第三章 再会、そして

 手記の翻訳は、そこで終わっていた。

 内容から考慮しても、用紙の厚さで比較しても、それはまだ途中としか思えなかった。

 父が失踪前、最後に残した仕事だ。せめて、最後まで終えたい。父に何があったにせよ、研究課題を半端に残しているのは心残りだろう。

 ……と言うのは、ただの建前だとはわかっていた。名前も知らない、遥か古代の時代を生きた魔術師の青年の人生の物語に対する好奇心が一番強い要因なのは、よくわかっていた。

 孤児院で生まれ育った魔術師の境遇は、アストラルとは正反対のものだ。将来など約束されているどころか、何も見えない。しかし、その人生は、流れるままに生きている意味で似ているようにも思えた。全く違う文明の時代なのに、何故かそれは架空の物語には思えない。

 知りたい。純粋な知的欲求以上の理由など、何もなかった。

 ただひとつ問題があるとすれば、アストラルには学舎で学べる程度の世界史の知識が多少はあるくらいで、古代語については全く分からないということだった。歴史は嫌いではなかったが、古代語を取得するなど、考えたこともない。

 とりあえずわかるのは、ヴァレクセイ帝国もトシュレード公国も、聞いたこともない名前であるということくらいだ。聞いたことのない国なのだから、そこにいた皇帝が連続して暗殺されたなどということも、知るはずがない。

 今から学ぶという手段もないわけではないが、名家グリザベータ家の実質的な当主が二十歳をすぎて学舎に入って講義を受講するというのはさすがに気が引ける。世間体もあるし、時間がかかりすぎる。四年前まで通っていた学舎の成績は、それほどよくもなかった。決して熱心な学徒ではなかったのだ。

(仕方ない)

 彼にも人脈がある。

(手紙でも書くか。あいつも、これを見たら興味を持つだろう)

 四の五の言ってられない、と、アストラルは溜め息をついて、用紙の束を抱えて、書斎の扉を開けた。

「マリウス、いる?」

 彼は手前のベルを鳴らして執事を呼んだ。父がこのベルを使ってマリウスを呼んでは紅茶を運ばせていたのを思い出す。厳格な父だったが、意外にも甘いものが好きなようで必ず同時に甘い茶菓子を付け加えていたのを、アストラルは知っている。

「お呼びですか」一体どこで待っていたのやら、マリウスはすぐに現れた。この老執事の足の速さを知りたい。

「アストラルお坊ちゃま……いえ、『アストラル様』とお呼びすべきでしょうか?」

「いや、父さんがいなくなる前に残してた仕事がひとつだけあったんだ。それを終わらせるまでは、俺は家業を継げそうもない」

「なるほど。承知いたしました、アストラルお坊ちゃま」

 マリウスは納得したように頷いた。「それはそうと、お夕食の時間でございます」

「ああ、そうだな」

 彼に促される形でアストラルは食間に向かった。

 久々に本邸での食事か、と思うと懐かしい記憶が戻ってくる。アストラルの食に偏りはないので、幼い頃から食事だけは家の者を困らせずに済んでいた。身体が弱かった弟はどうしても偏りがちだったが、それでも極端な偏食はなかった。

 やたらと広い食間の席に一人で着き、一人で食べる、寂しい夕食だった。いつの日か、この席で家族で酒を飲みながら穏やかに談笑するような日が、来ると思っていた。せめて、弟がここにいてくれたら。

 食事を終えて、マリウスが紅茶を用意してくれた。彼の中では家督を継いでいないアストラルはまだ「お坊ちゃま」であり、子供なのだろう。父母には必ず食後には葡萄酒を出していた。

「ああ、ありがとう。ところで、マリウス」

 アストラルは、ふと幼馴染が紅茶を好んでいたことを思い出す。自分はあまり興味がないが、彼女は銘柄にもこだわっていた。

「ミザリーンに、連絡とれないかな。ちょっと所用があって」

「お嬢様にでございますか。左様ですか、アストラルお坊っちゃまにも然るべき時が訪れて……」

「そんなんじゃねぇよ」

 執事が答えた然るべき時という言葉の意味を理解して、アストラルは苦笑しながら即座に否定した。

 マリウスは、妙齢になった主人の息子の結婚相手のことを言っているのだ。確かに、両親が結婚した年齢に近いから、わからないわけではないが。

「お坊ちゃま!」マリウスは慌てて叫んだ。「そのような口の聞き方をしてしまっては、亡くなられたお母様が嘆かれ……ませんな」

 注意しようとしたマリウスが、複雑そうな表情を浮かべて訂正した。

 死んだ母は、平民の出で名家に嫁いだ画家セイルとして有名で、その何年経っても変わらない美しい姿も知られていた。

 だが、それと同時に個性的な性格も有名だった。口が悪く、歯に衣着せぬ物言いに個人主義的な尊大な雰囲気があり、それでいて不思議と憎めない、人を惹きつけるところがあった。

 母は、まさか息子がその口調を遺伝するとは思っていなかっただろうが、嘆くことはないだろう。生前、母が自分の言葉遣いを諫めようとしたことは一度もなかったのだ。

「そうだよ、俺の口の悪さは母さん譲りだろ。それで、そのミザリーンだけど、あいつ相変わらず遺跡飛び回っているのかな」

「はい。ですが、今はお戻りになっておりますよ」

 ミザリーンは名家フィレニウス家の長女で、アストラルやアクレイアとは幼い頃から家族ぐるみでの付き合いがある。現在は考古学者として、大陸中の遺蹟を活発に飛び回っている。そして、アクレイアは彼女の助手の仕事をしている。

