第六章 求める者、与える者

 夏の暑い日だった。

 アストラルは、頬に汗が伝うのを感じて、手元にあった綿布を手に取る。汗が伝うのは、暑さのせいだけではないかもしれない。

 彼は、冊子をテーブルの上に置いた。ミザリーンが訳してくれた、例の手記だった。

 彼女には、定期的に来て欲しいと言ってあった。

「どう思う?」

 アストラルが汗を拭く様子を見ながら、ミザリーンは尋ねた。

「どうもこうも、信じられないとしか」

「そうよね」

 ミザリーンは出された茶菓子に手を延ばしながら、呟いた。

「私だって知らなかったわ。ひょっとしたら、これは、凄いことを伝える手記なのかもしれない」

「ひょっとしなくても、そうなんじゃねぇのか?」

「そうかもしれない。真実であればね。でも、真実か否かを伝える手段なんて、もう何処にも残っていないの。せいぜい、仮説のひとつね」

 嘆息するミザリーンの表情に目をやりながら、アストラルは綿布を戻して、桐の箱をテーブルの上に置いた。

「父親の日記を取り出すってのも、あんまり気分よくはないな」

 箱の中に保管されていたのは、父ハディートの綴った日記帳だった。何冊もあるそれは、長年つけられていたことを物語る。

「何かわかったの?」

「余計にわからなくなった、かな。この日記は親父が祖父さんの跡を継いだ後から書き始めて、書斎に保管していたらしい」

 アストラルは、箱の中の日記帳を丁寧に取り出した。ミザリーンは、固唾を飲んで見守っている。

「手記のことなんだけど、これはお袋が元々持っていたものらしいんだ」

「おば様が?」

「俺が生まれる前のあたりによると、お袋は出会った時から持っていたらしいんだ。それが何故なのかは、どこにも綴られていない。親父が気になってる様子は書いてあったけど。

 で、ここだ。お袋が親父に『約束通り』手記を渡したんだ。……三年半前、お袋が倒れたのと、ちょうど同じ時期に」

 アストラルは首を振った。ミザリーンが、屈むようにして見ていた日記帳から顔を上げた。

「どう言うことなんだろうな。わかるのは、この手記は二十年以上お袋が持っていて、病気で倒れてから、親父が受け取ったってことだ」

 彼女は少し考えてから、怪訝な表情を浮かべて首を傾げた。

「おば様の形見の品、にしては何か変ね」

「そうだよな。親父だって学者だ。この手記の存在を知っていながら、手を伸ばそうとしないだけでおかしいんじゃないかって思う」

「それに、約束って何のことかしら? 書いてないの?」

「日記には書いてない」

「そう。なら調べようがないわね。マリウスさん、手記の存在も知らなかったみたいだし」

 父が母と出会って一年後に、祖父が事故で死んだ。それから五年後に父が家督を継ぎ、同時に母と結婚した。この時既に母はアストラルを身籠っていて、半年後にアストラルが生まれた。

 つまり、二十五年以上前から、母は手記を持っていたのだ。

 いつから母の手にあったかは定かではないが、父は母と出会った時からその存在を知っていた。そして、夫婦の間には、何かの秘密があった。最大の信頼を置いていた執事にも、息子たちにも告げず、日記にさえ書かなかった、秘密が。

「お袋は、少なくとも十六歳の頃からこれを持ってたんだよな。一番ありそうなのは著者の子孫とかがお袋ってことなんだけど、実はお袋側の親族のことって何もわからないんだ。だから結婚式にも葬儀にも呼べなかったってマリウスが言ってた」

 父の失踪とこの手記に関連があるかはわからない。

 母が倒れてから、手記が手渡され、日記が綴られていない日が増え始め、死んでから葬儀の日まではひとつも書かれていない。気付かなかっただけで、父の精神はどこかで綻んでいたのかもしれない。塞ぎ込んでいたとマリウスが言っていたが。

 アクレイアとは、あれから会っていない。ミザリーンも知らないと言う。別邸にいるのだろうから、深くは気にしていないが、失踪前に最後に父に会ったのは弟のはずだ。

「わからないわね」

 謎が謎を呼ぶだけで、アストラルの求める答えも、ミザリーンの求める答えも、ひとつも見つかっていなかった。


 アストラルが子供の頃に何度も訪れていた場所が、本邸の離れにあった。

 そこには、望遠鏡があった。子供の頃、アストラルはよく夜にここに来て星を見に来ていた。

 一度だけ、夜に抜け出して、父に摘み出され、叱られたことがある。

『次から、星を見たい時は、必ず父か母のどちらかを連れて行くように。ひとりでは行くな。星のことなど私にはわからぬが、息子たるおまえのためならば、どれほど忙しくともこの母は必ず力になってやると約束するぞ』

