第6話 「ただいま。」

「困りましたねぇ…。あなたのその水の力は、そこの狐には使えるはずですよ。

 私を攻撃するのを止めないということは…どうなるか、賢いコハク様ならわかりますよね。」


 息も絶え絶えになりながら気を失わないようにすることで手一杯なモミジと、顔面蒼白のコハクを見比べながら、のっぺり顔の男は二人に距離を詰めて来る。


「最後の忠告ですよ。その穢れた畜生を、あなたが、私の目の前で処分しなさい。

 それなら、年頃の娘のちょっとした気まぐれだとイビガワ様もお許しになるでしょう。」


 最初は、20歩ほど離れていたのっぺり顔の男が、いよいよモミジとコハクの間近まで迫る。

 モミジは、動く気力こそないものの、のっぺり顔の男をコハクに触れさせまいと、よろよろとした動きで懸命にコハクの体を自分の体で隠そうとしている。

 コハクに殺されるなら、こののっぺり顔の男に殺されるよりもましかもしれない。このままでは、自分も殺されてコハクも酷い目に遭うだろう。

 ずっと一人で、孤独や心無い村人の視線に耐えていた少女が、これ以上辛い目に遭うことを考えると、自分の命も惜しくない気がした。


「いや…です…。」


 か細い、絞り出すような震えた声が聞こえた。

 コハクは、意を決したように駆けだすと、傷ついたモミジの前に両手を広げて立ちはだかった。

 広げた手は細かく震え、モミジからは見えないが、歯がガチガチいう音が聞こえることから、彼女が恐怖に顔を引きつらせて震えていることがわかる。


「それがあなたの答えですか。

 困りましたね。私も、イビガワ様の大切な方に手荒な真似はしたくないのですが…。」


 のっぺり顔の男は、薄ら笑いを顔に張り付けたまま、全く申し訳なさそうに言うと、右手を前に出し、コハクの顔の前にかざした。


「可哀想なコハク様のために、最後にもう一度聞きましょう。

 あの穢れた生き物を処分してください。」


 コハクは俯きながらイヤイヤという代わりに、頭を大きく左右に振った。

 肩甲骨のあたりで切りそろえられた美しい黒髪が左右に大きく揺れる。

 のっぺり顔の男が、かざした手を動かそうとしたとき、突然土煙が舞い、衝撃音が鳴り響き、のっぺり顔の男が後方に吹き飛んだ。

 コハクを守らなきゃ…と懸命に体を動かそうとしていたモミジも、恐怖に身を竦めていたコハクも思わず目を丸くする。

 土煙はすぐに薄れ、三人が目にしたのは、モミジと同じくらいか、それより一回りくらい大きな七本の尾を揺らす三毛猫の姿だった。


「コハク…がんばったねえ。」


 巨大猫は、コハクに近付くと目を細めながら彼女の頬を舌で舐め涙を拭った。

 大きさと尾の本数は違えど、それは冬に姿を消したイチョウそのままの姿だった。

 コハクが、声にならない声をあげ泣き崩れると、イチョウは尻尾で彼女の頭をそっと撫でてやった。


「狐…あんたもね。」


 イチョウは、ニヤッと笑ってそういうと、イチョウの言葉と共に倒れたモミジの方へコハクの体を鼻先で押す。

 モミジが、コハクの体に前足をかけ、自分の体の下に隠すのを見届けると、イチョウは二人に背中を向けた。


「畜生ごときが、神の眷属である私に盾突くとは…。」


 のっぺり顔の男は、顔から薄ら笑いを消すと両手を前に出し、水の刃を次々と三人の方向へ放った。

 しかし、男の放つ水の刃は、イチョウの七本の尾によってすべて叩き落され、ただの水となって地面へと吸い込まれていった。


「そうさね、あんたは、その畜生ごときにやられるのさ。」



 一瞬のことだった。

 のっぺり顔の男が、次の水の刃を放とうとした一瞬の間に、イチョウは風のような速さで男に近付くとガブリとその頭に食らいついた。

 ゴリット鈍い音が響き、イチョウの口からぶら下がっていた男の体から力が抜ける。


「とんだタイミングになっちまったねえ。ただいま。」


 イチョウは、男を口から落とすと、体に土をかけ、口元を前足で拭ってから振り向くと、さっきまでの険しい表情からは想像も出来ないくらいの優しい顔でそう言った。

 コハクはモミジの前足に抱きかかえられたまま血と自分の涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、子供のように泣き喚いた。


「ったく…遅いんだよババア猫」


 モミジは、コハクから前足をどけると憎まれ口を叩きながら意識を失った。

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