第4章 沙夜香抄

 家の中は、嘘のような寂しさに支配されていた。

 遅くまで外で遊んでいて、知らない間に陽が落ちた時、玄関の扉を開けるとそこには笑顔と光に満ち溢れていた。

 道に迷って悲しくなって泣いた時も、家に帰ればそれだけで落ち着けた。

 でも、今あるのは沈んだ空気と、重苦しい沈黙だけだ。

 真夜中の静かな空気の方が、むしろ暖かく私を迎えてくれるだろう。

 そう、月が私を見詰めていてくれる限り。


 外が太陽の輝きで満ち溢れていたとしても、この家は暗黒に支配されていた。

 それは電灯の明かりでは照らし出すことの出来ない闇。

 私は膝を抱えて、その中でじっとしていなければならない。

 たまに大きな雑音が耳に入ってくる。

 心配だとか、可哀想だとか、どうするんだとか。

 言葉は心地好い響きを持っているようだが、それは全てまやかしだ。

 その証拠に、誰も私の身体には触れようとしない。

 部屋の隅で膝を抱えた私に。


 まるで腫れ物に触れるようだ、と康弘おじさんが言っていた。

 康弘おじさんは昔からの父と母の友達だということだった。

 父が死んだ時に、私は初めて康弘おじさんに会った。

 康弘おじさんは誰よりも私と、母の心配をしてくれた。

 言葉だけじゃなく、私たちのために自分に出来ることを手当たり次第にしてくれた。

 部屋の隅で膝を抱えている私に話し掛けてくれるのは、康弘おじさんだけだった。


 でも、母はそのほとんどを笑って断っていた。

 母の気持ちは、私にもなんとなく判った。

 親切は嬉しい。

 申し出てくれることも嬉しい。

 でも、母にとっては父が居なければみんな同じことなのだ。

 安らぎは、父がくれるもの。

 私にも判る。


 康弘おじさんは優しい。でも、父じゃない。



 陽が落ちると、私は窓の外を眺めた。

 月が私のことを見ているのを確認したかったからだ。

 時には青白く、時には黄色く、そして時には赤く。

 太陽の光と違って、月の光は眩しくない。

 夜の闇の中にしか生きられないモノのために、透き通る光を与えてくれているのだと、父から聞いた。

 母にそのことを話したら、くすくすと笑っていた。


「月には、死んだ人たちが居るんだよ」


 私は父のその言葉を覚えていた。

 だから、父が居なくなってからは毎晩のように月を見上げた。

 母も私を咎めはしなかった。

 私と一緒に月を見て、一緒に父に向かって語りかけた。

「私たちは元気だよ」

「だから、安心してね」

 でもその時、母は私に知られないように、もう一つの別な想いを言葉にしていたのだろうか。


「私も、もうすぐそこに行きます」


 母が死んだ時、私は純粋に母が羨ましかった。

 あの、夜空にきらめく青白い月の上で、父ともう一度会えるのだから。

 独りぼっちになってしまったという寂しさよりも、私は父と母に取り残されたという想いの方が強かった。

 夜になると月に向かって泣いた。

 私も連れていって欲しいと懇願した。

 ・・・父も母も、私に応えることはしなかった。

 私は一人、地球の上に取り残されたのだ。



 私は施設に入ることになった。

 一人で生きていくことなど当然出来ない。

 何も出来ない子供なのだから・・・

 親戚の大人たちがそう言っている声が聞こえた。

 康弘おじさんが最後まで私の施設行きに反対していた。

 でも、父と母の友人というだけの康弘おじさんには、その決定を覆すことなど出来なかった。


 私の家が、少しずつ壊されていく。

 大きなテレビも、綺麗なお皿が詰まった食器棚も、父の本棚も。

 遺産整理という形でみんな消えていってしまった。

 私の持ち物もほとんど整理されてしまうということだった。

 想い出の詰まった私の部屋が、虫食いの穴のように虚無に侵食されていく。

 父に買ってもらった大きな犬のぬいぐるみが消えた時、私は大声を上げて泣いた。


 康弘おじさんが私を抱きしめてくれた。

 父とは違う煙草の匂いにくるまれながら、私は泣きじゃくった。

 私の言いたいことを判ってくれたのか、康弘おじさんは私の部屋の荷物を全て引き取ると言い出した。

 親戚は当然いい顔をしなかった。

 遺産目当てだと、康弘おじさんは罵られた。

 私はまた泣いた。

 その時の涙が何に対してのものだったのかは、今ではもう覚えていない。


「どうしてパパとママは私を置いていってしまったの?」


 私は康弘おじさんに涙ながらに問いかけた。

 当然それに答えることなど出来るはずも無い。

 困惑した表情を浮かべる康弘おじさんの顔を、私はじっと見詰めた。

 そして、口走ってしまったのだ。


「私、パパとママの所に行く!