「え、戻ってきていたのか」

「アクレイアお坊っちゃまから、何やらお土産をお預かりしたのが二日ほど前でございます」

 そう言って、マリウスは他の使用人に件の土産物を取ってくるように指示した。

 それは、異国の銀貨と花瓶だった。銀貨の裏に彫られていた国名に、アストラルは気が遠くなる。

「エルブーレル王国? 遠すぎだろ」

 名前しか知らないような東方の国まで行ったのかと、思わず脱帽する。花瓶というか、陶磁器はその国の名産だ。確か土の質がいいなどと言う事情だったか。観光旅行ならまだしも、遺跡への渇望が理由とは恐ろしい。

 とりあえず庭で母が好んで育てた花を花瓶に生けて客間に飾っておくように使用人に指示をしてから、アストラルは嘆息した。幼馴染は日雇いの助手でしかない弟を酷使しすぎている気がする。

「さすがに長旅になりましたから、当面はこちらでお休みになられるとのことです」

 都合がいい。巡り合わせとはこのことか。

「じゃ、ちょっと用事があるから都合いいときでいいから来てくれって頼め――いや、明後日来るように伝えてくれないか。あいつ、日付指定しておかないと『生きてたらね』とか適当なこと言って絶対に来ないから」

 さすがは幼馴染だけあって、性格は熟知している。マリウスはその指示に苦笑しつつ、頷いた。

「承知いたしました」


 翌日にアクレイアが帰って来た。

 ミザリーンから彼女を急に呼び出したことを聞いていたのか、「配慮に欠けた馬鹿兄貴め」と罵倒された。罵倒するくらいには元気そうで何よりだと返したら、汚い虫でも見るような目で睨まれた。

 その次の日にミザリーンが現れた。

「よう、久し振りだな」

 客間でそう言うと、ミザリーンが飾られている花瓶を目にして美形の顔を露骨に歪ませた。絶世の美女と言うほどではないが、彼女は評判の美人だ。

「白々しいわね、遠征帰りの直後だって知ってて呼び出したくせに。で、何なの? 用事とやらが思い出話とかだったら許さないわよ」

 早速本題に入りたがるミザリーンに、アストラルは手記を取り出して見せた。

「父さんの書斎にあったんだけど、これ、何か分かるかな?」

「おじ様の書斎に、ですって?」

 手記を一見するなり、ミザリーンは悲鳴に近い声を上げ、そのままマシンガントークを繰り広げた。

 古代のことになると目を輝かせて語り出し、一を尋ねて十どころか百が返って来るところは変わらない。聞いていてつまらないわけではないが、マリウスが紅茶を出したのも目に入っていないようだった。

「あなたは知らないでしょうけど、これ、凄いものかもしれないわよ。

 タイトルに『名もなき魔術師の手記』ってあるでしょう? 魔術は、三千年ほど前に突如として滅び去った文明なの。これが本当に魔術師が書いた手記だとしたら、まだ解けてない謎を解くヒントがあるかもしれないわ。

 実はあのあたりの歴史は全く解明されてなくて、どんな国があったのかとかすらわかってないの。魔術に関しても、その文明の存在だけが知られているだけで、具体的にどのような歴史を辿って、何故滅びたのかもわかっていない。私が遺跡を回っているのも、そのあたりの遺物や記録がないか探っているからよ。

 まぁ、だいたいどこに行っても二千年前くらいのものばかりで、とっくに解明されている部分なんだけれどね。

 この古代語、私が知ってるものと同じものよ。文字という文明は滅びてなかったのね。この手記はどこまで訳してあるのかしら? 厚さから考慮してもきっと途中と推察されるわ」

 ここで、ようやく彼女は出された紅茶に手を伸ばした。アストラルは切り出した。

「この翻訳は父さんがいなくなる前、最後にやりかけた仕事だと思うんだ。そこで、終わらせたいんだが、俺に古代語なんて分かる訳ないだろ? それで」

「ちょうどいいところに帰省して来た私に頼みたいってわけね」

「なんか凄く言い方悪いけど、そうだな」

「まぁ私に任せなさい。しばらくは滞在する予定だし。できたら、おじ様がいつどこでこれを見つけたのか、調べてくれる? 入手経路を知っておきたいわ。たどれば重大な発見に繋がるかもしれないからね」

「わかった」

 実際にそれが可能なのかは不明瞭だった。マリウスもいつ入手したものかは知らないと言っていた。アクレイアに聞いても無駄なのはわかっている。弟なら、手記の存在を知った段階でミザリーンと調査を始めていただろうし、そもそも弟は書斎に入れない。

 一番知っている可能性が高いのは母だが、既にこの世の人ではない。几帳面な父が日々綴っていたらしい日記が書斎にあるのは知っている。多少気は引けたが、そこから紐解くしかなさそうだ。

「これは私が預かっておくわ」

「頼んだ。都合がいいときでいいから、時々来てくれ」

「生きてたらね」

「そんな簡単に死なないでくれ」

「善処するわ」

 ミザリーンは手記を持って帰って行った。

 夜中にアクレイアが外に出て行ったが、アストラルは気にしなかった。

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