Episode5 波乱
14
二〇一四年九月一日月曜日の午後―。
真由香は銀座駅前にあるクリニックのソファに座り、『週刊女性』をぱらぱらとめくっている。総務部の管理部長にやいのやいのと言われて、ようやく人間ドックにやってきた。真由香の年齢だとバリウムをまだ飲まなくてもいいのが救いであった。女性専用のクリニックなので周りは女性ばかりで、真由香も含めて全員もれなくピンクの診察衣を身に纏っていた。身長や体重の計測、血液検査などを経て最後の医師診察の順番を待っていた。
午前は本社にてデスク業務を行った後にクリニックにやってきた。昨日の『飛翔戦軍スカイフォース』の視聴率は散々であった。3.5%は『スカイフォース』始まって以来のワーストレコードになった。『24時間テレビ 愛は地球を救う』の真裏で見事に爆死した格好となった。番組自体はそうなることを予想してあらかじめ総集編でお茶を濁していたものの、実際に結果が出るとやはり虚しい思いに駆られた。日本国民のほとんどはみんなTOKIOのリーダー・城島茂のマラソンにたぶん熱狂していたのだろう。
『超時空少年トキオ』の撮影はスムーズに進行していた。クランクインからおよそ一か月が経過したが、佐伯春は天才少年ぶりを発揮し、現場ではほとんどNGを出さないという。そして撮影休憩の合間は台本を読まずに、学校の夏休みの宿題に参考書片手に取り組んでいたらしい。もしかしたら本人の宣言通り、ほんとうに東大に行けるかもしれないと思う。ただ、九月に今日から入り、彼の本分は学生だから、これからは撮影スケジュールに制限が生じる。そこのスケジュールはラインプロデューサーの北島衣里や助監督チームが調整を行っていくわけだが。
「宮地さん、診察室にお入りください」
女性看護師が声を張り上げる。ようやく順番が回ってきたようなので、真由香は『週刊女性』をマガジンラックに戻した。
こじんまりとした診察室では、ちょび髭の剽軽そうな白衣の医者が「はいはい、こちらへ」と丸椅子を勧めてきた。真由香はなぜかこの医者の風貌からマギー司郎を連想した。
真由香はぺこりと頭を下げた。
「よろしくおねがいします」
医者は険しい表情でカルテに目を落としていたが、うーんと唸った。
「宮地さん。あなた、どういう仕事してるんですか?」
「仕事ですか。えーっと」真由香は髪を撫でた。「ドラマの仕事を」
「音楽?」
「ドラマーじゃなくて、ドラマです。……テレビで子供むけの特撮ドラマを」
すると、目の前の医者は納得したように何度も頷いた。
「素晴らしい。うちの息子も昔よくお世話になったものですよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、時間は不規則なんでしょうね。お仕事とても大変でしょう」
「いやもう大変どころじゃなくって。徹夜は当たり前だし、睡眠時間は削られるし、会社や近くのサウナで寝泊まりするわで」
「そんな生活疲れませんか?」
「いや疲れますよ。あとカラオケボックス。歌唄いに行ってるわけじゃないですよ。書類の整理とか考え事するとき、その空間が一番落ち着くんです。食事も最近そこで済ませることが多くなってますね。フライドポテトとか、お茶漬とか、炒飯とか、チャンポン……」
「いや、それじゃダメですよ、あなた」
医者が真由香の話を途中で遮ると、首をゆるゆると横に振った。「いや、もう不規則な生活をここしばらく続けているのが顕著に表れた診断結果になってましてね。食事のバランスも崩してるんでしょうね。血糖値も昨年に比べると異常値を示している。まだお若かいのに、こんな生活を送っていてはいつか倒れますよ。というか、いつ倒れてもおかしくない……顔色が悪いって、よく周りから指摘されるでしょう?」
真由香はゆっくりと唾を飲み込んだ。
「……言われます」