 母に、きつく言われたが、尊大な口調の中に眠る確かな愛情は、当時から伝わっていた。

 星を見に行くことを否定されたわけではないことを、少年だった彼は喜んだ。離れに置いてある機材は、子供には扱いきれない大きなものばかりだったから尚更ひとりで行かせてくれなかったと気付いたのは、少し成長してからだった。

 初めに彼を連れて星を見せたのは父で、要するにアストラルが抜け出すきっかけを作った張本人である。実は父も息子が星に興味を持ったことを喜んでいたのは、最近になって日記を読んで知ったことだった。弟と違い、読み書きをはじめとする勉学を嫌った彼が初めて興味を持ったのが、星の名前や観測だったのだ。

 離れで父と星を見に行くようになったアストラルは、父から様々なことを話してもらった。まだ子供だった彼には難しい話も少なくなかったが、その時間は楽しみだった。

 アストラルが五歳の時からアクレイアも一緒に行くようになったが、彼は医学に興味を持ったので、一年と続かなかった。

 七歳の夏の日に、父が見せたい星群があると言ってきた。父から望遠鏡のある離れに連れて行きたいと言い出したのは、それが最後だった。

 それは、アストラルが生まれる前に父が発見した星群だという。父が自分でその名前を付けている。その美しい星群の姿を、アストラルはよく覚えていた。

『父さんが見つけた星群、綺麗だね。何て名前なの?』

『あれは、パレファディア星群、だ』

 そう答えた父は、何故か少し照れ臭そうに笑っていた。

 父の態度の真相を知ったのは、翌日のことだった。マリウスに尋ねたところ、彼は笑いながら教えてくれた。「パレファディア」とは、結婚する前に母が名乗っていた姓なのだと。

 彼女の名であるセイルの名前を付けるのが気恥ずかしくて珍しい姓を選んだというのに、姓でさえ照れ臭かったのだろう。

 父は存外、照れ屋な男のようだった。

 しかし、笑いながら答えた、その優しい眼差しは、今でも忘れることができない。


 遡ること十日前。

 アストラルがこの、父との思い出が詰まる望遠鏡のある小さな離れに久々に訪れたのには、理由があった。

「近いうちにここで星を見せたい奴がいるんだけど、呼んどいてくれないかな」

 アストラルは丁寧に掃除が行き届いた離れを見て、望遠鏡が昔のように使えることを確認してから、マリウスに尋ねた。

「承知いたしました」

紅玉ルビーの月二十九日だ。都合を聞いて、馬車を用意してほしい」

「恐れながら。その方は、現在はご都合が悪いと言うことはなかろうかと存じますが」

 アストラルは苦笑した。

 まだ誰だかも言っていないと言うのに、この老執事め。全部わかっていたのか。

「食えない奴だな、マリウスは」

「何をおっしゃいます。畏れ多くもお父上のお背中を押したのは、この私めでございますぞ」

「本当に、食えない奴だ」

 アストラルは、思わず声をあげて笑い出した。

 両親の結婚は、恋愛結婚だった上に相手が家柄も地位もない母だった。それは名家では珍しいことで、躊躇いや反対があっても無理はない。それを取り持つとは、全く本当に食えない執事である。

「ところで、何故今月の二十九日に?」

 マリウスが、ややあって尋ねた。

「……ある星が観測される日なんだ」


 その、来る紅玉ルビーの月二十九日。

 この日に、アストラルはミザリーンを呼んでいた。

 丁寧に馬車を手配したこともあって、彼女はどういう風の吹き回しなのかとぼやいていたと、来訪を告げたマリウスが言っていた。遺跡を飛び回る彼女にとって、その距離は歩くのに何の苦もない距離だったのだ。

