第四章 終焉の序幕

 少年皇帝ジークムント陛下の血塗れた即位劇は、今思うと序章ですらなかった。

 ただひとつだけ、確実に言えることがある。

 血に塗れた波乱の中、若くして即位された陛下の施政は、予想に反して素晴らしいものだったと言うことだ。帝国が始まって以来の名君だと、マレクセイ伯などは完全に心酔していたようであった。

 陛下はまず初めに帝国中の孤児院を回り、帝国法の条文を書き換えた。童の教育こそが未来を育てるのだと、自分たち上に立つ者ではなく、少年少女の為にこそ血税を使うべきではないか、と。陛下はそう仰って、十五を過ぎたら外へ出なくてはならぬ代わりに、その後の進路を与えたのだ。

 学問に入りたい孤児には学舎をあてがい、同時にその学舎で下働きをさせることで学資や宿舎の賃金は不要とした。働きたければ、ある程度の制約はあっても雇用の斡旋が発足された。怪我や病気に対する保障も増え、生きるためだけに盗賊に身を落とすしかない少年や、を売る少女はだいぶ減ることとなり、結果的にそれは治安の改善に繋がった。

 だから、十年前、私が孤児院を追い出された頃と、こうして手記を綴っている現在とでは、社会の有り様は随分と違うのだ。

 その為に陛下は宮廷の上層部の給金を、それなりの水準で生活できる程度まで減らした。それにより上層部から顰蹙を買ったこともあるが、まるで聞く耳を持たなかった。陛下は、私室の宝飾品を売却し、食事の量や食品の質を落としたりなど、様々な形で惨めにならぬ程度に生活を切り詰め、自ら模範となって改革を断行した。

「綿布の服もなかなか着心地が良いではないか。諸君らも試したまえ。風通しがよく、夏などは涼しくて良い」

 ある日、式典用のもの以外の高価な絹の服を売り払い、安物の服を身に纏って現れた陛下は、太陽のような笑顔を浮かべていた。

「陛下、帝王学では『王は民を己が手足と思え』とあります。上に立つ者として、そのような姿をしていては御身の手足たる民が付いていきません」

 宰相閣下の上層部の代表とも言える言葉に、陛下は途端に真顔になられ、こう切り返した。

「手足なら、我が身体の一部ではないか。余は愚かな皇帝やも知れぬが、身体の一部をぞんざいに扱う程の阿呆ではない」

 陛下の正論に、言葉に詰まった宰相閣下は、まさにぐうの音も出ないと言う表情をしていた。

 ジークムント陛下は、確かに、ヴァレクセイ帝国史に残るべき、偉大な名君だったのだ。


 あの後、ルー=エザとは何度も会った。

 暗殺劇の件で彼女と連絡先を交換したことがきっかけで、様々な意見交換をすることになった。

 彼女は軍人としては勿論のこと、外交官として活躍しており、その経緯で我が国に来ることも多く、その度に私は彼女と会っていた。私たちは真面目な話から下世話な話まで、会う度に様々な話をした。

 会って話す度、手紙のやり取りをする度、私の彼女への言い様のない想いは募っていった。お世辞にも流麗とは言えない彼女の字でさえ、彼女らしく愛おしいとさえ、思っていた。私は、まさに色々な意味で、盲目だったように思う。

 この時期の私は、何度となく酒に任せてマレクセイ伯に相談したものだった。彼に言わせれば、いちいち同性に相談するような男、即ち私のような男は馬鹿で駄目な男らしい。そういったことは女性に相談しろ、と見事に一蹴された。だが、そう言いながら彼は何度も付き合ってくれた。

 私には残念ながら女性で相談できる相手がいないとの旨を告げたところ、哀れみの籠った眼差しを向けられた。善し悪しは別としてマレクセイ伯は女性が好きなことで有名で、『マレクセイ伯爵が女性を口説いたところを見たことのない者は街に一人もいない』という逸話があるくらいだったのだ。

 仕方がないのでゲイトルードに相談を持ち掛けたところ、彼の方も、意外なほど親身に聞いてもらえた。彼にもやはり、何度も話してしまったが、何度でも聞いてくれた。私は、友には本当に恵まれていると思う。ただ、親身ではあったが同時に厳しくもあった。

「確かに、マレクセイ殿の言い分は正しいな。女性の気持ちは難解で、我々男の理解に与る処ではない。しかし、案ずることはなかろう。貴殿が俺の気持ちを完全に理解することは不可能だし、俺も貴殿の気持ちを完全に理解することはできぬ。貴殿が、徐々に『彼女』を知っていくしかない」

