第伍章 追憶

 二度と乗ることは無いと思っていた列車に乗って、僕は故郷の家に戻ろうとしていた。

 向かいの席には、叔父が沈痛な面持ちで座っている。

 その横で、沙夜香が心配そうな視線を僕に向けていた。

 正直、僕はあまり気乗りしていなかった。

 戻らなければならないことは十分承知している。

 しかし、あの家に帰ることは、たとえどんな理由であっても苦痛でしかありえなかった。


 父はどうやら泥酔した挙句、外で眠って凍死したらしいということだった。

 僕があの家にいた間は、父はそれほど酒を飲んではいなかった。

 もともとそれほど酒に強い体質でも無かったはずだ。

 たった一人であの家に残されて、父はのしかかってくる想い出の重圧に耐えることが出来なかったのだろう。

 家を出て行った僕にも、父の死の原因の一端はあるのかもしれない。

 そう考えると、やはりあの家に行くことは気が重かった。



 懐かしい駅で降りると、故郷の匂いがした。

 実際には一ヶ月ほどしか経っていないはずなのだが、何故だか妙に懐かしい感じがした。

 タクシーに乗って流れていく外の景色を眺めていると、僕は次第にあの家のことを思い出してきた。

 意図的に忘れていたことは、こんなにも沢山あったのか。

 僕は自分で驚くほどに、あまりにも多くの過去を封印していた。

 やがて、タクシーは病院に到着した。


「大丈夫ですか?」

 僕の様子はそれほど不安定だったのだろうか、沙夜香が僕に訊いてきた。

「大丈夫、ちょっと色々思い出しただけだから」

 霊安室には、僕と叔父だけが入った。

 暗い部屋の中に、父の亡骸が横たえてある。

 僕は父の死顔を見た。

 父は、まるで眠っているみたいな、安らかな表情をしていた。


 生きていれば、母との想い出に苦しめられるだけの毎日だったのだろう。

 今、父は母の傍にいるのだろうか。

 父のこんな顔は、母がいなくなってから一度も見たことが無い。

 死の間際に、父は母の姿を見たのだろうか。

 父は自分が生きているこの世界に、母の存在以上の生きる喜びを見出すことが出来なかったのか。

 僕は、父の頬にそっと触れてみた。

 思っていたよりも、それはずっと冷たかった。



 生家に戻ってくると、そこでは大勢の親戚が葬式の準備を始めていた。

 僕はこの家に残される唯一の人間だったが、特に段取りには必要とされていないようだった。

 騒がしい集団から離れて、僕は一人、かつて僕が使っていた部屋に向かった。

 部屋は僕が出て行った時、そのままで残されていた。

 カレンダーは先月のものになっている。

 僕は微かに埃をかぶったベッドの上に横になった。


 一人になると、徐々に父の死が現実味を帯びてきた。

 叔父の家で訃報を聞いた時には、僕は自分がまだ夢の中にいるような気分でいた。

 沙夜香とあんな話をした後だったからかもしれない。

 実際に父の死体と直面しても、こんなものかとしか思わなかった。

 冷めた気持ちで、一歩引いた視線を保っているもう一人の自分がいるみたいだった。


 だが、久しぶりに帰ってきた自分の家の、自分の部屋の天井を見上げていると、じわじわと感情の波が襲い掛かってきた。

 母が死んだ時に味わった、あの感覚だ。

 僕はあの時、悲しみに対して麻痺するようになってしまっていたのかもしれない。

 ぽっかりと心に穴が空いたような、空虚な気持ち。

 それでも、不思議と涙は出てこなかった。

 僕は、父のために悲しむ心を持っていないのかもしれなかった。


「・・・ここは、寒い」


 結局、僕が聞いた父の最期の言葉は、あの電話の声だということになる。

 この広い家で、たった一人で。

 父は一体何を考えていたのだろうか。

 母が死んでから、口数も少なくなり、やがて、僕と顔を合わせることすら避けるようになった父。

 お互いに理解し合おうとすることもなく、僕は父のもとから離れていった。

 父との生活は、僕にとっては苦痛でしかなかった。


 僕は父が『可哀想』だとは思わなかった。

 ただ、悲しい生き方であったと思う。

 母が死んだあの日に、きっと父は自分も一緒に行きたいと願ったのだろう。

 父は恐らく残された僕のために生き続けた。

 そのことを考えるのが、僕には辛かった。

 僕がいなければ、父はすぐにでも母の後を追っただろうか?

 僕が家を出たから、父は生きようという力を無くしたのだろうか?


