第一章 魔術師

 私は父母を知らない。育ての親の存在もない。

 物心ついた時から孤児院にいて、両親は疫病で死んだと聞かされて育った。

 しかし、具体的にどのような病で死んだのかを誰も教えてくれなかった。疑念を抱いた私が調べてみたところ、生まれ年の周辺には疫病などなかったことがすぐにわかった。

 疫病で死んだ、というのは捨てられたと言う言いづらい事実を誤魔化すための、孤児院特有とも言える常套文句だった。当時、貧困に喘ぐ親たちによる捨て子と言うのはごくありふれた存在だったから、さほど衝撃はなかった。ただただ、自分もなのか、と思っただけだった。

 だから周囲が危惧したように、現実を知った私が絶望や憎悪に溺れることはなかった。むしろ、簡単に暴かれるような嘘をついた教官たちに、私はある意味で子供らしい蔑みを覚えた。

 私はそれ以来、嘘や不正を嫌うようになり、いつしか法を扱う職務に就きたいと漠然とした夢を抱いた。

 ヴァレクセイ帝国の郊外にあったその孤児院は、当時の帝国法により十五で出なくてはならなかった。

 職業訓練すら受けていない、読み書きができる程度の十五の若者が一人で生きて行く方法などほとんど盗みしかない。よほどの幸運でもない限り、多くの若者が望まぬ盗賊に身を落とすか飢えて死ぬかしかなかった。

 多くの若者――つまり、そういう時代だったのだ。

 親類の不幸か身勝手で孤児院が罪のない童で溢れ返る、そういう時代だったのだ。

 私が十五の時も、盗みか死かの二つの選択肢に迷うこととなった。路頭に迷い、飢餓に喘ぎ盗賊に落ちる少年。安い金で未来とを売る少女。彼らを救いたくとも救えぬ者たち。断ち切れない悪循環が蔓延るのは、時代のせいなのだろうか。

 志は易々と砕かれ、私は己を諦めるしかないのかと嘆く他なかった。嘆くだけでは何にもならないことはわかっていたのに、嘆かずにはいられなかったのだ。

 仮にも法を扱う人間になりたいと願った者が、盗みなどできようか? 生きたい。だが、飢えているからと盗賊に身を落とすことなど出来ない。それは、十五の私の正直な葛藤だった。

 だが、私は先述した「よほどの幸運」に恵まれたようだった。

 私が孤児院を追い出された十五の春のことだった。

 町に出た私に、一人の老人が話しかけてきた。

 彼はローランドと名乗った。その男は町でよく名が知られていた、宮廷で法職に就く老人だった。禁忌とされる魔術を扱う者を罰する、「司法魔術師」という職務に就いていた。

 老人との出会いは、私の人生を大きく変えた。

 老魔術師は、私の名を聞き、自分の元に来ないかと尋ねてきた。理由はわからなかったが、私はここで飢えて死ぬよりはこの老人の召使いにでもなった方がずっといいだろうと信じて、彼の邸宅に着いて行くことにした。

 それが、私と師の唐突にして類稀なる幸運に恵まれた出会いだった。私はこれを、人生で最大の幸運だと思っている。

 後で知ったことだが、私がその邸宅に着いて間も無くして、休暇で邸宅に戻っていたにすぎない彼は自らの職務を絶ち、隠遁するとの旨を宮廷に連絡したのだと言う。そんな急が許されるのだから、相当なご高齢ではあったのだ。

 彼は私に魔術を扱うだけの力があると言った。彼は既に死期を悟っていたのだろう、私を引き取るなり寝食にかける時間さえ惜しんで魔術の指導を行った。それは、自分の技術や知識の指導ではなく、生きた証を刻みつけるかのようだったと、私は思う。私と言う『媒体』がそれに相応しかったのかどうかは、今でもわからない。

 彼は私を引き取って四年で、息を引き取った。

 十九になっていた私は、師の葬儀などすべて終えて、職を探していた。

 魔術がそれなりに使えたし、法の知識もかなり叩き込まれていた。師は私に魔術や法を学ぶための学問も教えたから多少の学識もあったように思う。たった四年で、私は少なくとも生活はできるだろうと思える人間に成長していたのだ。ローランド老師は、寝食を惜しんではいたが、私に人間として生きる力と、人間らしい生活を与えてくださっていた。たとえ媒体だとしても、それを無駄にさせるわけにはいかなかったからだろう。

 その私の前に現れたのが、私より少し年上の若い男だった。

 マレクセイ伯爵、と彼は名乗った。ヴァレクセイ帝国の参謀長の三男坊らしいが、私には縁のない存在に感じた。

「貴公が、故ローランド氏のお弟子殿でありますな?」

 そう尋ねてきた伯爵によると、師が死を前に宮廷に送りつけたという遺言書には、私の名が弟子として刻まれているとその若い伯爵は告げた。遺言に依ると、最後に育て上げた私を帝国司法魔術師として宮廷に招致せよとのことだそうだ。

