第8話
唐草凛にとっての一ノ瀬浩太は、文字通りの命の恩人だった。
彼女は幼少期から他人の感情を読み取る機能に長けていた。人間は生きている以上何かしらの感情を抱いているものだが、それは基本的に外には露出しない。しかし凜にとってはそんな蓋は存在しなかった。
大仰に言えば心が見える、という彼女の能力は、彼女の純真無垢さによって、早々に周囲に漏れた。そんな表情などまるで見せていない(無表情であったり大抵は笑顔だったりする)はずなのに、凜には全て見透かされてしまう。彼女がふいに漏らす、
「怒らないで」
「悲しまないで」
といった、主に負の感情への声掛けは、驚嘆するには十分足りた。
唐草凛はその異端さを自覚していなかった。誰もが他人の感情を読み取れるのだし、それを隠すことも不可能なのだと、無意識のうちに思い込んでいた。それが彼女が素直であることに直結する理由だ。隠すことが不可能なのであれば偽るのも無意味。だから思ったことは紛らわすこともせず発言した。
両親は彼女のその奇異な能力を、彼女自身に不自然なのだと説明したことがなかった。それは一ノ瀬浩太の義理の両親と同様、寛大であると言うよりは、畏怖によってである。しかし唐草凛にはその類いの偽りは通用しない。だから、彼女は悲しんだ。
望むのと望まないのに関わらず、彼女には周囲の人間の感情が伝わってくる。それは苦しいことだった。あまりにも素直すぎる彼女に対して、周りが嫌悪感を抱いているのが、ひしひしと伝わってくる。でも、彼女には自分のこの不安さえ他人に伝わっているのだと思い込んでいたから、それがどうしてなのか、全く理解できなかった。
小学生にもなれば、自分が間違っているのだと、嫌でも知れた。
他人の感情を言い当てることを、同級生たちは気味悪がった。
「気持ち悪い」
「頭おかしいんじゃないか」
「なんでわかるの?」
ストレートに表現される言葉によって、普通の人には他人の感情は読み取れない、自分は普通ではないと、ようやく彼女は自覚した。
しかしそう容易く捨てられるものではなかった。見たくないなら目を瞑ればいい。聞きたくないなら耳を塞げばいい。触りたくないなら腕を抱けばいい。でも感情が見えてしまうことをどうやって抑えればいいのか、彼女にはわからなかった。
抑えられないならば、進化させればいい。
そう思ったのは、まだ彼女の知能が十分に発達していなかったせいかもしれない。ひどく子ども染みた発想なのは、彼女自身にはわからなかった。
それからは、積極的に他人の感情を読み取るようになった。読み取り、相手が何を言ってくるのかを予想する。それを実際に発言させる。周りの人間も同じように幼稚だったから可能な、不恰好な鍛錬だった。
次第に、感情から思想を読み取れるようになった。こういう感情(それは表面的に見える所作にもよる)のときはこう思っている、ということが彼女には理解できるようになっていった。そうなれたのも、彼女の素直さ、生真面目さによるものだろう。
しかし、それができるようになって、彼女は一層虚しくなった。
それができて、一体何になるというのか。
周りの人間は、自分に対してマイナスの感情しか抱かない。それはつまり、マイナスの思想しか読み取れない、ということである。何にも役に立てない。
それでもひたすら鍛錬を続ける以外に、彼女には自我を、その能力を認めてやる方法が見つからなかった。つらいと思ったことはないが、楽しいと思えたこともない。
中学生にもなれば、周囲の人間は普通の会話(それはテレビや漫画と言った軽い話題の事を指す)ができない凜に対して(彼女は鍛錬以外のことに注意を向ける余裕がなかった)、変人認定をするようになった。こちらからいくら話題を吹っ掛けても、生返事。果てには自分の言おうとしていたことを言い当てたりしてくるのだから、とても近寄りがたいのは、誰にでも理解できる普通の感情だ。
周りに「友人」のレッテルを持つ人間の居ない過酷な中学時代だった。もちろん、いじめられもした。化粧もわからず、ファッションにも無知な地味な彼女が、町中で同級生に会って、それを馬鹿にされないはずもなかった。学校では唐草凛の言動を基にたちまち彼女の悪い評判が広まり、物理的に叩かれたり、ひどいときには服を脱がされそうになったこともあった。
彼女の人生のターニングポイントは、その過酷な時代にあった。
色恋の片手間に唐草凛をいじめていた彼女の同級生たちについて、突然、汚点を教えてくれる声があった。
「彼女はついこないだまでおねしょをしていたよ」
「彼は未だに毛も生えていなくて、それにコンプレックスを抱いている」
唐草凜は、最初、それが何なのかわからなかった。ついに自分は気が狂ったのかとさえ思ったほどだ。
だが、その声に従って、自分をいじめる相手にぴしゃりと言ってやると、相手は大抵黙った。顔を赤らめ、激昂するものもいた。それがより、声の信憑性を高めた。