 一人でいると、良くない想念が次から次へと沸いてくる。

 僕は外の空気を吸うために、部屋から出てみた。

 相変わらず、親戚がざわざわと話をしている。

 叔父もその中に加わって、何やら話し込んでいた。

 ちらちらと僕の方を見る視線を感じる。

 生命保険。

 遺産。

 そんな言葉が耳に入ってきたところで、僕はうんざりしてその場を離れた。



 表に出ると、陽は高かった。

 あわただしく時間が過ぎていったので、もう夕方頃だと思っていたが、どうやらまだお昼過ぎ辺りらしい。

「敬太さん」

 声のした方を向くと、沙夜香がいた。

 考えてみれば、沙夜香は別に僕や叔父の親戚ではないのだから、家の中の輪には入りづらいのだろう。

 僕は沙夜香の頭に掌を置いた。

 小さな手が僕の掌にそっと触れて、包み込むようにして握ってきた。


「・・・寂しい、ですか?」

 沙夜香の声に、僕は微笑んでみせた。

 寂しくないと言えば、嘘になるかもしれない。

 しかし、僕の中では父はすでに死んでいたのも同然だった。

 母がいなくなった時に、寂しいという感情は既に使い果たされてしまったのだろう。

 確かに父の死は悲しい。

 だが、それで寂しさが増すということは無かった。


 僕には、叔父の家での生活がある。

 沙夜香がいる。

 父のように、母がいなくなることで全てを失ってしまうというようなことは無い。

 二度と父と理解し合えないということは、確かに少し悲しくはあった。

 でも、父があのままの状態で生き続けていたとしても、僕には父を理解することも、助けることも出来なかっただろう。

 だから、僕は寂しくは無かった。

 少なくとも、今この時は。


「しばらく、家の中はごちゃごちゃしてそうだね」

 僕は周囲をぐるりと見回した。

 故郷の町。

 一ヶ月足らず離れていただけだというのに、この懐かしさは何だろう。

 父のことが無ければ、僕はひょっとしたら二度とここには訪れなかったかもしれない。

 そう考えると感慨深いものがある。

 緑の山と、まばらな民家。

 子供の頃から見慣れた、僕の生きてきた世界。


 何処からか、僕を呼ぶ声がした。


 声のした方向を探して、僕は目線を彷徨わせた。

 道の先に、小さな人影が見えた。

 僕のことを真っ直ぐに見詰めている、少女がいた。

 驚いて、僕は沙夜香の姿を探した。

 沙夜香は僕のすぐ横にいる。

 それでは、あの少女は一体誰なのだろう?