 私はローランド師と同じ立場の人間になれるとは到底思えなかった。何十年もその職位に生きた彼とは、あまりにも違いすぎる。

「畏れながら、伯爵」

 私は慎重に言葉を選びながら、固辞した。

「私には、そのような恐れ多い職務を全うする自信などありません。ローランド師の弟子と言えど、私はほんの数年間魔術などを教わったのみなのです。私は、本当なら彼の弟子を名乗る資格すらないでしょう」

「では、貴公はお師匠の遺言を無視すると?」

 まさか、そのようなつもりはなかった。

 何故私なのかはさておき、亡き師の望みを無視する意志などはなかった。彼がいなければ私は今ごろ路頭で命を落としていただろう。襤褸をまとった子供だった私は、今や一人の魔術師の端くれだったのだ。

 だから、師の思いには応えたいが、司法魔術師など、あまりにも重責すぎることを、自覚できたのだ。

「失礼、貴公にそのつもりがこれっぽっちもなかろうことは、私も分かっておりました。その上で、自分には重荷だと感じるお気持ちも、分からぬわけではございません」

 言葉に詰まった私に、マレクセイ伯は複雑そうな表情で頭を下げた。私を連れ出すことに、彼にも思うところはあったのかも知れない。

 その上で、彼は続けた。

「しかしながら、皇帝アズビーダ二世陛下が貴公に興味を抱いておいでなのです。これまで弟子を取らなかったローランド殿が、職務も生命も削ってまで育て上げた唯一にして絶対の弟子に、是非一度会ってみたい、と。陛下は、ローランド殿を、臣下であり友だと仰っておりましたから。そこで陛下の嫡男であられるジークムント皇子殿下のご拝命により、貴公を迎えに上がったのです」

 つまり、私を連れ帰らなくては、マレクセイ伯も帰る訳にはいかない。それだけはよくわかった。マレクセイ伯の仕事は、私を連れ帰って皇帝に会わせることだ。私を宮廷で司法魔術師にすることではない。

「どうか、私と共に、宮廷に赴いてはいただけませんか」

 事情を理解した私はそれを了承した。

 帝都まで行けば、何らかの職が見つかるかもしれない。それがたとえ下っ端でもいい。最低限の衣食住ができれば、私に不足はなかった。嘘に塗れたあの孤児院より、路頭の盗賊より、ずっとましに決まっている。

「馬車は用意してございます。宮廷に向かうだけの準備が整いましたら、宿に向かい私をお呼びください」

 マレクセイ伯爵は私に宿の場所を告げると、その場を後にした。

 時間は掛からなかった。いずれにせよ、そのうち出て行かなくてはならない家だったのだ。既に、準備はほとんど整っていた。

「もう御支度が整いましたか。思ったより早かったので、こちら側の観光も支度も済んでおりませんよ」

 伯爵のその言葉を聞いた時はまさか、と思ったが、どうやら本当らしかった。それでいて不快感を与えない、不思議な男であった。

 馬車での旅の中でも、私は彼と様々な話をした。

 マレクセイ伯が生きてきた貴族社会は私には不可思議なもので、私が生きてきた孤児院の世界は彼にとって不可思議なものだっただろう。

 貴族の世界は不自由のないものだと思っていたが、地位や身分に縛られる厳しく残酷な世界なのだと言う。名門の生まれでも、どれほど有能でも、生まれのせいである程度までしか高みを目指せないのは、孤児として生まれ育った私にも何と無く理解できることだった。

 生まれて来た世界が全く違う我々の話の種が尽きることは最後までなかった。

 どれも互いに取って大した価値のない話だったが、同年代である私達の仲が深くなるにはとりとめのない会話は十分な材料だった。

 そうして私は故郷を離れ、その後、一度として帰ってはいない。帰る理由などないからだ。

 マレクセイ伯の主君であるアズビーダ二世の嫡男、ジークムント皇子は、野心の強い気高い少年だった。年老いた父のために私を連れて寄越した親孝行な少年でありながら、王者の器を見せつけられたのをよく覚えている。

 当時の皇帝、老帝アズビーダ二世陛下はローランド師と親しく、私を気に入ってくださった。私を司法魔術師として宮廷への出入りを許し、さらに帝国魔術師連盟の宿舎に住む許可をいただいた。

 どれも私には勿体ないことであるように感じて一度辞退を申し出た。私は陛下の言うほど有能な人間ではない、と。陛下は私のこういったところを気に入ったのだ、とお笑いになった。そして、これから有能になればよいのだと。

