第二章 想い出
教室の中は、茜色に染まっていた。
遠くから、野球部の金属バットがボールを叩く音と、テニス部のラケットが硬球を弾く音が聞こえてくる。
放課後の学校の雰囲気が、私は好きだった。
午前中には沢山の生徒で溢れかえっているのに、今は怖いくらいの静けさに包まれている。
まるで自分の知らない、どこか別な世界の中に迷い込んでしまった気にすらなってくる。
卒業まで後一ヶ月に迫ったその日、私は中学生活で最大の決意を抱いて教室に残っていた。
アルバム編集委員の私は、卒業アルバムの最終構成のために居残りで作業を行っていた。
周囲は私が貧乏くじを引いたと思っていたみたいだが、私はアルバム委員になれたことがとても嬉しかった。
別にみんなの想い出作りの作業がやりたかったとか、写真やレイアウトが好きだったというのではない。
菅原君がアルバム委員だったのだ。
菅原君も、別になりたくてアルバム委員になったわけではないようだった。
元々あんまり口数の多い人ではなかったし、積極的にそんなクラスのための活動をするような人でもなかった。
中三の時のクラスは、お世辞にもまとまっているとは言いがたい感じで、皆委員会とかの仕事は押し付けあっていた。
私も菅原君も、そんなたらい回しの結果としてアルバム委員をやらされていた。
表面上、私は面倒臭いと言ってみせていたが、本当はそんなに嫌ではなかった。
むしろ嬉しくて小躍りしたいくらいだった。
そのことを知っているのは、親しい間柄の友人たちだけだった。
彼女たちは『これで卒業までに何か想い出作りが出来るね』などと言って私のことを囃し立てた。
しかし、実際にはそんなうまい話があるわけがない。
週に二・三度、教室に残って作業をしたり、各クラスのアルバム委員が集まって話し合いをするだけ。
別に特別なことなど何も無かった。
菅原君のことが気になりだしたのは、三年生になって少しした日のことだった。
クラスの大体の顔と名前を覚えたと思っていた頃に、私は教室の隅の方の席にいる彼のことに気が付いた。
がやがやと騒がしい昼休みの教室の中で、黙って一人で文庫本を読んでいる。
その光景が、なんだか周りから切り離されているようで、不思議な印象を受けた。
そして、その時、私は彼の名前を知らないことにようやく気が付いた。
クラスの連絡網を見るまで、私は菅原君の名前を本当に思い出せなかった。
毎朝出席を取る際に名前を呼ばれているはずなので、自分でも随分と失礼なものだとは思ったが。
それだけ彼は存在感が薄かったのだ。
少し気になって観察してみたが、別に友達がいないとか、性格が暗いというわけでもない。
休み時間に一人で本を読んでいることがたまにあるというだけで、それ以外は極普通の男の子だった。
ただ今まで、私の認識の外に居ただけ、ということのようだった。
どうして彼のことを空気のように感じていたのだろう。
そのことが、少しだけ私の心の中で引っかかっていた。
私は友達にそれとなく菅原君のことを聞いてみた。
すると、私の周囲も菅原君の存在を半ば忘れかけている状態だということが判った。
そうなってくると、私は菅原君に対して色々と興味を持つようになってきた。
空気みたいに気配や存在を感じさせない、それでいて確実に教室にいるクラスメート。
私は自分の中で彼を不思議な存在として扱っていた。
もちろん、現実にはそんなに不思議なことなんて何も無かった。
一緒にアルバム委員の仕事をするうちに、私は菅原君が普通の男子なのだと思うようになっていった。
ただ他の男子と違って、ほんの少しだけ優しい気がする。
乱暴な話し方はしないし、私の話も意見もちゃんと聞いてくれる。
彼に抱いていた幻想は消えてしまったけれど、私はすぐに彼のことが好きになった。
本を読むのが好きなのだということは、彼を見ていて良く知っていた。
私自身本を読むのは嫌いではなかったので、私は彼がどんな本を読んでいるのか興味があった。