「仕事が大変かもしれませんけどね、ちゃんと人間らしい生活送らないと。三六五日、会社に人生捧げてどうするんですか。健康第一、よーくそこんところ考えないと取り返しのつかないことになりますよ。これは私からの忠告ですよ。医者の言うことに間違いはない。とにかくもう一度言いますよ、ちゃんと人間らしい生活送らないと。よろしいですか?」
滔滔とまくしたてる医者の言葉に対し、真由香は「はい、はい」と傾聴するしかなかった。
とはいえ、即人間らしい生活なんて送ることもできず、人間ドックが終了すると真由香は即銀座の本社オフィスに戻ってきた。仕事が山積していて、医者の忠告をまともに聞き入れる余裕なんてなかった。部内は誰もいなかった。皆、現場に出ているか、たまりにたまった休暇の消化中だった。いつもデスクワークに専念している上司の堤谷は社内研修で京都の東光撮影所に出張中だった。
PCの社内メールにはなぜか東京東光撮影所映像保管室所属、東光労働組合長の財前松太郎からのメールが来ていた。近々撮影所に来るなら是非至急でお会いしたい内容ができた。必ずおいで願いたいとの内容だった。財前はとは東條信之の送別会以来まったくあっていなかったし、その予定もなかった。うーん、どういうことだとは思いながらも向こうは大先輩でもあるし、ここまで言われたら無下に断るわけにもいかないだろうなあと思い、スケジュールを作って会いに行くしかないかと肚を決めた。
制作部のデスクには、社内便のクリアボックスが置かれていた。真由香の担当番組である『飛翔戦軍スカイフォース』あてのお便りや、また真由香宛ての手紙や封書などが本社あてに届いた場合、その箱に入れられて回覧されるのだった。
番組の感想に混じって、今回気になったのが真由香個人に対するおたよりの数々だった。それも今までになかった類のもの。割と結構な数があった。「宮地さん、こんなお綺麗な方だったんですね。お仕事大変ですね。頑張ってください」という暖かい励ましの内容はともかくとして、「趣味は何ですか?」「付き合ってください」「彼氏いるんですか?」「どこに住んでるんですか?」「結婚してください」といった内容のお便りまで複数混じっているのはいささか閉口した。ちゃんとそれらには氏名と住所まで記載されていた。向こうは本気の思いで手紙を書いてきたのだろうか。
真由香は溜息を吐いた。もしかして失敗だったのもしれない、と。
というのも、先月中旬に発売された『特撮ハイパー通信』二〇一四年九月号のインタビューには真由香の顔写真も同時に掲載されたのだった。これは初の試みだった。いままで「プロデューサーたるもの、縁の下の力持ち」という真由香自身の方針で向こうから何も言われても、自身の写真の掲載を許可してこなかった。
しかし、今回『特撮ハイパー通信』の細井という編集兼カメラマンとライターの鍵本欽也が「番組掛け持ちでも仕事を懸命に頑張ってる女性、というイメージで撮りますんでここは何卒」と懇願してきた。こちらも、それが番組のPRにつながり発展につながるのならと気まぐれに了承し、女流作家の小池真理子や桐野夏生みたいに柄にもなく気取った表情を浮かべて、つい写真撮影に応じてしまい……。
真由香は再び溜息を吐いた。結果的に、なぜか真由香個人あてにそういう手紙が何通も届く羽目になってしまっている。
いや、それが『飛翔戦軍スカイフォース』や『超時空少年トキオ』の成功につながれば、それで良い。こういう手紙をわざわざ送ってきているのだから、真由香や番組に対して好意的に思ってくれている相手なのもすごくわかる。ありがたいものだと思う。
しかし、何となく疲れる。
気配を感じたのでふと振り返ると、いつのまにか神長倉和明がやってきていて、後ろから手紙を覗き込んでいた。
無表情だったが、ぽつりと一言。
「……さすがにいきなり結婚してくださいはないでしょうね」
「いや、まあありがたいとは思ってます。わざわざ手書きでね。住所も書いてきてね。でもね、いまわたしはとっても、すごく忙しいので」
