小駄良才平

 次の朝、玄十郎は長屋の戸を叩くなづきの声で目を覚ました。

「玄十郎さま、夕べはどうなさったのですか?」

 戸を開けると、いささか寝不足気味の赤い目をしたなづきが立っている。

「なづきちゃん、ちょっと」

 玄十郎も聞きたいことがあったので、なづきを招き入れた。

「はい……」

 なづきは辺りをきょろきょろ見回す。豆腐売りの声が聞こえてぎくっと身体を強張らせると、何事もなかったかのように戸の前から歩み去った。

 玄十郎は土間に降りて追いかけようとしたが、そこは人目があるかもしれない。なづきがその場から逃げた理由は納得できる。仕方なく戸を閉めると、履きかけた草履を脱いで板間へ上がった。

 しばらく待ったが、なづきはなかなか戻ってこない。時が経てば経つほど、外に出る者は多くなる。聞きたいことはたいしたことではないのだが、玄十郎自身もあまり人前には出たくなかった。

 昨夜は、明らかに殺されかかったのだ。そんな目に遭わされるようなことをした覚えはないし、そんな恨みを買うような身内はいない。死んだ母は人づきあいの少ない穏やかな性分で、息子を殺したくなるほど憎まれていたとは考えにくかった。

 やがて、戸を叩く音がした。玄十郎は草履も履かずに戸口まで忍び寄ると、小声で尋ねた。

「なづきちゃんかい?」

「開けてくださいませんか?」

 やはり、小声で返事をする。玄十郎は短く尋ねた。

「人は?」 

「おりません」

 戸を開けると、そこにはなづきが立っていた。手には、小さな盥を持っている。

「それは?」

「豆腐です」

 見れば、確かに豆腐だった。盥の中に、白くつやつやしたのが2つ浮かんでいる。だが、なづきは豆腐を買いに長屋まで来たわけでもないはずだった。わざわざ入れ物などを持ってくるはずがない。

「盥は?」

「豆腐を買いに起きてきた人に借りました」

 なづきを知らない者だといいがと思いながら、玄十郎はなおも尋ねた。

「怪しまれなかったか?」

 妙に憶病になっていた。ちょっとした不始末でも、身の安全に関わるような気がしてならなかった。

 なづきは怪訝そうに小首をかしげる。

「何か……?」

 悪いことでもしたかと気にしているようだった。別にそんなことはないが、説明するのもまどろっこしかった。

「いや、とにかく」

 腕を掴んで引くと、盥の水が撥ねて、なづきは慌てた。

「豆腐が……」

 ああ、とつぶやいて、玄十郎は手を離した。 

 二人で板間の上がり口に腰掛けるが、戸は開けたままにしておく。年頃の若い男女が朝から戸を閉めきった部屋の中では、嫁入り前の娘に妙な噂が立つ。姿を隠したかったが、已むを得なかった。

 なづきが口を開く前に、玄十郎は自分の聞きたいことを真っ先に問いただした。

「小駄良サイベって誰だ?」

「え?」

 なづきは、幼い頃から変わらない澄んだ目をぱちくりさせる。何が起こったのか分からないというふうに見つめる目は、まだ穢れを知らない子どものものだ。

 玄十郎はなおも畳み掛ける。 

「小駄良サイベって誰だ?」

 ちょっと考えて、なづきはむっとした顔で玄十郎をにらみつけた。眉根を寄せて、口を尖らせる。これも、子どもの頃から変わらない仕草だった。こうなると、しばらく機嫌が直らない。幼い頃、玄十郎は武士の身分でどれだけ頭を下げたか分からない。

 もっとも、今はそんなことで怯んだりはしない。

「小駄良サイベって……」

「私の話も聞いてください!」

 頭から叩きつけるように切り返すなづきに対し、玄十郎は一歩も退かない。

「それは後で聞く」

「嘘!」

 ぷいとそっぽを向かれたが、なづきの言う通りであった。本当は聞く気などない。夕べのことを話すわけにはいかないのだ。話せば、無用の心配で泣き叫ぶだろう。そういう娘だ。嘘をついてでも、この場を凌がなくてはならない。

 だが、なづきは察しのいい娘であった。そんな言い訳など一切通じない。そのこともまた、玄十郎はよく知っていた。

「教えてくれたらちゃんと話すから!」

 なづきは腕組みをして、冷ややかに尋ねる。

「あの呑んだくれの事なんか聞いてどうなさるんです?」

「呑んだくれ?」

 その言葉の響きに顔をしかめてみせたものの、引っかかった、と玄十郎は思った。押し続ければ、むきになって必要なことを自分から話しだすだろうと踏んだのが、思惑通りに当たった。