最近読んだ本の話をしたりするのは、とても楽しいだろうと思ったが、そんな機会はほとんど無かった。
・・・私はそんなに積極的に男子に話し掛けられるような性格ではなかったのだ。
アルバム委員の仕事として割り切ってしまえば、菅原君はとても話しやすい人だった。
もし菅原君以外の人がアルバム委員だったなら、私は一言も口を聞くことが出来なかっただろう。
しかし、それ以外の雑談をしようとすると、どうしても無理だった。
私は元々男の子とあまり付き合いが無い。
考えてみたら、中学に入ってから男子と雑談をしたことは一度も無かった。
思い返してみて、私は自分が情けなくなった。
その日、私は今までの人生で最大の勇気を振り絞った。
もうすぐ私たちは卒業してしまう。
菅原君が通う高校は、私の行く高校とは別方向だ。
家もそんなに近いわけじゃない。
街中で偶然に出くわす以外に、もう菅原君と出会う機会は無くなってしまう。
いや、それどころか今このアルバム委員としての立場を失ってしまえば。
二度と話をすることも出来なくなってしまうかもしれない。
何かがしたかったわけではない。
デートがしたいとか、そんな想いがあったわけではない。
ただ、もう少し仲良くなりたかった。
男の子の友達がいなかった私にとって、たとえ仕事の上でだけであったとしても。
私の言葉を聞いてくれる菅原君の存在はとても貴重なものだった。
残された本当に少ない期間、菅原君と仲良くしたかった。
・・・たったそれだけのことをかなえるのに、私には沢山の勇気が必要だった。
もうすぐ今日の作業が終わってしまう。
茜色の世界の中で、カーテンが風に揺れている。
喉の奥に声を詰まらせたまま、私は顔をあげた。
目覚ましの音が聞こえる。
ベッドの上で、私はしばらくぼうっとしていた。
いつまでも自己主張を続けている目覚し時計を視界の隅に捉えたまま、夢と現実の境目を漂う。
しかし、それは長い時間は続かなかった。
「朝美!目覚まし鳴ってるよ!起きてるの!」
ドアの向こうから従姉の夏穂さんが怒鳴る声が聞こえてきた。
私は自分が急速に現実の世界に帰ってくるのを感じた。
ダイニングキッチンに出てみると、スーツ姿の夏穂さんが不機嫌に直立していた。
食卓の上にはトーストと焼いたベーコンとミルクが準備されている。
・・・夏穂さんの分は既に無くなっていた。
「朝美、あなた今日一限があるって言ってなかったっけ?」
言われてから、私はようやく自分の置かれている状況を思い出した。
時計を見ると、もう夏穂さんが出勤する時間だった。
「じゃ、起こしたからね。後は頑張れ。戸締りよろしく」
それだけ言い残して、夏穂さんはさっさと出かけていってしまった。
ぽかんとその後姿を見送ってから、私は慌てて朝食を喉の奥に押し込み始めた。
なんてことだ。
今日の一限目のことを、すっかり忘れていた。
ばたばたと着替えながら、私は時計に目をやった。
・・・これで間に合えば記録更新という時刻だった。
玄関を飛び出して鍵をかけると、私は一目散にバス停留所に向かって走り始めた。
ここから大学までは、バスと電車を乗り継いで一時間半弱。
ただし、電車の乗り換えがスムースにいった場合は、という厳しい条件付きだ。
夏穂さんのマンションはお世辞にも便利なところにあるとは言えなかった。
割安でお世話になっているのだから文句を言うわけにもいかない。
大体私よりも通勤時間がかかっているはずの夏穂さんは、無遅刻無欠勤だという。
・・・フレックスということもあるのだろうけれど。
高校を出て大学に行くことが決まった時、最初は一人暮らしをする予定だった。
ところが両親が突然一人暮らしに反対を始めた。
どうも私が住もうと思っていた地域の治安があまりよろしくないという噂を、どこかで聞きつけてきたらしい。
色々とすったもんだの問答を繰り返した果てに、一人でこちらで暮らしている従姉の夏穂さんのことが話題に上った。
夏穂さんが一人暮らしが出来ているのなら、私にも出来るだろうと私は訴えた。