真由香は手紙を折りたたむと、封筒に戻した。箱にはまだまだ封書があったが、一つ気になるものがあった。その封筒には宛名に『東光東京撮影所 宮地真由香殿』とあったが、後ろを裏返すと何も記載されていなかったのだ。真由香の所属はここ銀座の東光映画本社だが、なぜか大泉の撮影所宛になっていたものが転送されてきたようだ。これまでの封書には、ちゃんと送り主が明記されていたというのに。何となく嫌な予感を抱いた。
神長倉が隣の椅子に腰を下ろす。
「手紙を送るときに殿宛は失礼にあたるからやめたほうがいいって、学校の先生は言ってました」
「そうですか? 年長の人は手紙を送るときは誰彼構わず殿あてで送るって聞いたことがありますけど」
真由香はペーパーカッターで封を切ると、紙を取り出した。一枚しか入っていなかった。が、広げてみるとその手紙の異様な雰囲気に思わず真由香は喉を鳴らした。そして神長倉も目を何度もぱちくりとさせた。
手紙にはマジックの手書きで、こう書かれてあった。定規か何かで線をあてがっているのか、非常に読みづらいことこの上なかった。
図に乗るな
たかがプロデューサーが
掛け持ちで本当にいい番組が作れると思っているのか
もう一度言う 図に乗るな
番組を降りろ
さもないと大いなる不幸が訪れることになるぞ
宛名も何も書かれておらず、たったの六行。
「えー」
真由香は頭がくらくらとする。もしかしたら本当に脳震盪でも起こしたのかもしれないと一瞬錯覚しそうになった。
「なんなのよ、これ。わたし、こういった系の手紙もらうの入社以来初めてなんですけど」
横にいた神長倉は「ちょっといいですか」と手紙を受け取ると、「うーん」と難しい顔をして何度もじっと見ていた。
「もう伊丹の主婦の『アタック25作戦』のお手紙といい、その労力を他のことに使ってよという感じです」
先輩からはいろんな話を聞いたことがある。映画やテレビを受け持っていた時、まったく理不尽な悪意の投書を受け取ったことが何度もあると。そりゃ真由香もクレームとか非難の手紙を受け取ることはこれまで数限りなくあった。ただ、納得できない内容であったとしても、それでも相手の主張は何となく理解できたし一応少しは納得もできた。相手の顔が見えた。
しかしこの「手紙」からは相手の顔が見えない。
宮地真由香殿、とあるからこれはわたし個人に対する向こうの思いなんだろう。名前すらない。封書を見ると「港郵便局区内」とあるが、こんなもの何のヒントにもならないだろう。
「……ずたかもばさ」
隣の神長倉が唐突に呟いた。「……いや、ながかなろぞ」
「なんなんですか。そのテクマクマヤコンテクマクマヤコンみたいな呪文は?」
「いや、もしかしたらこの手紙、なんかの暗号でもあるのかなあと思って。冒頭の文字とか、最後の言葉の連続で拾ったら何か意味ある単語になるのかなあと思ったんですが、どうやら関係なかったようです」
「それ、真面目に言ってます?」
「大まじめですよ。でもどうやら違ったらしい」
神長倉は手紙を机に置いた。
「ただの一視聴者の理不尽な脅しとして無視するか、もしくは法務部に届けて対処してもらう、かです。私は後者を強くお勧めしますが」
「気にしません。どうせただのいたずらですよ」
真由香は封筒に紙を戻すと、そのままデスクの引き出しにしまった。
神長倉は顎を撫でる。
「宮地さんって肝が据わってますね。気にならないですか?」
「そりゃ多少は気になりますよ。でもこんな嫌がらせ、いちいち気にしたって始まらない。クレームが怖くてプロデューサーが出来ますかって」
でもなあ、と真由香は少し頬を膨らませる。
「わたし、全く図に乗ってるつもりないんだけどなあ。休み返上して、徹夜して、一生懸命働いて、神経すり減らして、我慢もして。なんでこういう言われ方しないといけないのかなあ」
神長倉は腕を組みながらうーん、と天井を見上げた。
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