 それは、確かにもっともな話だった。

 運良く、ルー=エザとの連絡は頻繁と言う程でないにしろ、希薄でもなかった。

 徐々にではあったし、歩みも遅かったが、少しずつその間柄を育んでいった。

 その後、彼女は平素よりの仕事ぶりを認められ、中尉から大尉に昇進していた。私は一介の司法魔術師でありながら、陛下が新設した改革班の一員として扱われるようになった。

 孤児院から出た学歴のない男が宮廷に出入りするようになったことは、貧困に喘ぐ若者にも夢を与える話だ、と陛下は笑った。

 それは、童のように屈託のない、貫禄のある笑いだった。

 優れた王者の器の持ち主とは、実は、童のような心を持ち、夢を語らうものなのかもしれない。


 陛下が即位されて三年が経った、ある冬の日のことだった。

 私は母国に帰るルー=エザを見送っていた。私たちは既に、互いの居場所を行き来してささやかながらに関係を育む間柄となっていた。

 それは甘美な時間だった。この頃の私はまさに、人生で一番の幸福を得ていたように思う。

「また、会えるわよね」

「会えるだろう。次は、私が会いに行くと、約束する」

 いつものような会話の後、私はいつものように彼女の肩を引き寄せた。彼女はそっと身を引き、振り返らずにトシュレード行きの馬車に乗り込んで行った。

 その後ろ姿の、燃えるような赤い髪が、何故だか忘れられない。

 私は今でも、その日付を、はっきりと覚えている。

 それは、辛い寒さと北から流れる冷たい風が身を竦ませる、柘榴石ガーネットの月の十五日のことだった。

 私は魔術師連盟の宿舎の近くでルー=エザを見送ってから、宮廷に出仕した。

 ジークムント陛下が、一人の少女を連れて現れた。陛下の腹違いの妹君ジークリンデ姫かと思ったが、陛下が連れて現れた娘は十六歳になる皇女殿下よりも幼い少女であった。

 少女の髪は血のように赤く長く、外套を頭から目深く被っており、その顔はよく見えなかった。杖をついている。

「陛下、その娘は?」

 グラナアート騎士団長が顔をしかめながら尋ねた。年端のゆかぬ少女を連れて宮廷に現れることを、快く思わなかったのだろう。

 私も、同意だったが、大方グラナアートとは違う理由だっただろう。

 少女の外套の中から、黒く強い魔力を感じたからだ。何故、彼女のような若い娘がこれほどまでの力を持っていたのか――

「紹介しよう。この娘の名はレテ。新たに我が側近に加える」

「……恐れながら、黒魔術師でございますか?」

「いかんか?」

 私の問いに、陛下は否定しなかった。つまり、そういうことだろう。私はどことなく嫌な予感を覚えながら、言葉を慎重に選びながら返答した。

「いけないなど、滅相もない。黒魔術師と言う稀有な存在をよく見つけたと思いまして」

「見たことがないから連れて来たのだが、そんなに珍しいのか?」

「黒魔術の素養を持つ者は、非常に少ないと言われており、大国でも、宮廷で黒魔術師を召し抱えている国は少ないです。しかし、その力を正しく使いこなせられれば、帝国は必ずや強く発展することでしょう」

 むしろ、それを知らずに彼女を招致した方が不思議だった。今思えば、黒魔術師の価値がわからぬなど、嘘だったのだろう。

「そうか、それは結構なことだ。先に言っておくが、レテは眼が見えない。魔術で何とかできると本人は言っているが、困っていたら助けてやってくれ」

 レテが、小さく頭を下げた。その所作は愛らしいものだったが、ただならぬ何かを感じた。おそらくそれは、私だけだっただろうが。

 それからジークムント陛下は、世界を変える序章となった言葉を告げた。

「余は、世界を獲る」と。


 その日の夕刻、私はマレクセイ伯爵と地図を買いに出た。

 伯が地図を汚してしまったらしく、私は買い物に付き合う形で、書店に向かうことになったのだ。

 伯が会計をしている間に私は帝国周辺の詳しい地図を見ていた。その地図には違和感があったが、その正体を突き止める前に、伯爵が戻って来た。

 その後に訪れた茶店で、この店のこの食事が女性が好むなどと言う伯爵の言葉を適当に流しながら、彼が広げた真新しい地図を覗いて、私はその正体を突き止めた。

「この地図には、トシュレード公国が載っていないのですか?」

「何を言っておられます」

 マレクセイ伯は、不思議そうな表情を浮かべてこちらを見て来た。

「トシュレード公国などという国、私は行ったことはおろか、聞いたこともありませんぞ」

 私には、マレクセイ伯が、何を言っているのかわからなかった。自分の視界が反転したような、吐き気にも似た感触を覚えた。

「如何されました? 顔が青いように見受けられますが」

 この男は、この地図は、何を言っている?

 友好を結んでいる上に、隣国で、大国でもあるトシュレードを、知らないだと。

「済まない、マレクセイ伯爵。用事を思い出した」

 私はその場を後にして走り出した。

 走ってどうにかなるようなことではなかったが、強烈なほどに嫌な予感がしたのだ。

 瞬間移動の魔術を使い、私はトシュレードのとある街に向かった。

 トシュレードまでは幾らか距離があり、私はあまりこの魔術が得意ではなかったので、数回に分けて移動することとなった。そのため、少々時間がかかってしまった。

 私が向かった街は、ルー=エザが住んでいる街だ。

 私の嫌な予感は、最悪の形で的中した。幾つもの建造物が建ち並ぶトシュレードの街は、一面、草原になっていたのだ。

 地図上での表記は、『ヴァレクセイ平野』。つまり、帝国領だ。

 どうか、嘘であってくれ。どうか、夢であってくれ。どうか、幻であってくれ。

 トシュレード公国が消えた。

 いや、

 何らかの力によって、国がひとつ、存在すらしていなかったことにされた。私には、何故かはっきりとそれがわかった。

 そして、帝国領に組み込まれた。

 つまり、帝国の誰かの差し金でここを強制的に領土にしたのだ。

 では、国民は。この街にいたはずの人々は。ルー=エザは。何故マレクセイ伯が覚えていなくて私が覚えているのか。そこに何の違いがあると言うのか。

 そして、何故、なかったことにされてしまったのか。どの手段で、なかったことにしたのか。

 某然と立ち尽くす私の前に、容赦なく時ばかりが過ぎて行く。

 陽は完全に沈み、月が昇りはじめる。私はただ、そこに立ち尽くしていた。

 そんな時だった。

 竪琴の旋律が響いて来たのは――

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