第7話
高円寺嗣彦の人生において、一ノ瀬浩太の出現は、愉快の一言に尽きた。
彼はこの世に生を受けたその瞬間から、他人の経歴が見えるという数奇な能力を手にしていたため、あらゆる点において他人よりも優位に立つことができた。
簡素なプロフィール、直近の事象はものの一分もあれば探ることができる彼に、敵らしい敵が現れたことはない。時間を掛ければ掛けただけ、他人の人生を追体験できると言うことは、弱点も、汚点も、全て手中にあるということなのだ。
高円寺は生まれたとき、父親が居なかった。幼稚園児になってある程度自我が形成されると、そのことが不自然で、なおかつ好奇の対象になるのだと理解した。子どもだからと無遠慮に、高円寺のすぐ近くで下世話な噂話に興じるほかの園児の母親に対して、
「だけどお前は不倫をしているのだろう?」
「万引きした過去のほうが恥ずかしくないのか?」
と感じていた。
彼は頭がよかった。それはおそらく、乳幼児の頃から無意識に他人の記憶を読み取って育ったからによる。寝ることや泣くことが仕事の赤ん坊にしてみれば、一日中、何を気にするでもなく、ただ流れてくる情報を吸収する(一般的な赤ん坊とは違い彼にとってそれは視覚や聴覚からのものではなかったのだが)時間は余すほどあった。彼はそこで何人もの他人の半生を経験したのだ。幼稚園児にして、彼の精神年齢はそれをはるかに凌駕するものとなっていたとしても、不思議はない。
彼が母親の人生をすでにリピートしていたことにも、不自然はないだろう。生まれてからもっとも身近に居た人間であり、経歴を読み取る機会は多分にあった。
死んだと聞かされていた父親が生きていることも、彼は当然知っていた。それどころか名前や、なぜ別れたのかも、彼にとっては疑問にさえなりえなかった。
会おうと思ったことがないわけでもない。だが結局は会わなかった。そこに深い理由はない。理由を模索するのは彼の美学に反する。
小学生の時には、狂ったように力を使った。周囲の人間にとって自分のこの能力は異端である、という自覚が芽生えてはいたが、芽生えていたからこそ、他人にはできないことをやってのけることに爽快感があった。自分の好みの女生徒の人生を覗き込んで幻滅したり、反発する生徒にはこっそり汚点を耳打ちしてやった。自分は彼らの何倍も人生を生きている(実際にはそうではないが)、という愉悦が、彼を肥大化させていた。
だがそれも中学生になって変わった。
一ノ瀬浩太(当時は別の名前だった)の出現である。
今より自由な時代であったとは言え、人の死を題材にした不謹慎なテレビ番組だった。しかし高円寺はそれを初めて見たとき、一般の人間が抱くような不快感や嫌悪感の一つも覚えなかった。そこにあったのは、自分以外にも特別な人間が居たのか、という歓喜だった。
しかもこの少年は、これまでの半生ばかりを見れる自分とは違い、死を見れるという。言わば正反対の能力なのだ。
こんなに愉快なことはない。
しかし高円寺が見たのは一ノ瀬浩太の番組が打ち切られる直前の、最後の放送だった。次の週にその時間にチャンネルを合わせても、全く関係のない特番が組まれているだけで二度と顔を拝めなかった。先週一ノ瀬を見たとき、高円寺はその異能の存在への驚きと興奮で、すっかり情報を読み取る余裕がなかった。それをこれほど悔やんだことは二度とない。
あっという間に高円寺は高校生になり、その頃にはすっかり一ノ瀬浩太の存在など忘れていた。彼にとってあらゆる人間の過去が溢れている生活で、特定の一人を覚え続けているのは難しかった。すれ違うだけでも多少のプロフィール(これは名前や年齢程度に留まる)が流れ込んでくるのは、少々厄介だった。