しかし私は夏穂さんほどには信頼されていなかった。
夏穂さんの住んでいるマンションの近くに住んで、たまに様子を見に行ってもらう。
両親の提示した過保護な要求を飲むことで、私はようやく家から出ることが許可された。
そのことを夏穂さんに話したところ、なんと「面倒だから、私のところに来る?」という申し出を受けることになった。
夏穂さんの提案は、私にとってはまあ、嬉しくない、ということも無かったのだが。
正直、一人暮らしもしてみたかった。
なので、私としては丁重にお断りするつもりでいたのだが・・・
両親はすっかりその方向で話を進めてしまっていた。
「まああれだ。慣れるまでは私と一緒にいて、それから引っ越せばいいよ」
夏穂さんは笑ってそう言ってくれた。
一人暮らしに未練が無かったわけではなかったけれど。
夏穂さんは私の憧れの人でもあったので、同居させてもらえることはとても嬉しかった。
実際に外で生活をしてみると、一人暮らしというものが想像以上に大変であると判ってきた。
今ではいきなり一人から始めなくて、本当に良かったと思っている。
私だけだったら、ゴミの分別ですらまともに出来なかっただろう。
何でも魔法のようにこなしてしまう夏穂さんはすごい人だと、私は改めて思うようになった。
駅から降りて長い坂を登ると、私の通う大学に辿り着く。
大学に進学したのは、自分の将来のことをあまり深く考えていなかったからだ。
短大でも良かったのだが、なるべく沢山の時間が欲しかった。
社会に出て働くと言われても、私にはまだいまいちピンとこない。
まだ自分はモラトリアムなのだと思うし、それは私くらいの年代ではたいして珍しいことでは無いとも考えている。
自分が夏穂さんのようにバリバリと働く姿は、ちょっと想像出来なかった。
講義室に滑り込むと、授業が始まる直前だった。
周囲を見回してみると、後ろの方はほとんど席が埋まっていて座れそうに無い。
私は仕方無く、まだ空きのある講義室の先頭の方に向かった。
この講義はもともと別な学科で必修になっているものなので、混雑することは判っていたのだが。
もう五分早く来れれば良かったのに、と私は溜息をついた。
それにしても、知らない顔ばかりだった。
私と同じ学科の人は一人もいないようだった。
こんな朝一番の、興味も惹かれないような単位など履修するはずも無いのだろう。
私が前から二番目の席に付くと、すぐに教授がやって来た。
出席カードが配られ、本年度の一回目ということで、講義の概要と一年間の予定の説明が始まった。
前の方に座ってしまったために、私は当初の目的が果たせずにいてそわそわしていた。
本来なら、私はこの講義室の一番後ろの席に陣取っていた。
そして、講義を受けている学生の中に、例の人物がいるのかどうか、探しているはずだった。
入学式の時、何気なく眺めていた新入生名簿の中に見つけた、懐かしい名前。
菅原敬太。
その人物が、果たして私の知っている菅原敬太なのかを確かめたかったのだ。
茜色の教室で、私は最大の勇気を振り絞った。
他の人からしてみれば、それは全然たいしたことでは無いのかもしれない。
しかしその時の私にとって、それはまさしく清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要なことだった。
変に大きな声にならないか。
早口になってしまわないか。
上ずった感じになってしまわないか。
余計なことばかりが脳裏を掠めて、肝心の行動にどうしても移ることが出来ない。
今この機会を逃してしまったら、もう二度とチャンスは訪れないかもしれない。
自分自身にそう言い聞かせてみたが、逆に緊張ばかりしてしまって言葉が喉の奥に詰まってしまった。
そんなことをしているうちにも、時間は刻一刻と過ぎていく。
高々この程度のことで、一体何を手間取っているのだろうかと、もどかしく思われるかもしれない。
自分でも判ってはいる。