 アストラルはいつものように彼女を居間で迎え、それから手記についての話をした。この手記の存在が、いっそありがたかったように思える。

「アストラルお坊っちゃま。そろそろ時間にございます」

 マリウスが、扉を開けて伝えた。既に陽が沈んでいた。

「あら、もうこんな時間なのね。思ったより長居してたのかしら。そろそろ帰らなきゃ」

 ミザリーンは窓から見える外の暗さに目をやった。

 本当は気付いていたはずだ。アストラルが呼んだ時間がいつもより少し遅いことに。

「そうだ。ちょっと、来てほしいところがあるんだ。時間、大丈夫か?」

 アストラルは、そう言って彼女を連れ出した。名家の令嬢にもかかわらず、かなりの自由人であるミザリーンは、時間が遅くても気にした様子はなかった。

「私の帰宅が少し遅いくらいで気にする両親じゃないわ。何を今更」

「それもそうか」

 彼は苦笑して、小さな離れの扉を開いた。

 少し古びてはいるが清掃も設備も整っている。そのうち新しくするかも知れないが、幼い頃の思い出がそれを逡巡させていた。

「ここは?」

「昔、よく親父とここで星を見てたんだ」

「古いわね」

 ミザリーンはあまり星には興味がないのだろうか、と思いながら、アストラルは望遠鏡を覗き込んだ。自分の観測通りに、予定通りの星が見えている。少し古い設備だったので不安があったが、杞憂だった。

「ミザリーンに、見てほしい星がある」

 アストラルが言うと、彼女は望遠鏡に近付いた。彼から受け取るように覗き込む。

「どの星?」

「左上の方に見えないかな。緑色に、大きく光るやつ」

「見えた。綺麗ね」

「緑のは見つかったばかりなんだ。星の光は何億年も続くらしいから、古代からこの光は変わってない。それでも最近まで見つからないなんて、不思議なこともあるもんだよな」

「そうね。緑色の星は、何て言う名前なの?」

 彼女は、望遠鏡から手を離して尋ねた。それから、アストラルに向き直る。

「実は名前、付いてないんだ――いや、付けてないんだ」

? どういうこと?」

「俺が四年前、見つけたんだ」

 その言葉に、ミザリーンが信じられないとばかりに、目を見開いた。アストラルが未知の星を見つけたことは、彼女には話したことがない。

「本当に?」

 四年前と言えば、まだ学舎に通っていた頃だ。

 彼の学舎の成績は劣等生のそれではなかったが、アクレイアにもミザリーンにも圧倒的に劣っていた。アストラルは一番早く学舎に入ったのに、卒業するのは二人の方が早かった。それが理由で比較されていたのは、いつも凡庸だったアストラルだった。

 だが、実際に結果を出したのは彼の方が早かったから、成績とは都合のいい指標にすぎない。

「ああ、本当だ。学会にも報告してある」

「名前は、どうして付けないの?」

「なんて付けたらいいのか、わかんなくてさ」

 肩を竦めたアストラルが妙に穏やかな表情を浮かべていることに、ミザリーンは気付いた。彼が戸惑っていないのは明らかだ。もう既に名前を決めているのかもしれない。

「俺も、馬鹿だよなぁ。こんな綺麗な星を誰よりも早く見つけられたのに、名前を付けるセンスがからっきしなんだ」

「馬鹿ね。でも、あなたらしい馬鹿さだわ」

 彼女が言うと、アストラルは小さく声をあげて笑った。確かに、自分らしいかもしれない。

「親父に似たのかな。親父、昔自分で見つけた星群の名前を付けた時にお袋の名前を直接付けるのが照れ臭くて、最終的に旧姓を付けたんだ」

「素敵な話じゃない」

「その星群も、餓鬼ん頃に一度だけ見たことあるけど、すっげえ綺麗だった」

 彼女は、もう一度望遠鏡を覗いた。

 この日を選んで呼びつけた理由は、この星を自分に見せたかったからなのだと彼女は納得した。天候を読みながら観測日を計算していたのだ。算術の成績は、ミザリーンよりもよかったはずだ。

 しかし、それを自慢するわけでもなく、彼は名前を付けられないことを自嘲している。不思議な男である。

 もう、何年も前から、アストラルはアクレイアと比べられ続けていた。客観的に見ても本人自身が劣っていたわけではないのに、単純だが残酷な比較で。彼も、自分は弟と違って馬鹿だからとカラカラと笑って開き直っていた。

 しかし、いち早く結果を出した彼のどこが馬鹿だと笑えるだろう。学も家柄もなくても画家として天性を発揮しながら二人の息子を育てたアストラルの母と同じように、他の誰と比べても遜色のない結果ではないか。