苦労して入った大学を中途退学したのにも、理由はない。彼は理由を求めることが嫌いだった。それを求める、それに固執するということは、自分にこの能力が備わった理由も、必然的に探らなくてはならなくなる。そんなことは嫌だったし、面倒だった(だから後に唐草凜に語ったように、彼はこれをどう使うかということしか考えないようにしていた)。片親の母は中退に関してひどく落胆したが、その理由について、ないものを説明しろと怒鳴られるのはうんざりだった。しいてあげるなら、その無意味さに気付いただけだ、と言ったとき、彼は思い切り殴られた。
その母が癌で死んだ。発覚から死まで、僅か一月ほどだった。自分がどれだけ親に苦労を掛けていたのか、そこで初めて知った。その悔恨から伸ばしていた髪を全て刈った。親戚に頭を下げて葬式はあげさせてもらったが、そこでできた借金は膨大な額になった。
葬式の最中、親戚の一人が涙を湛えながら、懐かしむように、そっと言った。
「昔ほんの少しの間だけど、人の死の瞬間が見えるって言う子が有名になってね。その子が今でもしっかり活躍してくれていれば、あなたのお母さんにもちゃんとお別れできたのにね。なんて、こんなこと、不謹慎かしら」
それがきっかけで、高円寺の脳みそは一ノ瀬浩太の存在を思い出した。
高円寺が郡山幸仁を見つけるために使用した探偵の技術は、このとき備わったものである。彼は必死になって一ノ瀬浩太の影を追った。写真が見つかれば経歴が見える。それが過去のものでも効果があるのかは今まで試したことがなかったが、やってみる価値は十分にあった。ネットを使い、時には直接人を訪ね、三月経ってようやく写真を手に入れた。結局写真からは、その写真の撮られた時期(ちょうどテレビに出ていた頃だ)までの人生しか読むことができなかったが、これは十分に有益な情報だった。彼はそこから各地を転々とし、さらに二月掛けて一ノ瀬浩太を発見した。
町で現在の姿を写真に収め、空白の約十年を、一週間掛けて余すところなく追体験した。高円寺はそれに対して、戦慄を覚えた。
一ノ瀬浩太の人生は、負のエネルギーに満ちていた。感情や彼の見たもの(これはビジョンを含めた全てに関してである)までを読むことはできなかったが、彼の人生の薄暗さ(それは例えば、その日に死ぬ予定の人間に関して報道関連をチェックし、ただひたすら自分の能力の正確さを高めようとしていたところなどにある)には、吐き気さえ覚えた。
自分は人の半生を盗み見て、ただうんざりとし、優越感に浸るだけだった。それに比べてこの少年は一体どうしてここまで無意味に(高円寺にはそう思えた)正確性を高めるのか。そしてなぜ人の死を食い止めようとするのか。一ノ瀬浩太の存在は、十年のときを経ても、高円寺に驚きと興奮を覚えさせた。
初めて対面したとき、その目の虚ろさに、背筋が寒くなった。
抱えてしまった借金を返すために一ノ瀬を利用し、金儲けをしようとしていた自分の器の小ささを、全て見透かされているようにさえ思われた。なかなか話しかけられなかったのには、そんな背景がある。
高円寺にしてみれば随分無様な(それはもちろん、後になって思えば、という話である)作戦によって服従させられたが、初めて会った日、あの目を見た瞬間から、高円寺は心のどこかで、こうなることを予期していたように思えた。自分はこの人間には勝てない。生きている人間の生きている姿ばかりを読んでいた自分と、そんなそぶりなどまるでない人間の死の瞬間を何度も目撃し答え合わせまでしているような人間では、抱えているものに大きな差があった。異能を持ち、自分は太陽にでもなった気分で居たが、圧倒的な暗闇には、光など用を為さない。
凛と引き合わされ、その最中に一ノ瀬浩太がビジョンを見た。
彼はどうしても助けたい人がいると言って自分に助けを求めた。
金儲けにはならないが、どうせそもそも身一つの立場、手伝ってやろう、と思ったのにも、彼の美学から言えば、深い理由はなかった。
しかしどこかで、彼はこのために、この哀れな少年のためにこの力を持って生まれたのかもしれないと、思っていた。
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