幽霊の存在について、彼女はしっかりと考えてみたことがなかった。鍛錬の息抜きに見る心霊番組でそれらしい映像が流れるし、自分はそれに恐怖するのだから、多分、居るのだろうな、という程度のことしか考えたことがなかった。言ってしまえば、それほどの興味を抱いたことがなかった。
だが実際に謎の声を聞き、人の秘密を暴いた瞬間、これは幽霊の告げ口かもしれない、と彼女は思った。今までいろんな人間の感情や思考を見抜いてきたが、それがはっきりと声であったことはない。
不思議な現象を全て幽霊のせいにする、というのは中学生の彼女にしても馬鹿らしいことだと思えるほど安直な思考回路だったが、それでもそれ以外に、彼女には何も思いつかなかった。
一人のとき、ふいに聞こえた声に、答えてみたことがあった。恐怖と、それに勝る好奇心によって突き動かされた。
「あなたは誰なの?」
声は男だったり、女だったり、幼年だったり、老齢だったりしたが、そのときの若い女性は、懇切丁寧に自分について話をした。
哀れに死んだ過去。幽霊が実在するとわかったときには思わず笑ったが、なってみれば瞬間的にその仕組みの全てを理解できた、と言う。
「人間は精神と肉体、それぞれが別の生き物なのよ。だから肉体が死んでも精神は残るし、逆に肉体が生きていても精神が死んでいる人も居る。二つで一つだけど、一つでも機能はするのね。当然、同時に死ぬパターンもあるけれど」
そんな調子で「幽霊とは何か」という講義を受けているとき、唐草凜はくだらないなと思いつつも、聞きたくて仕方がないことがあった。
「幽霊にも、格差はあるんですか?」
女性は、少し微笑んだように聞こえる。
「あるにはある、というレベルかしら。みんなそれぞれ他人には無関心なのよ。と言うよりも、さっき言ったように私たちは精神とか心とか感情とか、そういう言葉にあたる存在だから、強い憎しみだったり、悲しみ、それから喜びの人もたまにいるけど、とにかく、そういったものに支配されていて、それどころじゃないのね」
「それにしてはお姉さんは余裕そうですね」
「そうかな。あんまり考えたことなかったけど。まあ私なんかは、自分が死ぬことをなんとなくだけど予想していたから、憎しみとか悲しみにおぼれることがなかったのかもね。それに、私は殺されたんだけど、相手は私の愛した人だったから、かな」
「愛した人?」
「彼は浮気しちゃったのね。情けないけど、そういう流されやすいところも嫌いじゃなかった。だから変わらず愛していたけど、彼にとっては私はただの邪魔者に成り下がってしまった。それだけの話。こんなの、あなたにはまだ早い話かもしれないけど。愛は全ての人を救うけど、人は全ての愛を救えるわけじゃないのよ」
「……でも、悔しくなかったんですか?」
「悔しくなかった、と言えば嘘になるかな。一応、私たちは人を呪うことも出来るし、そういうことを考えなかったわけじゃない。でも、人を呪わば穴二つ、と言うでしょ。彼とか彼の浮気相手を呪い殺すために自分も消えてしまうくらいなら、もう吹っ切ったほうが良いかなって。それで、って簡単に言ってもだいぶ時間がかかったけどね、とにかくあなたみたいに私たちの声が聞こえてしまうことによって生きづらさを感じている人を助ける立場に回ったってわけ」
その女性と話したのはその時限りだった。だが唐草凜にとって非常に貴重な時間だったことは言うまでもない。
唐草凛はそのあたりから、他人の感情を読み取ることができなくなっていた。彼女にとって、常に垂れ流される他人の感情がない世界は、随分静かだった。言葉だけの世界なんて、簡単なものだ。
唐草凛は、あの女性の残した言葉(彼女の抱いたことのない「愛」というものに関してだ)の意味を理解するために、勉学に努めた。U大付属の女子校に入学が決まったときは、それまで凜に対して余所余所しかった両親が泣いて喜んでいた。予測できない涙は、これほど嬉しいのか、と学習した。
高校からの帰り道、ふいに声が聞こえてきた。それは随分ぼんやりとしたもので、うっすらと、
「こっち、こっち」
そう言っていた。
勉強の疲れがあったのか、凜の足は導かれるように踏切のほうへ向かっていった。
一ノ瀬浩太との出会いに関しては、このときの声が仕組んだものと言っても間違いではない。この時の声の主は、唐草凛を介して、一ノ瀬浩太に謝罪がしたかった。遠まわしとは言え忠告をくれたにも関わらず命を無駄にした、そのことに関して責任を負わないでほしいと、そう伝えたかった。
唐草凛にしてみれば、このとき、自分が死にそうになったのが、この声のせいであるという自覚に乏しかった。今尚、このときの幽霊が、自分たちを見守ってくれているのだとさえ考えている。
だから、一ノ瀬浩太を、純粋に恩人として見た。
異能と異能の出会いを、運命とさえ感じていた。
そして、彼のために力に貸したいと、強く思った。
それが愛かは、分からない。
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