 私も死ねば、パパとママの居るところに行けるんでしょう!」


 次の瞬間、私は左の頬に痛みというか、熱を感じた。

 父は私を叱ることは無かった。

 母はたまに私を叱ることはあったけど、手を上げることは無かった。

 驚いて康弘おじさんを見ると、康弘おじさんは私よりももっと驚いた顔をしていた。

 しばらく沈黙した後で、康弘おじさんは私に抱きついて泣いた。

 私は痛みに泣くことも忘れて、呆然としていた。


「そんなことは言っちゃいけない!

 沙夜香ちゃん、そんなことは絶対に言っちゃいけない」


 私は、父と母の下に行きたいと口にすることを禁止された。

 でも、だからといってその想いが消え去るわけではない。

 夜になるたびに、私は月を見上げた。

 そして、月の光を浴びるたびに、父と母に会いたいと願うようになった。

 月にいる父と母に語り掛け続けた。

 自分の悲しみを、一人残されたことの寂しさを。

 許されるのなら、今すぐにでも父と母のいるその場所に行きたいということを。



 施設にいる間、私はほとんど誰とも言葉を交わさなかった。

 私が話すのは、月にいる父と母と、康弘おじさんだけだった。

 施設の職員が心配して、何度も親戚に連絡を入れたが、私の様子を見に来てくれるのは、結局康弘おじさんだった。

 それでも、私が康弘おじさんと交わす言葉は数えるほどのものだった。

 父と母のことを康弘おじさんに話すわけにはいかない。

 そうなると、私が言葉にしたい内容など何も無い。

 康弘おじさんも、私が父と母の話題を避けていることに薄々気が付き始めているようだった。


「沙夜香ちゃんは、パパとママに会いたい?」

「会いたい」

「そうだろうね・・・僕も会いたいよ」

「死ねば、会えるんでしょう?

