白の断章

NES

第壱章 時の捕囚

 叔父の家に行ったのは、その日が初めてだと思う。


 高校を卒業したら、最初から家は出て行くつもりだった。

 父を一人で残していくことはいささか不安ではあったけれど、僕はいつまでもあの家に残っていたくは無かったのだ。

 僕が玄関から外に出ても、父が見送りをしてくれる様子はなかった。

 それどころか、僕と顔を合わせようともしなかった。

 この家と共に、父は少しずつ壊れてきてしまっている。

 多分、もう元に戻ることは無いのだろう。


 電車に揺られながら、僕は極力父と、あの家のことを考えないようにした。

 これから始まる生活のこと、大学のこと。

 とにかく、前向きに楽しいことばかりを考えようとした。

 ・・・それでも、何故か涙を止めることが出来なかった。


 僕は、父を見捨ててあの家から逃げ出したのだ。

 母がいなくなったあの日から、父は静かに自分の殻の中に閉じ篭り始めた。

 父がどれだけ母に依存していたのか、僕には推し量ることが出来ない。

 ただ一つ判っていることは、僕は父にとって母以上の存在にはなりえないということだった。

 そんな父の姿を見続けていくことは、僕には耐えられなかった。



 叔父の家は、静かな山間の街にあった。

 都市のような場所を想像していた僕にとって、それは少し意外だった。

 小さな駅で降りて、十分ほど歩いた静かな住宅街。

 僕の新しい我が家になるところは、そこにあった。


 叔父という人を、実は僕はあまりよく知らなかった。

 昔、まだ僕が小さかった頃に会ったきりなのだという。

 母に連れられて、この叔父の家に来たこともあるらしい。

 しかし、今の僕にはその時の記憶がまるで無い。

 叔父がどんな人物なのか、どんな風貌だったのか。

 全く思い出すことが出来なかった。


 そんなほとんど面識も無い叔父の家に世話になることに決めたのは。

 やはりどうしても父から、あの家から離れたかったからに他ならない。

 叔父がたとえどんな人物であるにせよ、今までの生活に比べれば遥かにましなものだと思っている。

 僕の精神は、それほどまでに追い詰められていた。


 呼び鈴を押すと、しばらくして玄関の戸が開いた。

 そこに現れた人物を見て、僕は一瞬身体を硬直させた。



 ・・・赤い部屋。


 赤い部屋の中で、僕は古びた木の椅子に腰掛けていた。

 目の前には、やはり木製の小さな丸いテーブルがあった。

 テーブルの上に何かが置かれている。

 それが何なのか、僕は椅子に座ったまま、目を凝らしてよく見ようとした。

 白い、芋虫のような何か。

 手を伸ばして、それに触れようとする。

 僕の手は、何故か微かに震えていた。



「どちらさまですか?」

 そう声をかけられて、僕はようやく我に帰った。


 玄関の扉の隙間から、小柄な人影が顔を覗かせていた。

 小学校中学年くらいだろうか。

 ほっそりとした、線の細そうな少女だった。


 少女の黒い瞳を見た時に、僕はほんの少しの間思考を失っていたらしい。

 どうしてだろう。

 この少女には、何か不思議な印象を覚えた。

 まるで、昔どこかで会ったことがあるような。

 懐かしさに似た感覚。


「えっと、菅原敬太って言います。叔父の康弘はいらっしゃいますでしょうか?」

 僕の言葉を聞いて安心したのか、少女はドアを大きく開け放ってくれた。

 少女の全身が見えて、僕はほんの少し胸が高鳴った。


 白いワンピースを着た少女の身体は、まるで体重を感じさせなかった。

 気体のように、その場にふわふわと滞留しているみたいだ。

 長い黒髪が、その表面を撫でるようにして覆っている。

 僕にはこの少女が、この世のものだとは思えなかった。


「伺っています。いらっしゃいませ、敬太さん」

 少女は軽く頭を下げてみせた。

 黒髪が揺れる。

 僕の中で、また何かがゆっくりと頭をもたげ始めた。

 ・・・遠い記憶。

 やはり、僕はこの少女を知っているのだろうか。

 でも一体いつ、どこで出会ったというのか?


