盆踊りと刺客と酔漢と
いつのころであったか、積翠の城下に、春木玄十郎という若い浪人者が小さな長屋に老いた母親と住んでいた。
父親は、身分の低い侍であったが、玄十郎が幼い頃に死んだ。
かつて、重い年貢に怒った近隣の百姓たちが一揆を起こしたのが原因である。
強訴に対する力ずくの鎮圧、それに反発する武装した百姓の暴徒化が繰り返された。
捕り方だった父親は暴れる百姓たちを抑えるのに駆り出され、その際に投げつけられた石の当たり所が悪かったために命を落とした。
幼い息子を抱えた母親は心労に倒れ、生計を立てるために無理を重ねたことから、とうとう重い病に倒れてしまった。
この一揆は4年にわたって続き、ついには江戸での駕籠訴、箱訴によって江戸まで出ていって抵抗した百姓たちは一人残らず処刑されたが、領主はお家断絶となった。
やがて新しい領主がやってきたが、玄十郎は未だ少年で、仕官することも叶わない。近所の人々が父を失い、病気の母を抱えた玄十郎を哀れんで何かと世話を焼いてくれた。
だが、それから何年も経つと、玄十郎も若者となり、自分のことは自分でしなくてはならなくなった。
武士の子とはいえ仕官のあてはない。玄十郎は細々と傘張りの内職をしながら、老いていく母を養っていた。
だがその母も、貧しさと失意の中でそう長くは生きていられない。つい先日亡くなり、玄十郎は天涯孤独の身となった。
今、玄十郎は母の葬儀も終わった家の中で、ぽつねんと座り込んでいる。
握り締めているのは、母の形見の小さな守り袋である。
白鷺が二羽向かい合った形の、精巧な刺繍が施してある。母が大切にしていたものであった。
しみだらけの長屋の天井を眺めて、朝からずっとこの調子であった。
もう、夕暮れ時であった。
葬儀の日は雨が降っていたが、今ではそれもからりと上がり、今夜の踊りは月がきれいだろうと思われた。
突然、長屋の戸がからりと開いて、一人の町人娘が入ってきた。年の頃は十五かそこらの、可愛らしい娘である。
玄十郎はにっこり笑って娘を迎えた。
「なづきちゃん、どうしたんだい?」
なづきと呼ばれた娘は、戸惑いがちに目を伏せた。うつむいてもなお、その目が澄んでいることは分かる。
しばらく口ごもっていたが、やがて口を開いた。
「お母さま亡くなられて、どうしてらっしゃるかと思いまして」
なづきは幼い頃に両親を亡くし、小さな居酒屋でずっと住み込みで働いている。
その頃から玄十郎の長屋に出入りしており、母親の看病を手伝ったりもして兄妹同様に育ってきていた。
「きっと散らかってると思ってきたんですが」
「大丈夫だよ」
玄十郎が見渡す、幼い頃から住んできた長屋の中はすっかり片付いていた。
もともと貧しい暮らしなので、箪笥長持の類はない。あるのは布団ばかりである。
母の布団は、葬儀の日に棺と共に焼いてしまった。
残った自分の布団も、きれいに畳んで部屋の隅に置いてある。
古く汚れた長屋の一室だが、力の及ぶ限りきれいに掃き清めた。
「私のすること、何にもありませんね」
なづきは寂しそうに笑った。
またね、と言って長屋の戸を閉め、出て行く。
玄十郎はほっと溜息をついた。
彼の背後には、封書が一通隠されていた。
今後一切の後始末を頼んだ手紙であった。
ここにに残りの家賃を入れて、大家に渡すばかりである。
玄十郎は、今夜、この城下町を出て行くつもりであった。
山奥の狭い土地で一生くすぶっている気はない。旅支度はすっかり整っている。親類縁者もなく、仕官の見込みもない。藩に願い出たところ、さっさと出ていけと言わんばかりに通行手形の許可が出た。
母の墓を守っていくのが人の道であるという考えもあるが、その母は死ぬ間際に、玄十郎にこう告げた。
母のことは気にせずともよい、もともとこの地の者ではないから、と。
ただ、母が心配したのは、玄十郎が立身出世の術もなく、失意のままに一生を終えることであった。
玄十郎はそれほど武芸が達者なわけではない。どちらかといえば、背が高いだけがとりえの、色の生白い優男である。
だが、それでも万が一の運に賭けるのが、唯一の孝行であるとも思われた。
そこで玄十郎は、母の位牌と遺骨だけを持って、流浪の旅に出ることにしたのであった。