 そう思ってもう一度少女の方を見たが、ほんの一瞬目を離しただけなのに、先程の少女の姿はどこにも無かった。


 僕は少女のいた辺りまで歩いてみた。

 一本道の何処にも、少女が消えてしまったことを説明できる要因は無かった。

 はっきりと見たわけではなかったが、僕はさっきの少女を何処かで見た覚えがあった。

 言いようの無い不安が、胸の中一杯に広がってくる。

 後ろからついてきた沙夜香が、心配そうに僕を見上げてきた。

 僕の視線は、目に見えない少女を追いかけていた。


 森の中に消えていく少女の姿が、僕の脳裏をよぎった。

 見たことのある風景。

 いつも遊びに行っていた、あの森に間違いない。

 忘れていた記憶が、じわじわと意識の中に染み出してくる。

 あそこにいけば、何かが思い出せるかもしれない。

 笑い声が聞こえたような気がする。

 僕は無意識のうちに歩き始めていた。

 沙夜香が僕の背中を見送っている気配がしたが、僕はそちらを見向きもしなかった。



 子供の頃遊んだ森は、そのまま残っていた。

 昔登った木、蝉を捕まえた木、野イチゴの木。

 全てが少年の日のまま、時間が止まっているようだった。

 僕は下草を踏み分けながら、ゆっくりと歩みを進めた。

 陽射しが枝の隙間を縫って僕の身体を照らし出す。

 それはまるで無数のライトのようだ。

 水の流れる音が、何処かから微かに聞こえてくる。


 僕は無心に前に進んだ。

 この先に、僕の心をくすぐる何かがある。

 少女が微笑んでいるイメージがある。

 それは、僕が見て記憶していないあの夢と関わっているのだろうか。

 汗が吹き出し、息が切れるにつれて、僕は自分を取り巻く世界の現実感が急速に薄らいでいくのを感じた。

 僕は覚醒したまま、夢の中を彷徨っていた。


 背の高い草を掻き分けた時、それは唐突に姿を現した。


 使用されなくなってから、もう何年も経過した様子の、朽ち果てた別荘。

 塗料の剥がれた壁には、ところどころ苔が付着している。

 窓という窓には全て板が打ち付けられていて、中の様子は窺い知れない。

 下草に覆われた玄関の扉には、スプレーで大きな落書きが施されていた。

 表に放置されている木の椅子とテーブルが、僕の記憶をちりちりと刺激した。


 空を見上げると、陽射しはライトに変わっていた。

 壁には緑の木々の模様が描かれている。

 僕はゆっくりと正面に視線を戻した。

 木の椅子には、さっきまで一人の少女が座っていた。

 落書きされた木製のドアが、ほんの少しだけ開いている。

 その奥にあるのは、赤い部屋だ。


 別荘の中は、真紅に染まっていたのだ。

 あの日、それはいつのことだっただろう。

 思い出せない。

 ただ、彼女があの扉に入っていったことを覚えている。

 彼女?

 彼女とは誰だっただろうか?

 扉を開ければ思い出せるだろうか。

 僕は扉に一歩近付いた。


 扉を開けると、そこは赤い部屋だった。


 用意されていた木の椅子に、僕はそっと腰掛けた。

 目の前には、やはり木製の小さなテーブルがある。

 その上に置かれた白い小さなものに、僕は手を伸ばした。

 僕にはそれが、手を触れてはいけないものだと判っていた。

 しかし、触ってみたいという衝動を、僕は抑えることが出来なかった。

 掌でそっと握ると、それを目の前に持ってくる。

 恐る恐る、僕は自分が手に持っているものを覗き込んだ。



 指だ。



 部屋の中は、赤一色だった。

 壁という壁は、全て血糊で覆われている。

 台風が吹き荒れた後のような室内は、生臭い匂いで満たされていた。

 花瓶や食器が割れて破片が散乱し、カーテンは引き千切られ、棚の中身は全て床にぶちまけられている。

 不気味なほどの静寂の中で、僕は黙って掌の中の指を見詰めていた。

 その小さな指が、彼女のものだと確信しながら。


 奥の方で物音がした。

 僕はびくっと身を震わせた。

 何か悪いものがそこにいると感じたからだ。

 隣の部屋で、何かが動くのが見えた。

 椅子に腰掛けたまま、僕はそこから動くことが出来なかった。

 ずるっ、ずるっ、という音が近付いてくる。

 ゆっくりと、不規則に、だが確実に僕の方に向かって来ている。

 僕はただじっと、そいつが姿を現すのを待っていた。


「・・・たすけて」


 声は下の方から聞こえた。

 床に、何かが這いつくばっていた。

 ぎらぎらと油のような光沢を持った黒髪が、無数の赤い線を引いている。

 指の無い掌が、真っ直ぐに僕の方に向けられている。

 べちゃ、という音がした。

 苦痛と恐怖に歪んだ赤黒く汚れた顔を、僕は直視した。

 赤い部屋の住人は、赤い色彩に沈んでいた。


 僕は悲鳴をあげて、その場から逃げ出した。



 扉を抜けて外に出ると、そこは朽ち果てた別荘の前だった。

 肩で息をしながら、僕はその場にうずくまった。

 身体の震えが止まりそうに無い。

 次から次へと汗が吹き出してくる。

 口の中がカラカラに渇いて、唾液が粘りついてくる。

 僕はよろよろと、残された力を振り絞って立ち上がった。

 その時になって、僕は慌てて握りっぱなしの右掌を開いてみた。


 そこには、何も握られていなかった。

 深く一つ息を吐くと、僕は肩を落とした。

 後ろを振り返れば、今にも彼女が血に塗れたまま追いすがってくるような気がする。

 激しい頭痛と、吐き気がした。

 僕は来た道を引き返し始めた。

 もう一秒でもこの場所には留まっていたくなかった。


 僕の記憶の海の底に沈んでいたものは、恐ろしいものだった。

 あれは、果たして何だったのだろうか?