「君は・・・」

 思わず口からこぼれた言葉に、少女は軽く微笑んでみせた。

 何気ない仕種なのだろうが、僕にはそれがひどく懐かしく感じられた。

「ごめんなさい。

 私は康弘さんにお世話になっている、如月沙夜香といいます」


 如月沙夜香。

 僕はその名前を知らない。

 僕の知っている彼女は、そんな名前ではなかった。


 ・・・僕の知っている?

 僕は一体誰のことを言っているのだろう?

 古い記憶が、脳の片隅でくすぶっている。

 思い出そうとしても思い出せない。

 ・・・いや・・・


 思い出してはいけない・・・


 何故そう思ったのか、僕には判らなかった。

 沙夜香は不思議そうに僕の方を見詰めている。

 僕は曖昧な笑みを浮かべてみせた。

「よろしく」

「よろしくおねがいします」

 沙夜香の言葉は、僕の耳に心地よかった。

 ほんの少しだけ、僕は母のことを思い出した。



 叔父が仕事から帰ってくるまで、あと数時間ほどあるらしい。

 沙夜香に案内されて、僕は今日からお世話になる家の門をくぐった。

 僕の部屋は二階。

 フローリングの、六畳の洋間だった。


 先に送っておいた荷物が、部屋の中でポツンと僕を待っていた。

 中くらいのダンボール箱が、二つ。

 もともと、そんなに多くのものを持ってくるつもりは無い。

 あの家の匂いは、なるべく持って来たく無かったのだ。


 荷物の整理は、思ったよりも早く終わってしまった。

 がらんとした室内に一人でいると、妙に物悲しい気分になってきた。

 明日から、少しずつ物を増やしていった方が良いかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕はベッドの上に寝転がった。