暗くなれば、夏の町には賑やかな踊りの輪ができる。夏の大きな祭にその輪に紛れて出て行くつもりであった。
誰にも知られたくなかった。
特に、なづきには。
この山奥の町にも、もともと盆踊りはないでもなかった。寺の境内でひっそりと行われるくらいのものである。そこへ、この領主は囃し手を江戸や京から招いたのである。琴三味線や踊りの、由緒ある家の者たちだった。
踊りはいっぺんに華やかになり、寺の境内にふさわしいものではなくなった。踊りの場は街の通りに移り、町人たちはこぞって踊りの輪に加わった。
ときとして、領主は自ら町に出て、盆踊りの輪に混じった。親しみやすい殿さまとして町の人々の敬愛を集め、次第に前の領主のことは忘れられていった。
それは同時に、一揆が忌まわしい記憶として埋もれていくことも意味していた。実際に、生き残った百姓たちも稲の実りを待つ季節になると、ひとり、またひとりと踊りの輪の中に潜り込んでいったのである。
やがて、その日も暮れた。
手早く旅装を調えた玄十郎は、荷物をかついで長屋を出た。
暗い裏通りを歩き始める。
月明かりの夜空に踊りの囃子が流れていた。その下の路地に、人通りはない。町の者は皆、踊りに行ってしまったのだ。
玄十郎が城下を出て行こうとするのを知る者は、誰もない。いたとしても、せいぜい、通行手形を書いた役人くらいのものである。
この隙に、少しでも早くこの町を出ていこうと思ったのだが、いざとなると足取りは鈍った。幼い頃から慣れ親しんだ町である。この路地さえも、懐かしかった。
なづきとは、昔、ここらでよく遊んだものである。
そんなことを思い出しながら、玄十郎はとぼとぼと歩き続けた。
だが、しばらく歩いて、玄十郎は不思議なことに気づいた。自分ひとりしか歩いていないはずなのに、足音が二つ聞こえはじめたのである。
辺りを見渡しても、人影はない。玄十郎は足を速めてみた。
足音は、ひたひたと近づいてくる。
なんともいいようのない恐怖が、玄十郎の身体を貫いた。速めた足は次第に駆け足に変わる。月明かりの路地を、玄十郎はひたすらに走った。
足音は引き離せなかった。追いついてはこないが、しかし、間違いなく近づいてくる。玄十郎の胸は高鳴り、息は顎を高く突き上げ始めた。
駆け足は、そう長くは続かなかった。やがて息が上がり、玄十郎の足はもつれ始めた。転ばないように歩くのがやっとだった。
足音は相変わらずどこまでも追ってくる。それでいて、決してすぐに追いつきはしないのである。
少しずつ、間を詰めてくるのだ。少しずつ、少しずつ。
玄十郎は、とっさに路地を抜け出した。向かう先は、踊りの輪である。
高らかなお囃子の音。歌声。
踊る人々の笑いさざめく声。
音の洪水が、わっと耳になだれ込んできた。玄十郎はその洪水に押し流されるように、踊りの輪に飲み込まれていった。
輪となって回る人の波に抗うことは容易ではない。玄十郎にはとても逃れることなどできなかったが、それは追ってくる相手も同じはずだった。
踊りの輪は広い。広いというか、通りに沿って細長くなっている。踊りは足を前へ前へと運ぶようになっているので、通りを歩くように進むことになる。それにつれて輪も回るので、踊る者は気が付いてみると、いつの間にか元の場所に戻っているのだった。
だが、玄十郎は戻るわけにはいかない。とにかく、踊りの輪に紛れてこのまま町外れまで押し流されることができれば、あとは一目散に逃げるだけである。
だが、その目論見はすぐに外れた。
道一杯になって踊る人々に押しつぶされそうになりながら歩く玄十郎の背中に、冷たいものが押し当てられたのである。
刃物だ、と咄嗟に思った。悲鳴を挙げようと声を振り絞る。
それでも、恐怖でふさがってしまった喉からは、かすれた意味不明の声が漏れるばかりだった。
その声も、お囃子の櫓の上から高らかに響く歌声にかき消される。
玄十郎は、何が起こったのか分からぬままに、覚悟を決めた。
このまま殺されるのである。
歩くのをやめ、人の流れに身を任せた。玄十郎は踊りの輪にしたがって、ゆるりゆるりと歩いていく。