 なづきはといえば、思い出すのも嫌だというふうに吐き捨てる。

「小駄良から毎晩呑みに来るお百姓です」

「知ってるのか?」

「知ってるも何も、うちの常連ですから」

 何やら不機嫌に答えてはいるが、別に玄十郎に腹を立てているわけではないようである。そのサイベとやらが、心の底から嫌いらしい。

「ほんとはサイベエっていうらしいんですけど」

 玄十郎は頭の中で「才兵衛」という字を思い浮かべた。

「みんなサイベって呼ぶわ」

 玄十郎は、頭に浮かんでいる「才兵衛」という字を、「才平」に置き換えた。

「そんなにひどく呑むのか?」

 なづきは居酒屋で働いている。酔っ払いなど毎晩のように見ているだろう。それなのにここまで言われるというのは、余程の大酒呑みなのだろう。

 その想像を裏付けるように、なづきは深々と頷いた。

「一斗や二斗は軽く。それでも足りなくて、酒樽担いで帰るんですよ」

 背中の樽はそれだったか、と玄十郎は納得した。それにしても、一斗の酒というのは相当の重さになるはずだ。それを背負って、なおかつ刃物を持った刺客を薙ぎ倒せるというのは並大抵の技ではない。

 そこでふと、気になることがあって尋ねてみた。

「お百姓がそんな酒代をどうやって払うんだい?」

 重い年貢に耐えかねて、一揆が起こったほどである。

 それまでは「定免取り」といって、一定の量だけ米を差し出せば、あとは百姓たちの取り分となっていた。ところが、藩の財政が悪化して、コメを収穫量に応じて差し出させる「検見取り」が始まると、いくら作っても年貢は増えるばかりである。玄十郎から父親を奪った一揆は、百姓たちにとっては生き死にを賭けた戦いであった。

 そう考えると、百姓ひとりが毎晩のように酒を一斗も担いで帰るというのは信じられない話であった。

 だが、なづきはこめかみのあたりをぽりぽり掻きながら、溜息混じりに答える。

「あいつはですね、酔っ払うと、店の中で歌うんです、それも大声で。うるさいったらありゃしません」

 それも珍しいことではない。よほどの大声なのだろうが、玄十郎が見たのは店から出てきた後だった。聞こえなかったのも無理はない。

 昨夜のことを思い出しながら、玄十郎はそう考えて、なづきの話に納得した。だが、聞いたことへの答えは返ってきていない。

 黙ったままの玄十郎の顔を、なづきはじっと眺めた。聞いているのかどうか気になったらしい。それを察した玄十郎は、大げさに頷いて見せる。そこにわざとらしさを感じたのか、なづきはちょっと押し黙った。

 その先を聞きたくて、玄十郎は話を促した。

「それで……」

 仕方なさそうに、また忌々しそうに、なづきは語り始める。

「だけど、それがまたいい声なんですよ。街中に聞こえるらしくて、人が寄ってくるんですよね。で、店は大繁盛。だから店のオヤジさんも、酒代はタダにしてるんです」

 百姓と一斗樽の関係は、それで分かった。だが、にわかには信じがたい話だった。

「そんなにいい歌なのか?」

 聞かないことには納得できないが、もう、その辺りはどうでもいいことだった。

 なづきはそこで首をかしげた。

「知らないんですか? お城の殿様も、『小駄良才平にするぞ』って宴会始める話」

「さあ……」

 玄十郎は本当に聞いたことがない。

 ずっと母親の看病や内職に明け暮れ、夜は灯の油が惜しいので早く寝てしまっていた。夜中に歌声が聞こえてくるとしても、知っているはずがない。

 だが、今、この話が出たのはいい機会である。

 玄十郎は、なづきに向かって身を乗り出した。

 なづきはうろたえる。

「な、何ですか、急に……」

「今夜、そちらに行こう」

「そちら、って……」

 なづきは急におろおろし始めた。

「店だよ」

「ええ?」

 驚きに目を見開くなづきに、玄十郎は言葉を続けた。

「これまでろくに飲んだこともない酒だ。一口ぐらい嗜んでも、あの世の母は許してくれるだろう」

 玄十郎は矢庭に立ち上がった。

「ちょっと酒代を工面してこなくては。すまないが、家を空ける」

「あ、ああ……」

 なづきもいそいそと立ち上がった。

「それじゃあ、また」

「え、ええ……」

 まだへどもどしているなづきを追い出すかのように、玄十郎はせかせかと身づくろいを始めた。

 なづきは慌てて、長屋の戸を閉めて出て行った。

 その足音が遠ざかっていくのを確かめて、玄十郎は板間に胡坐をかいて考え始めた。

 小駄良才平から、どうやってあの技を学べばよいか……。


 その頃である。

 人通りの多い、賑やかな街中で、天秤棒をかついだ塩鯖売りと、笠を目深にかぶった長身の侍が擦れ違った。

 天秤棒の両端には、北国から運ばれてきた塩鯖が笊に入れて吊るしてある。

 笠の奥では、妙に鋭い目が光を放つ。

 二人は小声で、不思議な言葉を交わした。

 誰もが忙しく、その言葉が何を意味するかなどいちいち確かめはしない。

 長身の侍が問う。

「逃げてはいないな」

 塩鯖売りが答える。

「居ります」

 侍は、一言残して離れていった。

「分からぬように殺れ」

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