 耳が痛くなるほどに、辺りは静かだった。

 車の通る音も、人の話し声も聞こえてこない。

 良く耳を澄ますと、微かに木々のざわめく音が耳に入ってくる。

 窓の外に目をやると、家の裏は雑木林になっているようだった。

 草の匂いが微かに鼻腔を貫いて、僕はふと故郷の森を思い出した。

 クヌギの林を抜けると、別荘が立ち並ぶ区画に出る。

 綺麗な白い壁の建物やログハウスが立ち並ぶ、まるで異国のような雰囲気を持つ場所だ。



 気が付くと、僕は緑色の部屋の中にいた。


 僕は赤い部屋にいた時と同じように、古びた木の椅子に腰掛けていた。

 天井を見上げると、無数の眩しいライトが点いているのが見える。

 何処か遠くから、水の流れる音が聞こえてくる。

 それを探そうと視線を彷徨わせると、僕は初めて、自分の正面に一人の少女がいることに気が付いた。

 僕と同じように、古びた木の椅子にちょこんと腰掛けている。

 白いワンピースを着て、自分の足元を見るようにしてうつむいて。

 地面に届かない両足を、ぶらぶらと所在無げに揺らしている。

 長い黒髪のつむじだけが、やけにはっきりと見えていた。


 彼女の名前を、僕は良く知っていた。

 名前を呼べば、彼女は顔をあげてくれるだろう。

 だが、彼女の名前は、どうしても出てこなかった。

 絶対に知っているはずなのに、言葉にすることが出来ない。

 少女は下を向いたまま、じっと揺れる自分の両足を見詰めている。

 僕が彼女の名前を呼ばない限り、ずっとそうしているのだろう。

 そのうちに、僕は胸が苦しくなってきた。


 早く名前を呼ばなければ、もう二度と彼女には気付いてもらえない。



「敬太さん」

 沙夜香の声がして、僕はベッドの上で目を覚ました。

 部屋の中は薄暗い。

 もう夕方のようだった。


 僕は慌てて身を起こすと、部屋のドアを開けた。

 沙夜香が、僕の顔を見上げていた。

「もうすぐ康弘おじさんが帰ってきます」

「わかった、ありがとう」

 半ば寝ぼけたまま、僕は何とかそう応えた。


 僕はまだ向こうでの生活から抜け切れていないのだろうか。

 一階の居間でテレビを見ながら、ぼんやりとそう考えた。

 沙夜香は夕食の支度をしているらしい。

 この家の家事は、どうやら彼女の担当であるらしかった。

 ・・・叔父の康弘とは、どういう関係なのだろうか。

 僕はなんとなく沙夜香本人にはそのことが聞けないでいた。


 そもそも叔父がどういう人物なのか、僕には良く判っていない。

 父の弟ということなのだが、早々に家を飛び出してしまって、今でも実家とはほとんど連絡を取っていない。

 今回僕が大学に通うため下宿したいと申し出た時も、ほとんど二つ返事で了承して、会話らしい会話を交わすことも無かった。

 ・・・よくよく考えてみれば、我ながら無茶なことをしているものだ。


 叔父は独身だと聞いていたが、すると沙夜香とは一体どういう関係なのだろうか。

 或いは、叔父には以前結婚していたという経歴があるのかもしれない。

 ・・・しかし、沙夜香は『康弘おじさん』と呼んでいた。

 改めて考え直してみると、なんだか色々と疑問が多い。

 しかし、それも本人と会ってみればすぐに消えてしまうようなものなのだろう。

 台所に立つ沙夜香の小さな背中を眺めながら、僕はぼんやりとそう考えた。


「ただいま」

 玄関のドアが開く音がして、髭面の男が入ってきた。

 どことなく、父に似た印象を受ける。

 叔父の康弘に間違いないだろう。

 僕はかしこまって挨拶した。

「こんにちは、敬太です。今日からお世話になります」

「ああ、敬太君、大きくなったねえ。今日からよろしくね」

 叔父はにっこりと微笑んでそう応えた。


 叔父は、父とそれほど年が離れていないはずなのだが、随分と若く見える。

 三十代だと言われても恐らく信じてしまうだろう。

「おかえりなさい、康弘おじさん」

「おう、ただいま、沙夜香」

 叔父は終始朗らかに笑っている。

 そんな様子を見て、僕は正直少し安心していた。

 もし叔父が父に似ているのならば、もっととっつきにくい性格だろうと思っていたからだ。


「何か判らないことがあったら、遠慮せずに聞きなさい。

 ああ、でも家のことは私より沙夜香に聞いた方が良い。そっちはほとんど沙夜香に任せっきりだからね」

 気さくにそう言うと、叔父は沙夜香の方を一瞥した。

 僕がそちらに目線を向けると、沙夜香が小さく頭を下げてみせた。

「さあ、夕食にしようか」

 妙に弾んだ叔父の声で、夕食になった。


 ・・・結局、その場では叔父から沙夜香がどういう事情でこの家にいるのか、聞き出すことは出来なかった。

 ただ叔父も沙夜香も、どこかお互いに一歩引いたしたような、何処か他人行儀な接し方をしている印象を受けた。

 少なくとも、肉親という関係には見えない。

 だとすると、養子になるのだろうか?

