序章 父の遺産

 それから、三年。

 それは、初夏。紅玉ルビーの月七日のことだった。

 美しい海を一望できる丘の上で、柔らかい潮風を受ける。遠く、潮騒が聴こえてくるかのようだった。

 アストラルは、ふたつの墓の前に立っていた。ひとつは母の命日が刻まれた、セイルと言う女の墓。もうひとつは母の葬儀の日が刻まれた、ハディートと言う男の墓。

 母と、父の墓だった。

 政治家ではなかったが、政治家の関係者である父が失踪したとなれば、あまり聞こえのよい話ではなかった。そのような、息子からすれば関係のないご都合主義的な経緯で、父は死んだと言うことにされた。

 父は生きている。

 アストラルがそう思っているのは、証拠がなければ納得いかないわけでも、息子として信じたいわけでもない。もちろん、そのふたつの理由が全くないと言えば嘘になるが、彼にはもうひとつ理由があった。

 この別れ方のせいで、家を継ぐ決心がつかないのだ。

 アストラルは、グリザベータと言う名家の生まれだ。父は、その当主だった。長男として、あまり強く意識はしていなかったが家督を継ぐと言う、未来は幼い頃から知っていた。そして、その生まれながらにして与えられた人生に、疑問も違和感も持たずに育ってきた。

 父に何も言われなかったせいで、家督を継いでしまっていいのかという強い迷いが残る。無論、それは彼の勝手でしかない。死亡だろうと失踪だろうと、主がいない以上は嫡子として家を継ぐ必要がある。甘ったれていると言う自覚さえある。しかし、生きているかもしれない父を差し置いて、勝手に家を継いでしまっていいのか。

 それに、弟の豹変が気になっていた。あの捻くれ者だが志は高く、可愛かった弟が、父の失踪をきっかけに医者への夢を断ってしまった。今では定職にさえつかず、歴史学者として遺跡を飛び回る幼馴染みの助手の仕事の安い日給で食い繋いでいる。弟の面倒すら見ることができない、その傷を知る事さえできない自分は、兄と名乗っていいのだろうか。

 弟は、感情も表情も希薄で、冷たい青年になってしまった。

(父さん)

 何もかもが、以前とは違いすぎる。僅か三年前のことなのに、何十年も前のことのように感じる。

 この場に父がいたら、何と言うだろう。どうしていいかわからないで途方に暮れている自分に、どう答えてくれるだろう。

 手掛かりがひとつもない父の行方。最後に父を見たのは弟だが、空気に溶けるように消えたと魔法のようなことしか言わなかった。父の行方を追うでもなく、弟の身を案じて行動するでもなく、ただ、そこに立ち尽くすだけの自分は、なんて情けない男なのか。

『己の信じた道を行け。己の生き方、死に様、現在、未来、惚れた女の扱いに至るまで。全てにおいて、信じたように、進め』

 母ならば、そう言う気がした。『お前は若いのだから、信じた道の先が失敗だとしてもまだ取り返しがつく』と。

 母は、その独特にして尊大な言動と、繊細な絵で有名な人物だった。

 それならば、とアストラルは思う。

 それならば、母が倒れ、失踪するまでの間、父が何を思っていたのかを、知りたい。その願いを。思いを、知りたかった。それがわかれば、失踪した真相もわかるような気がして。

 行く場所はひとつだ。父が愛していた場所で、誰よりも父をよく知る人物の居場所。それがどこなのか、彼はよく知っていた。父のような優秀な息子ではないが、それでも彼らは確かに親子なのだ。

 彼は踵を返し、駆け出した。

 向かった先は、父が愛し、母が最期を迎えた本邸だった。


 本邸に来るのは父がいなくなって以来で、アストラルはずっと別邸で生活していた。劣等感のようなものから、何となく本邸から逃げていたと言って嘘ではない。別邸には、身の回りを世話する人間がいないのだ。

 扉に取り付けられているベルを叩くと、執事のマリウスが現れた。

 彼は、今年で六十三になったはずだ。年齢に似合わぬ機敏な動きに、アストラルは少し驚いた。主人がいなくても多忙である彼は他にも業務があるので、扉の前で待ち構えていることはないはずなのだが。

「突然悪いな、マリウス」

 そう声をかけたアストラルに、マリウスは静かに一礼した。

「いいえ、お帰りなさいませ、アストラル坊ちゃま」

 彼は、本当は待っていたはずだ。言わなくても分かっている、と言いたげな表情を浮かべ、マリウスはアストラルを居間へと通した。

「家督を、継がれるのですな?」

「その前に、一つだけ聞いておきたいことがあって」

 アストラルは出された茶に手を伸ばさずに、静かに尋ねた。

「母さんの葬儀の日のことだ」

「と、申されますと?」

 マリウスの表情が変わった。柔らかく細められた目付きが微かに引き締まるのが窺えた。彼は、若い頃からこの家に仕えている。父のことも誰よりよく知っているし、葬儀の日に父が消えたと知り、深く気を落としていた。