 現実にあった経験なのだろうか。

 生々しい色彩と匂いは、はっきりと思い出すことが出来る。

 白い指を握った感触が、掌にまだ残っている。

 間違いない。

 あれはかつて、僕が経験した現実なのだ。


 あの場所で起こった事実なのだ。


 長い間、僕はこの記憶を封印してきた。

 出来ることなら、もう二度と思い出したくないような過去を。

 それが、沙夜香と出会い、この町に戻ってきたことによって思い出してしまった。

 耐え切れないほどの吐き気がこみ上げてきて、僕はその場にしゃがみこんだ。

 胃液しか出てこなかったが、僕はありったけの力を込めて吐いた。

 涙がぼろぼろと零れ落ちた。



 家に戻ってから、僕は部屋の中に閉じこもって誰とも顔をあわせなかった。

 親戚の人たちは、僕が父親の死で気を落としていると思って、気を遣ってくれた。

 沙夜香が心配そうに僕のことを見詰めていたが、今だけは沙夜香の顔は見たくなかった。

 沙夜香の顔が血に染まる夢など見たくない。

 僕はベッドに潜り込んで、夢を見ることですら恐れて丸くなっていた。


 通夜が過ぎ、葬式が終わった。

 その間、僕はずっとベッドの中で震えていた。

 誰の言葉も聞かなかった。

 叔父と沙夜香が残ることになって、親戚たちはぞろぞろと帰っていった。

 静かになった家の中で、僕は母の幻影にすがりついていた。

 泣いている時、いつも傍にいてくれた母。

 僕が大好きだった、母。


 僕は夢を見ていた。

 夢の中で、僕は母の膝の上に乗っていた。

 母の胸に耳を当てると、母の鼓動が聞こえてくる。

 ああ、生きているのだ、と僕は思った。

 母が生きていた時、僕は柔らかくて暖かい母が大好きだった。

 父も、笑顔で傍にいる。

 母が生きていた頃の父は、優しくて力強かった。


「・・・母さん」


 そう呟いて目を覚ますと、僕は沙夜香の膝の上で眠っていた。

 驚いて起き上がろうとする僕を、沙夜香がそっと制した。

 久しぶりに見た沙夜香の顔は、ほんの少しだけ大人びて見えた。

「敬太さん、お母さんの夢を見ていたんですか?」

 僕は小さくうなずいた。

 沙夜香の温もりは、母のものに似ていた。

 優しい目で僕を見詰めながら、沙夜香はそっと僕の頭を撫ぜた。

 それは、母が良くする仕種だった。


「もう、大丈夫ですよ」


 沙夜香の言葉を聞くと、何故か自然と涙が溢れてきた。

 まるで、母に語りかけられたような気がしたからだろうか。

 僕はそっと沙夜香の首の後ろに手を回すと、強く抱きしめた。

 沙夜香は特に驚いた様子も無く、そっと僕の背中を包んでくれた。

 甘い香りがした。

 懐かしさと、愛おしさが僕の感情のたがを外していく。

 沙夜香の腕の中で、僕は号泣した。



 沙夜香に誘われて、僕は外に出た。

 空を見上げると、そこには大きくて明るい月があった。

 ここの空気は、叔父の家の辺りよりも綺麗なのだろう。

 僕は沙夜香と二人で、その月にしばらく見入っていた。

「月には・・・」

 沙夜香が、小さな声を発した。

 まるで月の光が音となって、僕の耳に囁きかけているようだった。


「月には、死んだ人が住んでいるって、父から聞きました」


 沙夜香は、どんな想いで月を見上げているのだろうと、僕は考えた。

 月にいる自分の父と母に、自らの姿を見せていたのだろうか。

 毎晩のように、語りかけていたのだろうか。

 僕の父と母も、あの月にいるのだろうか?

 そして、あの別荘で死んだ少女も、月にいるのだろうか。

 赤い部屋で息絶えたあの少女も。


 僕はほんの少しだけ、月が恐ろしく思えてきた。



 翌日、僕は叔父から葬式の時に決まった様々なことを聞いた。

 遺産だなんだと面倒なこともあったが、とりあえず今の僕がどうしたいのかは決めてあった。

「僕は、まだしばらく叔父さんの家でお世話になりたいのですが」

「うん、それは構わないよ。沙夜香も喜ぶし」

 叔父は快く受け入れてくれた。

 この家にあるものは、全て処分することにした。

 振り返っても、何も得られるものは無いだろうからだ。


 森の中の別荘には、もう訪れるつもりは無かった。

 赤い部屋の幻影を思い出すだけで、激しい恐怖感が湧き出してくる。

 必要ならば、いつか再びあの赤い部屋を訪れて、封じられた記憶と対峙することになるだろう。

 今の僕には、まだあの場所に残された記憶に耐えられる自信が無い。

 ただ、あの沙夜香と同じ年くらいに見える少女が誰なのか。

 そのことだけが、心のどこかで引っかかっていた。


 生家を去る最後の日、僕は玄関からもう一度我が家を振り返ってみた。

 父と、母の思い出の詰まった家。

 家屋自体は、僕は出来る限りそのまま残しておくことにした。

 年に何度か掃除に訪れるつもりだ。

 幸せな想い出が残されたこの家を無くしてしまうことは、僕には忍びなかった。

 僕の横に、いつの間にか沙夜香が立っていた。


「帰ろう、僕たちの家へ」


 沙夜香は小さく、だがはっきりとうなずいた。

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