 私はそのときの陛下の笑顔を、今でも忘れない。


 司法魔術師の職務に就いて、三年が経過したある朝のことだった。

 私がいつものように魔術師連盟の宿舎を後にした時に、帝国騎士団のゲイトルードという同世代の男が近付いて来た。

 騎士団は、帝国内において魔術師連盟と争う巨大な勢力だ。我々とは敵対している派閥なのであるが、彼はその対立する二大勢力を連立させようとしている、私の知る限りもっとも偉大な人物の一人だ。魔術師とも会話をする唯一の騎士団員だったから、周囲からは好奇の目で見られていた人物でもある。

「ゲイトルード殿、如何した?」

 声をかけてきた彼に聞き返しながら、私はゲイトルードの緊迫した表情を見やった。たまたま近くを通ったから話しかけたわけではなく、ただごとではなさそうなのは、すぐに窺えた。

「アズビーダ二世陛下が倒れられた」

 それは、衝撃的な言葉だった。

 その前の晩、陛下は、ジークムント皇子と楽しげに談笑されていた。皇子が入れた葡萄酒を、陛下は喜んで口にされていた。

 七十一歳。確かに、ご高齢ではあったが、顔色も言動もおよそ問題は感じず、健康そのもののように見えた。

「何だと。昨夜までお元気そうであられたのに」

 私はゲイトルードと二人で宮廷に向かった。宮廷の廊下で、マレクセイ伯に会った。顔色が悪い。それだけで、嫌な予想をしてしまう。

「マレクセイ伯、陛下は?」

 伯爵は悲痛な面持ちで首を横に振った。つまりは、そういうことだ。

 彼の話に依ると、前の夜に突然吐血して倒れ、その後生死の境を彷徨い続け、魔術も医術もむなしく、夜明け頃に身罷られたと言う。

 陛下の急死に依り、陛下の葬儀や次の皇帝即位の準備など、宮廷はかつてないほどに慌ただしくなった。一国の王の葬儀と即位式が同時に行われると言うことで、親交のある各国外交官が帝国に現れ、宮廷の人間はその対応にも追われることになった。

 偶然私が対応した隣国、トシュレード公国から来た外交官は、若い男女二人の軍人だった。

「トシュレードのルー=エザ中尉です。こちらは、部下のフィス=ロウ」

 赤い髪に長身の、引き込まれそうな緑の瞳の女性が名乗った。美しい声をしている、と思った。

 彼女は陛下への悼みの句を口にしたが、本気で悲しんでいるわけではないことはすぐにわかった。他国の皇帝など、自国との関係が悪くならなければ誰がなってもそれほど問題ない。知りたいのはむしろ、皇帝の急死により帝国がどの程度の変貌を遂げるか、である。誰も表には出さないが、皇帝の急死自体は他人事だ。

「次代の陛下は、どなたになるのかしら?」

 予想通りの言葉だった。私は、誰が次代の皇帝かを知っていたし、その名を告げることも許可されている立場だった。

「ジークムント皇子はまだ十六歳とお若い。次の皇帝は皇子の伯父上殿で、名はアズビーダ三世と名乗られるそうだ」

「……解せんな」

 黒髪に黒い瞳、浅黒い肌を持つ精悍な男が呟いた。ルー=エザが慌てて彼の名を叱咤するように小さな声で叫んだ。

「申し訳ありません。部下が失礼を」

「私のことは気にされなくともよい。今後の両国の関係が悪くなるのは、互いに避けたいところだ。聞かなかったことにしよう」

 フィス=ロウが疑問を抱くのも無理はなかった。私も、同じ疑問を持っていたのだ。

 十六歳は確かに若いが、皇帝が務まらぬほどの若齢ではない。陛下は、皇子が十九になり、無事に成人の儀を済ませたら正式に皇太子とすることを日頃より明言されていたし、そのときに退位することも考えていたようだった。本来らば、その言に従うべきではないのだろうか。即位するのが三年早かったくらいで、誰も文句は言わないはずだ。

 皇太子の地位が内定している皇子は、自らその地位を、未熟者だからと引き下がった。その代わり、自分を皇太子にするように己の叔父を説得した。

 野心の強い皇子にしては違和感があったのは、私の気のせいだっただろうか?

「済まぬが、私は新皇帝の戴冠式の準備をせねばならぬ。これにて失礼」

 私は逃げるようにふたりの外交官の元から立ち去った。最低限の挨拶は交わしていたし、葬儀と戴冠式と、他の執務により多忙なのは事実で、彼らがあまり変な表情をしなかったのが、幸いだった。

 勝手な推論だが、答えが出てきてしまっていた。

 それを口にするのが怖かったのだ。

 このようなことにならなければ、私は誰かに言うどころか、文字に書き起こすことさえ、しなかっただろう。

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