 パパとママと同じ場所に行けるんでしょう?」

「それは判らないよ」

 康弘おじさんの表情は暗かった。

 私は自分が死ねば、きっと父と母のいる月にいけるものと信じて疑わなかった。


 だから、死ぬことなんて怖くなかった。


 施設の屋上から飛び降りた時も、これで父と母に会えるとしか思わなかった。

 みんなが止める声がしていた。

 でも、私はためらわずに屋上から中空に足を進めた。

 意識がふわっと身体から離れて、飛び上がったような感じがした。

 その時、私は自分の魂が月に向かって飛び出したのだと、そう思った。


 気が付くと、私は病院のベッドの上にいた。

 痛くて苦しくて、早く死んでしまいたいと思った。

 死んでしまえば、父と母に会える。

 父と母と一緒なら、こんな苦しみなんて耐えてみせる。

 でも、康弘おじさんがそれをさせてくれなかった。

 毎日のように病室に来て、私に死なないように、生き続けるように話し続けた。


「どうしてあんな馬鹿なことをしたんだ」

「ごめんなさい」

「パパとママに会いたかったのかい?」

「・・・」

「それで会えるのなら、僕もビルから飛び降りたいよ」

「康弘おじさん?」

 康弘おじさんは泣いていた。


「沙夜香ちゃんにとって、パパとママがいない場所って、そんなに意味が無いものなのかな?」


 父と母のいない場所。

 そこには私にとってどれだけの価値があるというのだろうか。

 私は月に行きたい。

 青白い光に包まれた月の砂漠で、父と母と一緒にいたい。

 地球にはもう楽しいことなんて何も無い。

 可哀想、可哀想と囁かれ続けるのはもう嫌だった。

 その言葉を聞くたび、私は月にいる父と母のことを想った。


 でも、康弘おじさんが泣くところはもう見たく無かった。

 私が父と母のところに行こうとすることを、泣いてまで止めようとした康弘おじさん。

 ただ一人、私のことを思って何かをしてくれる人。

 私は康弘おじさんのために、もうしばらく生きてみることにした。

 そのことを康弘おじさんに話すと、康弘おじさんはとても喜んでいた。

 私が生きることを喜んでくれる。

 私にはそれがとても不思議だった。



 康弘おじさんの必死の説得と、私の希望によって、私は康弘おじさんの家に引き取られることになった。

 その時、私は初めて母の遺言の存在を知った。

 康弘おじさんも、私を養子に迎える際に、初めて母の遺言の内容を知ったらしい。

 遺言は、私に対する謝罪の言葉で埋め尽くされていた。

 取り残されることになる私にすまない、と。

 私がもし独りで困るようなことがあれば、康弘おじさんに相談するように、と。

 そして、強く生きて欲しい、と。


 母は、私に自分がいなくても強く生きて欲しいと願っていた。

 私は、死んででも父と母の下に行きたいと願っていた。

 母の死後すぐにその遺言の内容を知ったとしても、私は死のうとしただろう。

 でも、母の願いが私が生き続けることなのだと知った時、何故だか涙が溢れて止まらなかった。

 それは、母が私よりも父を選んでこの世から去ったのだという、悲しい思い込みが消えたからなのか。


 月を見上げるたびに、今は生きようと想う。

 死ねば、多分私は父と母のいるあの青白い月の大地に行くことが出来る。

 でも今は母の願いに従って、できる限り生きていこうと、強く生きていこうと考えられるようになった。

 私が頑張って生きていけば、それだけ父と母は私をほめてくれるだろう。

 生きることそれ自体に、今は喜びは少ないけれど。



 康弘おじさんの家は、父と母と共に過ごしていた街からだいぶ離れていた。

 緑の多い、静かな山間の街。

 広い家は康弘おじさん一人にはとても広すぎるように思えた。

「どこでも好きな部屋を使っていいよ」

 そう言われて、私は私の荷物がまとめられていた部屋を選んだ。

 物置のような部屋だったが、天井の近くに窓があるのが良かった。

 きっと、あそこから月が見えるだろう。


 引っ越してきてから数日は、あわただしく過ぎていった。

 新しい学校は、別に今までと何も変わらないようだった。

 康弘おじさんは家にいない時間が長かったので、私は自然と家のことを色々とこなすようになっていった。

 母と二人で生活していた頃に、大体のことは教わっていたので、特に困ることは無かった。

 楽しいとか、苦しいとか、そんなことを考える余裕はまるで無かった。


「沙夜香は、学校の友達とかはいないのかい?」

 ある日、康弘おじさんが夕食の時にそう訊いてきた。

 私は正直にいないと言った。

「そうか・・・寂しかったりとかはしないのかい?」

「あまり、感じません」

 康弘おじさんは少しだけ悲しそうな顔をした。

 友達が欲しいと感じたことは無い。

 ましてや、友達がいなくて寂しいだなんて。


 寂しいとすれば、それは父と母がいない寂しさだ。

 優しかった二人にもう会うことが出来ない。

 会おうとすることも出来ない。

 友達を作ることでその寂しさから解放されるとでも言うのだろうか?