しばらく待てば、背中の刃物が玄十郎の背中を貫くだろう。そうすれば、その寂しく報われなかった人生も終わる。
玄十郎は、観念して目を閉じた。
そのときである。
高らかな歌声と共に、背後でどさりという音がして、どっという笑い声があがる。高らかな拍手があちこちで上がり、誰かが叫んだ。
「ええぞ、小駄良サイベ!」
振り向けば、お囃子の歌声に合わせて歌う、小柄な男が酒樽を担ぎなおして千鳥足でふらふらと去っていくのが見えた。
男は川の流れのような踊りの輪を、悠々と遡っていく。その後ろ姿を見送った下十郎がふと道端を見れば、店を開けている居酒屋の入り口で、一人の男が倒れていた。
居酒屋から出てきた背の高い男が、しょうがねえなとぼやきながら、倒れている男を店に担ぎ込む。
それを茫然と眺めていると、背中をぽん、と叩く者があった。
完全に、油断していた。襲ってくる者は1人とは限らない。
ぎくりとして恐る恐る後ろを見ると、そこにはなづきが立っていた。
タスキを賭けているところを見ると、仕事の途中だろう。運悪く、なづきの働く居酒屋の前に出てしまったのだ。
旅装束に気づかれては、まずい。
玄十郎は慌てて、人混みをかき分けて逃げ出した。踊りの輪に流されそうになったが、力ずくで人を押しのけながら走った。
いくつもの罵声の彼方に、呼び止めようとするなづきの声が遠ざかる。
玄十郎はさっきの裏通りを駆けに駆けて、長屋に逃げ戻った。
戸を開けて中へ飛び込み、後ろ手に閉めた戸に心張棒をかけて、その場にへたり込んだ。
腰が抜けたのである。
土間にぺたりとついた尻の冷たさに、玄十郎はようやく我に返った。
我に返ったら返ったで、改めて恐怖が甦ってくる。
さっき命を狙われていたときの「どうしよう」という恐怖とはまた別の、「なぜ」という恐怖である。
踊りの輪の中にもかかわらず、玄十郎は間違いなく命を狙われていた。裏通りで追ってきたのも、自分を殺そうとした者だろう。それはおそらく、なづきの働く居酒屋にかつぎこまれたあの男だ。
なぜ?
父親を早くに亡くして母親と共にひっそりと生きてきた浪人者が、なぜ命を狙われなければならないのか?
玄十郎は震えた。訳のわからぬ恐怖に震えた。
震えながら考えた。
これから、どうしよう?
この地を離れようとして命を狙われた。ならば、ここを離れなければよいのか?
そうとは限らない。この地に留まれば、余計に危険かもしれない。
二つの相反する答えが頭の中で堂々巡りを始め、どちらを選ぶこともできなかった。
玄十郎は一晩中、まんじりともしないで考えた。
そして夜が明ける頃、非常に単純な結論に行き着いた。
出て行くにせよ残るにせよ、生きていくためには、死なない術を身につけるしかない。
どうしたら、死なないで済むか?
玄十郎の頭に焼きついて離れない、昨夜のある光景に、その答えがあった。
自分を殺そうとした男を薙ぎ倒した、あの小柄な男である。
どうやって倒したのかは分からないが、その技を身につければ、生き延びることができる!
玄十郎はとりあえず、旅に出るのをやめにした。
土間から立ち上がって板間に上がり、旅装を解くなり、そのまま布団にもぐりこんで寝てしまった。
耳の中に、踊りの輪の中から聞こえた、あの叫びが残っている。
……ええぞ、小駄良サイベ……!
その頃である。踊りの輪が消え、皆が帰宅した早朝の町で、長身の男が別の男を張り倒していた。
あの、夜道で玄十郎を襲い、居酒屋の前で酔漢に吹き飛ばされた男である。
地面に転がった男は、よろよろと起き上がって、長身の男に土下座した。
「お許し下さい、春木玄十郎は、必ず」
長身の男は、朝の光よりも冷ややかな色をした目で見下ろしている。
口元を微かに歪めて、嘲笑した。
「逢坂無道という男が、事を仕損じた部下を生かしておくと思うか?」
平伏する男はがたがたと震えだし、言葉も出ない。
その腹を、逢坂無道と名乗ったその長身の男は、爪先で力任せに蹴り上げた。
腹を抱えて悶絶する部下に対して、一言だけ吐き捨てる。
「今はまだ人手が足りん。運が良かったな。」
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