第7話 少女の願い

「もう…目を覚まさないかと思った…。」


 イチョウが帰って来てから三日目の朝だった。

 モミジは目を覚ますと、目の周りを真っ赤に腫らしたコハクに頭を抱えられた。

 体はまだ怠くて、まるで体中に鉛でも塗られているような感じだ。

 そういえば、怪我はどうなっているのかとモミジは自分の体を見回してみるが、不思議なことに傷はどこにも見当たらなかった。


「あれだけ深い傷を負ったのに三日で完全に傷が塞がるなんて、能力だけは化け物だねえ。」


 イチョウは、モミジが戸惑っているのを見るとからかうように言った。体の大きさは、いつもどおりの猫として一般的といえる大きさに戻っている。

 あの騒ぎは夜中だったからか、あののっぺり顔の男が何かをしていたのかわからないが村人たちに知られることはなかったらしいと聞くと、モミジはホッとしていいのか不気味に思っていいのかわからないような表情でコハクを見つめた。


「使いのものを殺されているのはわかっているはずだ。蛇神から何の動きもないのは不気味だわね」


 イチョウの言葉を聞いて、コハクは俯くと右手で動かない左手をきゅっとつかんだ。


「大丈夫、俺たちが守ってみせるさ。」


 不安そうなコハクの頬を一舐めすると、モミジはそういって彼女の体に長いその尾をゆるく巻き付ける。

 ふわふわとして温かい尾に触れて、モミジは少し落ち着きを取り戻したのか少し表情が和らいだ気がした。


「わたし、助かりたいんじゃないの…みんなと…モミジと、イチョウと生きたいだけなの…。」


 コハクは、モミジの尾の先を右手で顔のあたりに持ってくると、顔を白い毛皮にうずめて肩を震わせた。


「わかってるよ。大丈夫。」


  彼女を安心させようとモミジがかけた言葉に、コハクは頷くが、顔をあげたくないのかそのまま上半身も倒し、モミジの腰辺りに自分の体を押し付けた。 

 その場にいる三人とも「全員が無事に助かる」ということは、絶望的だということは感じていた。

 どんな行いをしていても、神と崇められる存在と戦おうというのだ。蛇神にはコハクの水の力は使えない。

 モミジは、蛇神の使いにすら歯が立たなかった自分が蛇神に勝てる想像すら出来ず、すでに不安に飲み込まれそうになっていた。


「あんたたち、わしがなんのために村を出たのか忘れてないかい?」


 モミジとコハクの不安を見透かしたのか、場の暗い空気をごまかすかのようにイチョウは少しおどけていった。 

 そして、イチョウは神殿の柱をするすると昇って天井裏へ行き、小さな紫色の袋を二つ加えて戻ってくると、その袋をモミジとコハクの前に置いた。

 イチョウが「あけてごらんよ」とでも言いたげに顎をクイッと上げるのを見て二人は、目の前に置かれた袋に手を伸ばした。

 袋の中に入っていたのは、若い梅の実くらいの大きさの綺麗な透き通った石だった。コハクの前に置かれていたものは蜂蜜を固めたような黄金色の石、モミジの前に置かれたものは真っ赤に燃えるような色をしていた。


「コハクの目の色みたいで綺麗だな…。」


「わしが、昔あるお方からいただいたお守りだよ。ちょっと遠くに隠していて、取りに行くのが大変でね。

 二人とも、その石を肌身離さず持っておくといい。」


 イチョウがそういうと、コハクは石を袋の中に入れると、懐へとしまい込んだ。そして、なにやら小さな箪笥の方へ行くと朱色のやわらかい手触りの細長い布を持って戻ってくると、モミジの隣にちょこんと座り直す。


「わたしが、ここに来るときに母様がくれた帯なの。」


 コハクは懐かしむようにその朱色の帯を撫でると、モミジの首元へとそれを回し、苦しくないように調節しながら綺麗に結び付けた。

 首に巻かれた帯の内側の弛みに、コハクは真っ赤なその石を袋ごとそっとしまってやった。


「わたしの帯と、イチョウのお守りが、モミジをちゃんと守ってくれますように…。」


 コハクは小さな声でそう言うと、石をしまったあたりにコツント額を当てた。

 まるで、自分の想いや願いを石に注いでいるように見えるその姿が、あまりにも美しくてモミジは息をのんだ。


 その夜。

 コハクが寝静まったあと、いつかのようにコハクとイチョウは中庭に並んで二匹佇んでいた。

 以前と違うのは、二匹ともお互いににらみ合っていないところだ。

 夏特有のムワッとした風が吹き抜けていく。


「わしが神に止めを刺して呪いを引き受ける。

 そうしたら狐、お前はわしを喰え。」


「そんな…。」


 静かな声でそういったイチョウに、モミジは思わず口ごもる。

 イチョウを失ったコハクの悲しみを考えると、モミジは胸が痛んだ。

 それに、最初こそ唐突に「出ていけ」と言われて驚いたものの、モミジはイチョウのことが嫌いではなかった。

 それほど長い付き合いでもないのに、なぜだかずっと長い間知っているような、そんな不思議な懐かしさとも親しみとも言えない感情を、モミジはイチョウに対して抱いているのだ。

 そんな相手が「自分を殺せ」というのだ。心穏やかでいられるはずはない。


「わしは今までなにもせずに諦めていたいたからね。少しくらいそんな役割をしたいのさ。それに…。」


 イチョウはゆっくりと伸びをしながらモミジのことを見つめた。

 それは、コハクを見るときと同じような優しい視線だった。


「わしにはまだ命が一つある。死ぬことなんて怖くないさ。何度もこの村で生まれ…そして死んだ。

 一度くらい、自分のために死んでも罰はあたらないだろう。

 でもね、コハクにわしを殺せなんて言えなくてね。頼むよ。」


 イチョウは、モミジのことを見つめながら、幼い子供に言い聞かせるような柔らかい声で話を続ける。


「わかった…。俺が…やるよ。」


 モミジは、心臓が張り裂けそうなくらい痛かった。

 自分でさえ、考えただけでこんな思いをするんだ。イチョウとずっと暮らしてきて家族のように慕っているコハクはどんな思いをするんだろう。

 そう考えると、モミジは頷くしかなかった。

 イチョウは、モミジのその返事を聞くと、満足そうに微笑んだ。


「勝ち目は…あるのかな…。」 


「さあね…。なにもしないであの子を喰われるよりはましさ。」


 不安げに呟くモミジの前足に頭を擦り付けたイチョウは、モミジの方を振り向かず神殿のほうに歩きながらそうつぶやいた。

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