 康弘おじさんは、私のために色々と気を遣ってくれる。

 でも、康弘おじさんは父ではない。

 私の父は、この世界で一人だけ。

 しかも、もうこの世にはいない。


 康弘おじさんには申し訳なかったが、私は康弘おじさんを父親のように想うことはどうしても出来なかった。

 認めても良かったのだろうけど、私の中にはどうしてもわだかまりが残っていた。

 父も母も、完全にいなくなってしまったわけではない。

 夜空に浮かぶあの月の大地で、私が生きている姿を見守っているのだ。

 いつか私が死んだ時、あの月で再会したいのだ。

 私が本当に父と母と呼べる人たちと。



 ある夜、私は家を抜け出した。

 窓の外に輝いている満月に呼び出されたような気がしたからだ。

 裏の雑木林の中に、足が自然に運ばれていく。

 明かり一つ無い暗闇の中を、私は奇妙な確信を抱いて進んでいた。

 恐怖は感じなかった。

 かすかな木々の隙間から零れ落ちる月の光が、私に勇気をくれる。

 夜の空気が、私を優しく包み込んで守っていた。


 そして、私はそこに辿り着いた。


 小さな広場。

 円形の芝生が、雑木林の真ん中に開けていた。

 美しい自然の芝が、月の光を反射して銀色に光り輝いている。

 私は頭上を仰ぎ見た。

 そこには、大きな青白い満月が私を見下ろしていた。

 風を受けてざわめく樹木の先端が、まるで水面のように揺れ動いている。

 私は息を飲んで、しばらくその場に立ち尽くしていた。


「月には、死んだ人たちが居るんだよ」


 父の言葉が、私の脳裏をよぎった。

 私には、この場所で聞こえる木々のざわめきが、死者の言葉のように聞こえた。

 月の人の声を聞くことのできる場所。

 私は頭上の月に向かって両手を伸ばした。

 そうすれば、引っ張ってもらえるような気がしたからだ。

 知らない間に、笑みがこぼれていた。

 父と母の声が、今にも聞こえてきそうだった。


「私は、元気だよ」


 私は月にいる父と母に報告した。

 伝えたいことは沢山あったが、ほとんど言葉にならなかった。

 それでも、月の光に包まれていると、それだけで満足だった。

 まるで、父と母に抱かれているような、そんな感じ。

 忘れていた安らぎ。

 そして、私は久しぶりに涙を流した。


「・・・でも、寂しいよ・・・

 お父さん、お母さん・・・」


 搾り出すようにして、私は本当の心を吐き出した。



 しばらく、何事も無い毎日が続いた。

 康弘おじさんはあまり私の生活に干渉しなくなった。

 申し訳ないとも思ったが、それはそれで嬉しかった。

 学校の友達は相変わらず出来なかったが、他にすることがあるのだから、それでも別に構わなかった。

 忙しく動いて、何も考えずに毎日を送ることが私には一番だった。


「今度、僕の甥がここに居候したいと言ってきてるんだけどね」


 康弘おじさんがそう言った時、私は特に何も感想を持たなかった。

 ただ、私と二人きりの生活は、康弘おじさんには苦しいのかもしれないと思った。

 親戚の他人が一緒に暮らすことによって、私を意識しすぎることが無いように慮っているのかもしれない。

 或いは、少しでもこの家の中を賑やかにしたいと考えたのかもしれない。

 反対する理由は無かったので、私は賛成した。

 そしてその夜、私は父と母にそのことを報告した。


 その人の名前は、菅原敬太といった。


 敬太さんは、静かな、なんだかそのまま消えてしまいそうな雰囲気の人だった。

 最初に会った時から、私は敬太さんに少し興味を持った。

 自分でも気付かない間に、私は敬太さんに自分と似たような空気を感じ取っていたのかもしれない。

 そうでなければ、私は敬太さんがあの場所に来ることを拒絶しただろう。

 そして、あんな問い掛けをすることも無かっただろう。


「死ぬって、どういうことなんですか?」


 敬太さんが来て、家の中の空気がほんの少し変わったようだった。

 具体的に変わったことといえば、作る食事が三人分になったことと、洗濯物の量が増えたことぐらいだ。

 しかし、明らかにそれ以外の何かが変わっているように、私には思えた。

 ・・・そう、楽しい。

 毎日が、少しだけ楽しく感じられるようになってきていた。

 それはあまりにも長い間忘れていた、懐かしい感覚だった。


 だから、私は敬太さんが私に好意を持っているらしいことが、素直に嬉しかった。

 二人で月の光を見上げている時、私はとても幸せだった。

 その時がいつまでも永遠に続けば良いと思った。

 この世界に生きる喜び。

 父と母に、私はようやくこう報告することが出来た。


「今は、寂しくないよ」


 ・・・ただ、一つだけ気になることがあった。

 敬太さんは私を見る時、どこか遠くを見るような視線になる。

 まるで、私の向こうにいる別な誰かを見詰めているような。

 ひょっとしたら、敬太さんは私の中に誰かの面影を見ているのかもしれない。

 そう考えれば、敬太さんの私に対する不思議な態度も説明出来そうだ。

 その人は多分、もうこの世にはいない。


 あの、青白い月の大地にいる。

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