 いずれ、判ることだろう。

 僕はそのことについて考えることを保留した。



「敬太君、お父さんに無事に着いたと連絡しておきなさい」

 夕食を食べ終えた後で、叔父にそう告げられた。

 しなければならないと、判ってはいたのだが。

 僕はそのことを意図的に忘れていた。

「わかりました」

 そうは応えてはみたものの、やはりあまり気乗りはしなかった。


 廊下に置かれた電話の前で、僕はしばらく立ち尽くしていた。

 電話線を通して、故郷にいる父の声を聞くこと。

 たったそれだけのことが、僕にはたまらなく嫌だった。

 父の声を聞くだけで、あの家の冷たくどんよりとした空気に触れられるような気がするからだ。

 あの家のことは、もう思い出したくない。

 意を決して、僕は受話器を手にとった。

 指がひとりでに番号をプッシュする。


 無機質なコール音が聞こえるたびに、僕はあの家で電話のベルが鳴り響いている光景を想像した。

 考えるだけで陰鬱な気分にさせられる。

 そろそろ諦めようと思った時、フックのあがる音がした。

 ・・・喉の奥に言葉が詰まる。

 電話に出る人物は、一人しかいない。


「はい、菅原です」

 父の声。

 最後に父の声を聞いてから、まだ丸一日と経過していないはずなのに。

 何故か僕はそれを懐かしいと感じていた。

「敬太です・・・無事に着きました」

 なんとか、それだけの言葉を僕は吐き出した。

「ああ、そうか」

 父もまた、それだけ応えて沈黙した。


 しばらく、僕は無音の受話器を握り締めていた。

 ・・・父と語るべき言葉など、何も残されてはいない。

 それは父にとっても同じことだろう。

 僕は無言のまま、受話器を置こうとした。

 もうこれで、父との会話は打ち切りにしたかった。

 何かを口にすれば、そこからほころびが大きくなる。

 そんなことの繰り返しは、終わりにしたかったのだ。

 受話器が置かれる寸前に、父が言葉を発した。

 小さなその声は、何故か僕の耳にはっきりと届いた。


「・・・ここは、寒い」


 物言わぬ電話機を、僕はじっと見詰めていた。

 父は何を伝えようとしたのか。

 理解出来るような気もしたし、全く判らなくもあった。

 多分、父は僕と同じような苦しみを感じているのだろう。

 あの時から壊れ始めていたのは、父だけではない。

 僕もまた、静かに崩壊を始めていたのかもしれない。



 部屋に戻ってから、僕は何もする気が起きなかった。

 来週から始まる大学のために、色々とやらなければならないことはあるのだが、一向に手がつかない。

 諦めてベッドに横になると、僕はぼんやりと天井を見上げた。

 ふと、沙夜香の顔が脳裏に浮かんだ。


 沙夜香が席を外している時に、それとなく叔父に聞いてみた。

 彼女は、やはり叔父が引き取った養子であるということだった。

「古い友人の娘なんだよ」

 少し寂しそうに叔父は語った。

 養子として引き取ることには色々と揉め事もあったが。

 最終的には、沙夜香自身が叔父の下に来ることを望んだということだった。


 沙夜香の親である『古い友人』については、叔父は何も言及しなかった。

 男性なのか、女性なのかも判らない。

 ただ、叔父にとってはとても大切な人であったことに間違いは無い。

 叔父が『古い友人』という言葉を口にする際、叔父は過去を懐かしむような、暖かい表情を浮かべていた。

 沙夜香を引き取って育てるということは、叔父にとっては特別な思い入れのあることなのだろう。


「もちろん、敬太君のことも大事だよ。兄さんの一人息子なんだから」

 僕に気を遣ったのか、叔父は後でそう付け加えた。

 その気遣いは僕にとっては逆効果なのだが、とりあえずその場では微笑んでおいた。

 叔父は、楽しそうな見た目とは裏腹に、なんだか複雑な過去を持っているのかもしれない。

 特に根拠があったわけではないが、僕にはそう感じられた。


 風が吹いて、窓の外で雑木林が激しくざわめいた。

 ベッドから降りると、僕はカーテンを開けて外の風景を眺めてみた。

 月の光に照らされて、外は思ったよりも明るかった。

 木々が黒いシルエットとなって、ざわざわと蠢いている。

 生き物の脈動を思わせるその様に、僕はしばらく見入っていた。


「・・・?」

 どのくらいの時間が流れただろうか。

 数分か、いや実際には数秒しか経っていなかったかもしれない。

 僕は何処かからの視線を感じた。