それでも、意識してしまうとどうしようも無く硬くなってしまうのだ。
後一分経ったら話し掛けよう。
後十秒経ったら話し掛けよう。
後もう一度カラスの声が聞こえてきたら話し掛けよう。
次に誰かが教室の外を通り過ぎたら話し掛けよう。
チャイムの鳴る五分前になったら話し掛けよう。
・・・きっかけは何度となく訪れて、何事も無く過ぎ去っていく。
たった二言三言の言葉を出すことが出来ないまま。
勇気を振り絞って、私は顔をあげた。
「あの・・・」
チャイムが鳴って、私は我に帰った。
教壇にはまだ白髪の教授がいて、聞き取りにくい声でモゴモゴと何かを喋っている。
知らない間に講義の終了時間になっていた。
私はどうやら先頭の席でしばらく居眠りをしてしまっていたらしい。
教授は気付いているのかいないのか、いつまでも何かを喋り続けていた。
講義室の扉から次の講義を受ける学生達が入ってくるのを見て、ようやく時間を過ぎているということを理解したらしい。
教授はよく判らない挨拶をした後で、ゆっくりと講義室を出て行った。
それを合図にして、講義室の中があっという間に喧騒に包まれた。
学生たちが一斉に席を立って、ぞろぞろと外に向かって歩き始める。
入れ替わりに、次の授業のために外で待っていた学生たちがなだれ込んでくる。
物凄い混雑と喧騒の中で、私は慌てて彼の姿を探した。
しかし、どう足掻いても一人の人間を探し出すことなど到底出来そうに無い状況だった。
出口に向かいながら、それでも私は出来る限り周囲に気を配ってみた。
結果は、もたもたしている私が何度か知らない人に激突しただけだった。
講義室の外に出て太陽を見上げていると、なんだかどっと疲れがこみ上げてきた。
一体何のために退屈な朝の講義に出たのか。
我ながら情けなくなった。
そもそも、名前が同じだからといって、その人が私の知っている菅原敬太であるとは限らないのだ。
ありふれた名前ではないかもしれないが、それほど珍しい名前でもない。
数千人を越える学生がいるこの大学の中に、彼と同じ名前の人物が一人二人いたところで不思議はないだろう。
むしろ、それが私の知っている菅原敬太である確率の方が低い。
無理に彼かどうかを確認することに、果たしてどれだけの意味があるというのか。
講義室を出たところで、私は鞄の中にある文庫本にそっと触れてみた。
ざらついた感覚が指を刺激する。
懐かしさが腕を伝って、私の心に直接語りかけてくる。
確かに、私の知っている菅原敬太とはもう会えないかもしれない。
でも、もしここにいるのがあの菅原敬太なら。
私は彼にこの本を返さなければならない。
あの時から、ずっと私の手元にあったこの本を。
それは彼ともう一度話すための、苦しい言い訳に過ぎない。
そんなことは十分に判っている。
今更この古びた文庫本を返されたところで、彼は戸惑うだけだろう。
既にこの本のことも、私のことも忘れ去っているかもしれない。
だとすれば、それはとても悲しいことだが、それならそれで諦めがつけられる。
たとえどんな内容であっても、言葉を交わせるだけで私には満足なのだから。
「菅原君って、いつも本を読んでいるよね」
茜色の世界で、私の声はいつもよりもずっと大きく聞こえた。
言葉にしてから、私はすぐに後悔した。
もっと他の言い方は無かったのだろうか。
これでは私が彼のことを変に思っていると誤解されないか。
頭の中を、様々な思いがぐるぐると駆け巡る。
彼が口を開くまでに数秒も無かったのだろうが、私にはその間が何時間にも感じられた。
「んー、そんないつもって感じかな?」
「休み時間とか、大体読んでるじゃない?」
またもや、私は激しい後悔の念に押し潰されそうになった。
これでは休み時間のたびに彼のことを意識して見ているみたいではないか。
落ち着こうとすればする程、泥沼の中にずぶずぶと沈みこんでいく。
私は自分のふがいなさに涙が出てきそうになった。
彼に変な子だと思われるようになったら、どうしよう?