「あなたも同じように、大切な人の名前を付ければいいんじゃないかしら。おじ様でも、マリウスさんでも、アクレイアでも」

「そうだな」

 頷いたアストラルの表情は、先ほどの自嘲がどこか混じっているような微笑ではなかった。強い意志が籠った表情に切り替わったことにミザリーンは気付いて、思わず目を見開いた。

「それなら俺は、ミザリーンって付けたい」

 本気だ。ミザリーンは直感した。

 彼の眼差しには嘘が欠片ほどもない。アストラルは、嘘をつけばすぐにわかるほどによく顔に出ていたし、そもそも彼は嘘をあまりつかない。正直者なところが、彼の長所であり短所でもあった。

「最初から、俺はこの星にはミザリーンって付けたいって思ってたんだ。問題は、伝える機会すらなかったことと、俺自身がそれに相応しい男じゃないってことだ。家督を継ぐ決意さえできない臆病な嫡男だ。その上筋金入りの馬鹿で、見てくれもそんなによくない。相応しいなんて、釣り合ってるなんて、微塵も思っちゃいない。

 でも、俺は、ミザリーンが好きなんだ。いつからか自分でもよくわかってないけど、好きなんだ。何て言われようと、それは変わらなかった」

 窓から見える月夜に、彼女の金髪が映えていた。彼女を見つめるアストラルの目には、一瞬の逡巡も見えなかった。その迷いのなさは、星よりずっと屈折なく輝いていて、何処か眩しくさえ感じた。

「……あなたのそう言う、一度決めたら躊躇わないところは、割と好きだわ」

 ミザリーンは、そう言って笑った。途端に、肩から力が抜けてくる。肩に力が入っていたことに、彼女は初めて気付いた。

「私が結婚相手に突きつける条件は、知っているわね? 遺蹟巡りをやめさせないことよ。妻としての私よりも、歴史学者としての私を優先することを許すことよ」

「知っているよ。もとより俺の勝手で才能を無駄にするなんて筋に合わないし、俺は尊重したいと思ってる。気が向いたら会いに来てくれる程度に考えてるし、子供ができても俺が母親の代わりをすることだってわかってる」

「そう。いい覚悟ね。私、あなたの奥さんになってもいいわよ」

 彼女はそう言って、苦笑した。自分の方が、この男より、この男の父よりずっと照れ屋だ。そして、この男の母のように堂々としている。こんなに気が強い応え方があっただろうか。

「本当に?」

「ええ。だから、星の名前はさっさと提出しなさいよ。名前がないままじゃ可哀想だわ。それから、ちゃんと家も継ぐのよ」

 アストラルは肩を竦めた。自分が求めていたのは、こんな風に背中を押してくれる相手なのかもしれない。それは、在りし日の父母のようだった。

「わかっているよ。けじめはもうついてる」

 自分は彼女に、羽を休めてやれる程度の安定を与えることができるだろうか。ただ求めるばかりでなく、与えることができるだろうか。

 与えるということは、人が思う以上に難しいことだ。


 ふたりが離れから出ると、間もなくしてマリウスが現れた。

「ミザリーンお嬢様のお帰りの馬車の手配ができましてございます、アストラルお坊っちゃま」

 一礼するなり彼はそう言って、ふたりを御者の元へ引き連れた。アストラルの表情で、結果がわかったのだろう。

「少し、送って来るよ」

「はい、いってらっしゃいませ。どうぞお気を付けて」

 アストラルはミザリーンを馬車に乗せる為に手を貸してやり、一度マリウスの方を振り返る。

「それから、マリウス」

「はい」

「俺はもう、お坊っちゃまじゃない」

 マリウスは細い目を一度引き締めたかのように見えた。それから、柔らかく微笑んで見せた。

「かしこまりました――アストラル様」

 ミザリーンとアストラルを乗せた馬車が、走り出す。マリウスは、彼らが見えなくなるまで見送っていた。

「ご丁寧に帰りの馬車まで用意していたのね」

「まあな。これくらいはしないと、先方に失礼だろ。この程度の常識はあるさ」

「あなたって本当に、変わっているわ。見合い結婚が常識の家柄でね」

「親父だってそうだっただろ」

 確かに、と彼女はふと考える。アストラルは外見も父親似だ。一度決めたら振り返らないところは、母親に似ているが。

 ふたりが馬車で談笑していると、フィレニウス邸に到着した。

 アストラルはミザリーンの親族に挨拶をして、先ほど乗った馬車に乗り込んだ。

 グリザベータ家の新当主の最初の夜だった。

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