたが、もっとたまらなかったのは無数の藪蚊である。耳元で甲高く唸っては、手足のあちこちを容赦なく刺す。うるさいのとむず痒いので、玄十郎は気も狂わんばかりになった。
それでも、時折吹く風に枝が揺れ、葉が鳴り騒ぐ度に、はっとして刀を抜きかける。その度に枝と枝との間を洩れてくる月の光が山道を照らすと、ごつごつとした岩が道端のあちこちに顔を出しているのが見えた。
もちろん、そこに人影はない。長居どころか、人の来るようなところですらないのだ。夕べ、こんな道を明かりもなしに平然と歩いていったところを見ると、才平という男、やはりただの百姓ではない。
そもそもこの山道は、もう随分と人里から離れている。この辺りも、あの一揆の時は騒動の中心となっていたはずである。
そういえば夕べ、月夜の道を歩いているときに、ぼんやりと神社の森が浮かんで見えた。何でも、百姓一揆の引き金となった最初の寄り合いは、この神社の境内で行われたらしい。
父親の命を奪った一揆の始まりとなった場所は、玄十郎にとっては因縁の場所である。だが、不思議と怒りはなく、むしろ哀しみに近い感情が胸の中を満たしていた。それは、この地を去るか死ぬか、いずれにしても、ここには留まれない身となったことにもよるだろう。
結局のところ昨日は、神社のそばの山道が闇の中をどこまでも続いているかにも見えて、姿を消した才平を追うことができなくなったのだ。
……いったい、この山の中のどこに住んでいるのか。
なづきは、才平が働いているのを見たものはないと言った。すると、田畑の近くに住む必要はない。山奥に隠れ住んでいるのに不思議はないのだ。
……だが、いったい何のために?
俗世間を嫌って山奥に庵を結び、隠遁生活を送る僧や修験者なら分かる。だが、夜な夜な街に現れては大酒を飲んで帰っていく百姓男が、そんな暮らしを送れるわけがない。
……何か大きな罪を犯して、身を隠しているのか?
それなら、街中へも出てこないはずである。そもそも、そんな罪人がいるのなら、捕方だった父から玄十郎が聞き知っていてもおかしくはない。
そんなことを考えながら、玄十郎は道端に潜んで才平を待ち続けた。
相変わらず辺りは暗く、鳥獣の声はおどろおどろしく、
蚊はうるさくむず痒い。時折、静かになったかと思うと、闇の奥でごうごうという風とも水ともつかないものが流れる音がする。
そうかと思えば、静けさの中で、頭の中に奇妙な歌声や琴三味線とも笛太鼓ともつかぬ音が聞こえてきたりもするのだった。
闇の中に独りでいると、心の奥底で何かが狂ってくるもののようだ。だから、こうして待っている間にも、不安がないわけではない。
あの裏通りで襲ってきた相手が、ここにもやってこないとは言い切れないのだ。
実のところ、それを考えて、才平を待ち伏せるのをよそうかとも思った。
だが、それではいつまで経っても才平に教えを乞うことはできない。
一か八かの賭けであった。
才平の技を身につけることができなければ、いずれ殺されてしまう恐れはつきまとう。生きている限り、怯えて逃げ回るしかないのである。
玄十郎は、じっと待ち続けた。しゃがんだままでは足がしびれ、腰が痛くなってくる。だが立ち上がっては、いかに闇の中とはいえ、やってきた才平に怪しまれて逃げられるかもしれない。夕べ見た技からすると、そのくらいのことはありそうな気がした。
何度となく風が吹き、木々が揺れ、その度に月影が山道を照らした。だが、それも束の間のことで、暗闇はすぐに戻ってくる。現れたり消えたりする山道と葉の影に、玄十郎は目まいを感じるようになった。気が遠くなりそうなのをこらえていると、また月の光が差してくる。
その影で、月が随分と動いたのが分かったが、才平は来なかった。
それでも玄十郎は一睡もすることなく待ち続けた。
実を言うと、その玄十郎を見張る者たちがいた。
逢坂無道と名乗るあの長身の男と、その部下たちである。
部下の数は3人に増えていた。
彼らは玄十郎から山道を挟んで少し離れた辺りの木々の根元辺りに、1人ずつ分かれて潜んでいた。
各々は随分と間を空けて隠れているのだが、風の音に紛れて囁く声だけで、言葉を交わすことはできた。
木々の枝がざあっと鳴って、部下の問う声がした。
「斬らなくてよろしいので?」
答えはなかった。
ややあって、再び風が木々を揺らすと、逢坂無道の声が答えた。
「いつでも斬れるものは斬らん」
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