 後ろを振り返ってみたが、当然室内には僕しかいない。

 窓の外に向き直ると、僕は注意深く家の周囲をうかがった。


 視線の主は、庭先にいた。

 僕を見上げているのは、白い淡い光。

 広がった黒髪が、月の光を受けてきらきらと輝いている。

 沙夜香だ。

 こんな時間に、一体どうしたというのだろう。

 沙夜香はしばらく僕と窓ガラス越しに見詰め合っていたが。

 やがて、ふいと踵を返すと、庭を横切って雑木林の中に消えていった。


 何処に行くのだ。

 僕の胸の中に、言いようのない不安が広がっていった。

 もうかなり遅い時間である。

 裏の雑木林は、ここからでは街灯の類も何も無い、巨大な暗闇にしか見えない。

 果たして、そこに何の用があるというのだろうか。

 叔父はこのことを知っているのだろうか。

 様々な疑問が僕の中で湧き出し、そして、僕は部屋を出た。

 当然、彼女の後を追いかけるためだ。



 雑木林の中は、思ったよりも暗くなかった。

 枝の隙間から差し込む月の明かりが、足元を淡く照らし出している。

 沙夜香が何処に向かったのか、僕には知る由もなかった。

 だが、僕の足は自然に動いていた。

 まるで、僕には無意識のうちに彼女の目指している場所が判っているかのようだった。


 どれだけ歩いただろうか。

 小さな広場のような空間に行き当たった。

 突然視界が開けて、頭上に大きな月が輝いている。

 木の生えていないその広場の中心に、沙夜香が膝を抱えて座っていた。

 全身に月の光を浴びている彼女は、まるで光の膜に包まれているみたいだった。


「・・・沙夜香ちゃん?」

 恐る恐る、僕は沙夜香に話し掛けてみた。

 空を見上げていた彼女の視線が、ゆっくりとこちらに向けられた。

 沙夜香は、微笑を浮かべていた。

 この場所に僕が来ることを予想していたのだろうか。

 僕は待ち合わせに遅れてしまったような、そんなバツの悪い感覚に襲われた。


 沙夜香の隣に、僕はそっと座った。

 その間、沙夜香は一言も喋らなかった。

 なんとなく、僕にはその理由が判ったような気がした。

 ここには、言葉は似合わないのだ。

 人の声は、ここにある全てをたやすく壊してしまう。

 沙夜香はこの静かな月光の世界を気に入っている。

 そして、僕をここに受け入れてくれたのだ。


 この場所の価値が判らない無粋な人間であるなどとは、僕は思われたくなかった。

 だから、黙って彼女と一緒に月を見上げた。

 風が吹くたびに、僕達の見上げる空の輪郭がざわざわと揺らめいた。

 夜空はまるで水面のようだった。

 月は水中の光。

 優しく、包み込んでくれるような冷たい光。


「敬太さん」

 沙夜香の声が聞こえた。

 僕にはその声が、本当に沙夜香の口から出たものなのか、自信が持てなかった。

 風の音が僕に幻聴をもたらしたのではないかと、そう思わせるような声だった。

 だから、僕は応えなかった。

 応えずに、次の幻聴を風が運んでくるのを待った。


「死ぬって、どういうことなんですか?」



 僕は緑の部屋の中にいた。

 目の前には、白い服を着た少女が座っている。

 ライトが動いているのだろうか。

 彼女の膝の上で、影がゆっくりと蠢いている。

 それはまるで大きな芋虫の群れのようで、どことなく不快感をもよおさせた。


 彼女の名前を呼ぼうと、僕は口を開いた。

 しかし、知っているはずの名前はどうしても出てこなかった。

 胸が苦しくなる。

 こんなにはっきりと覚えているのに、どうして言葉にすることが出来ないのだろう。

 悔しさのあまり、僕は涙が出そうになった。


 うつむいた少女の背後に、僕はその時初めて扉があることに気が付いた。

 木製の、どっしりとした扉には、金色のぴかぴかの取っ手が付いている。

 僕はその扉を見た途端、全身に悪寒が走るのを感じた。


 あの扉の向こうに、赤い部屋がある。


 赤い部屋がある。

 直感的にそう感じた。

 恐怖が次から次へとこみ上げてきた。

 そこは覗いてはいけない。

 入ってはいけない。

 中にあるものを見てはいけない。

 そうすれば、僕は・・・


 僕は、思い出してしまう。


 思い出してはいけないことを。


 彼女の、名前を。



 その夜のことを、僕は良く記憶していない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る