「何で、父さんが喪主を務めなかったのかなってふと思ってさ。何か、理由に心当たりあるかな?」

 本来ならば、故人の夫である父が喪主を務めるはずだ。家督を持っていたのも父だったし、愛妻家として知られていたのだから尚更だ。

 葬儀の段取りも、アストラルはマリウスの助けを得ながら執り行っていて、父はほとんど関わらなかった。今思うと、その挙動は少しおかしかった。

 大抵は、何らかの事情があって、初めて長男が選ばれる。父は病気なども持たず、葬儀当日に都合があわないわけでもなく――つまり、何の事情もなかったこの場合では、まるで父が初めから消えると決まっていたかのような印象さえ受ける。

「それとも、考えすぎ、なのかな」

「アストラルお坊ちゃまが考えすぎか、わたくしめには分かりかねます。ただ、ハディート様は、奥方様を亡くされてから、少々気を塞いではおられました。ご病床にあられた際は、つとめて元気であるように振舞っておられたのですが。しかし、それはごく自然なことであり、おかしいとは思いませんでした」

 マリウスがそう言うならそうなのだろう、とアストラルは思った。確かに、連れ添った妻に先立たれて気を塞ぐのは自然だ。この執事は、アストラルよりも父のことを知っているのだ、信じていい。

「……父さんのことだ。たまたま何か考えがあって俺にしたんだろうな」

「そうであることを望みます」

 主人の『お坊ちゃま』の決心はまだついていない、と、この白髪頭の執事は分かっていたのかもしれない。

 彼は唐突に、切り出した。

「時に、アストラルお坊ちゃま。書斎をご覧になられますか?」

「書斎を?」

「はい、父上様の書斎でございます」

 父の書斎は、入ってはならぬとの暗黙の了解があった。

 祖父の代には父も入れず、曾祖父の代には祖父も入れなかったという。それが家のしきたりで、今でこそそれが何故なのか疑問だが、アストラルもアクレイアも当たり前のようにそれを守ってきた。

「お坊ちゃまがお生まれになる前のお話です」

 マリウスは話し出した。

「ハディート様のお父上――お坊ちゃまのお祖父様が亡くなられた時、ハディート様の決心はなかなかつかず、奥方様も非常に心配しておられました。お祖父様は突然の事故で亡くなられたのです。誰も予想しなかった形で、突然いなくなられてしまいました」

 突然いなくなった。形は違えど、父と祖父を重ねているような響きを、アストラルは執事の口調から感じ取った。

「私は少し迷いましたが、お母様の進言により、ハディート様を書斎にご案内しました。それから、家督を継がれる決意をされたのです。お祖父様が亡くなられてから、五年後のことでした」

 初めて聞く話に、アストラルは少なからず驚いた。

 父が家督を継ぐのは祖父が亡くなってから五年も経ってからだったことは、正直に言って意外だったのだ。三年経ってくよくよしている自分は、ある意味で、父に似ているのかもしれない。

「僭越ながら、突然の別れとなれば、立ち直るのに時間がかかって当然であると、わたくしは思います。まして家督を継ぐなど、すぐにできることではございません。さあ、入って、お父上が生きた空間を、ご覧になってください」

 扉が開く。

 アストラルは一呼吸おいて、書斎に足を踏み入れた。

 背後で扉が閉まる音が響く。

 それは、ごく普通の学者の書斎だった。机から、壁にかけられた、母が描いた海の絵が見える。両親の墓も、海が見えるところにあり、この本邸も海辺に近い町に建っている。

 父は、海を、特に母が描く海を、愛していた。

 本棚に整然と並べられた様々な分野の書物。机の上のペンはすべてペン立てにさされ、インクの瓶は蓋がきっちり閉められており、机上の一冊の冊子ですら、一切の無駄を感じられない。几帳面な父らしい。

 無機質で平凡な学者の書斎だ。しかし、たった一枚の絵がそれを鮮やかなものに見せる。

 母の描く絵は風景画だったが、そのほとんどが誰も知らない架空の景色だった。その創造的な美しさが、人々を魅了した。だが、父が愛した海の絵だけは、実物の海で、父母の墓がある丘の上から見える景色だった。その場所を墓に選んだのは、父だった。ふたりは、最後の時まで深く愛し合っていた。

 アストラルは書斎を歩き回った。

 ふと、机上にある冊子に目が止まる。古びた紙束。それが何年前のものなのか、彼に測ることはできない。

 読めない字で書かれた表紙。中を開いても難解な文字ばかりであった。いわゆる古代語で、アストラルには読めない。

 すぐ側に、訳が取り付けられていた。


『名もなき魔術師の手記』


 数千年前に魔術と言う、既に滅びた文明があった。アストラルが知っているのはその程度のことで、詳しい歴史は知らない。

 彼の手が自然と訳文に伸びたのは、当然のことだったかもしれない。

 父が最後に残した研究――

 これを放っておくのは、あまりに勿体無い。

 すべてを継ぐ決意を、彼は固めた。

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