パニックに拍車がかかり始めたが、私はとにかく表情にそれを出さないようにするので精一杯だった。
「そうだっけ?まあ、確かに今月はもう十冊くらい読んだけど」
「十冊!すごい!」
なんだか声が裏返ってしまっている。
恥ずかしさのあまり、私は思わず赤面してしまった。
一体何をやっているんだろう。
他愛も無い会話一つするのに、こんなに緊張しているなんて。
高校の面接試験でもここまで緊張はしなかった。
私は自分の行動がなんだか漫画みたいだと思った。
「最近はそんなに難しい本は読んでないから。童話とか・・・」
そう言うと、彼は一冊の文庫本を取り出した。
制服のポケットに入れていたらしい。
ポケットに文庫本。
なんだか私とは無縁の世界を垣間見た気分だった。
最近自分が読んだ本って何だっただろうか。
ティーン文庫の、イラストが可愛かったやつ。
内容は良く覚えていない。
「宮沢賢治の短編集だよ」
聞いたことのある名前だな、と思ってから、私は自分が馬鹿じゃないかと思った。
教科書でも何度か見たことがある、有名な童話作家だ。
小学校の頃、『よだかの星』を読んだことがある。
あと、『注文の多い料理店』だったか。
他に何か有名なものがあったと思ったのだが、どうしても思いつかない。
「ほら、『銀河鉄道の夜』とか」
それだ。
彼は楽しそうに宮沢賢治の話をした。
残念なことに、私はそのうちの一割も話の内容を理解出来ていなかった。
でも、彼が話をしている様子を見ることが出来て、それだけで満足してしまっていた。
私の顔を見て、楽しそうにしている。
それ以上の幸せなんて無かった。
緊張と興奮と混乱のせいで、私はもう何も考えられなくなっていた。
だから、彼が手に持っている文庫本を私に差し出してきた時、何が起きているのかまったく判っていなかった。
「貸してあげるよ」
私はその本を、うやうやしく受け取った。
新品の文庫本。
それから、私は何度もその本を読み返した。
『グスコーブドリの伝記』を。
『オツベルと象』を。
『貝の火』を。
『さいかち淵』を。
私は自分の知らない新しい世界を見た気がした。
クラスの喧騒の中で、私が友人たちと何処か単調な毎日を送っている間に。
彼はこんな不思議な物語の世界を旅していたのだ。
彼が羨ましいと思った。
私に無い、私の知らないものを知っている彼を。
自分の中で、私は彼が特別なものになっていくのを感じた。
その気持ちが何なのか、私は陳腐な言葉一つでそれを片付けるつもりにはなれなかった。
卒業式の日、いくつかのトラブルと偶然が重なって、私は彼に会うことが出来なかった。
彼に返そうと思っていた文庫本は、それからずっと私のお守りのように鞄の中に常備されるようになった。
辛いこと、悲しいこと、苦しいことがあると、私はその本を読み返した。
茜色の教室での想い出を、私は何度となく夢に見た。
彼の笑顔と、差し出された文庫本。
自分にとってあの日の出来事は、とても特別なことになった。
今彼と再会することは、果たして幸せなことなのだろうか?
私は何度と無く自問した。
想い出は、そのままである方が良いのかもしれない。
もうあれから五年の歳月が流れている。
中学を出てから、私は一度も彼には会っていない。
噂ですら聞いていない。
もう私には想像もつかないくらい変わってしまっているかもしれない。
私の知っている彼は、この文庫本の中にだけいる。
一つ溜息をつくと、私は学生会館の方に足を向けた。
そこで大学で知り合った友人たちと待ち合わせをしていた。
彼女たちには、私が何故この授業を履修するのかは話していない。
話したところで食いものにされるのが目に見えている。
高校の時も、私は彼のことは友人には一切話さなかった。
いちいち藪をつついて回る必要は無い。
多分このまま、誰にも話すことは無い。
私だけの、静かな想い出であってくれればいいのだ。
私は顔をあげた。
そして、硬直した。
気付かないまま、彼は私の脇を抜けていった。
私は振り向けなかった。
振り向くのが怖かった。
もしそこで、彼がこちらを向いていたらどうしよう。
その時、彼はどんな目をしているだろう。
考えるだけで、私はあの時の放課後のような緊張感に襲われた。
凍りついたみたいに、私はその場に立ち尽くした。
何も考えられない。
いや、何かを考えたら、それだけで壊れてしまう。
足音が遠ざかっていく。
安堵と、後悔とが螺旋のように私の中で渦を巻いている。
私の勘は当たっていた。
人違いの可能性が全く無くなったわけではない。
いや、見間違えるはずなど無い。
ようやく、私は振り返ることが出来た。
もちろん、そこにはもう彼の姿は無い。
彼の消えた方に向かって、私は一つ息を吐いた。
「久しぶり」
口の中で小さく呟いてみる。
その言葉はきっと届かないだろうけど、私にはそれが精一杯だった。
心の中が騒がしいような、それでいて安らぐような。
知らない間に、私は鞄の中の本を強く掴んでいた。
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