第5話 眷属の男

 イチョウが姿を消してから、モミジはコハクに妖術を教わるようになった。

 モミジはただの狐とは言えないとコハクは考えていた。イチョウが出ていったあとモミジから教えられた自分の体の大きさを変えらること、それに言葉を話すという点を考えた結果、モミジは妖狐の類に分類されるはずだという結論にたどり着いた。

 コハクは、村の外のことはあまり知らないが、村に現れる脅威に対峙するため、妖怪に対する知識だけは学ぶことを許されていた。

 といっても、何故か獣の妖怪についてだけだったが…。

 妖狐というものは、古来から高い魔力・妖力を持つものが多く、モミジにも妖術の素養はあるはずなのだが、いくらコハクが教えてもモミジは念力の一つすら使えなかった。


「ちぇー…。あの生意気なババア猫が帰ってきたら驚かせてやろうと思ったのになー」


「うーん…モミジは絶対に妖術は使えると思うんだけどな…。

 やっぱり記憶がないことが、関係してるのかしら…」


 コハクは、そう言いながら自分の膝に頭をのせて残念そうにしているモミジの頭を撫でた。

 月が低くなり、少し霞がかっている。桜の木も、花を落とし葉を蓄えはじめ、夏の日光をより多く集める準備をしているようだった。

 春には戻るといったはずのイチョウの帰りが、少し遅れていることは、二人とも気になっている。

 だが、この村から出ることのできないコハクを残して彼女が死ぬはずはないという不思議な信頼感があった。


 モミジが欠伸をしていると、頭を撫でていたコハクの手が止まった。

 コハクが緊張し、体に妖気を纏って戦闘態勢になるのを感じると、モミジは飛び起きて頭を低くしていつでも飛びかかれるような体制をとる。

 村の近くに脅威が現れたときの様子とは違うコハクに、モミジは戸惑いながら辺りを警戒する。 


「おや、気が付きましたか。さすがゴウリュウイビガワノミコト様が見込んだお方ですね。」


 ニタニタと薄ら笑いを張り付けて雑木林からやってきたのは、やけにのっぺりとした顔の、装束のような衣装に身を包んだ男だった。

 男が、蛇神と呼ばれている神の名前であろう言葉を口に出すと、コハクは表情を凍らせた。

 そんなコハクの表情を知ってか知らずか、のっぺり顔の男はわざとらしい薄ら笑いを浮かべたままコハクに向かって恭しく頭を下げる。


「あなたは…蛇神様の眷属…ですね。何の用です。」


「イビガワ様の伴侶となる方に悪い虫が付いたとお噂を聞きましてね。

 まさかと思って来てみたら、汚らわしい畜生が一匹いるではないですか。

 どういうことかと、コハク様に直接お話を伺いに来たのですよ。」


「占いのおばあさまにも説明した通り、この子に害意はありません。

 蛇神様の敵であった狐をも使役出来るようになれば、蛇神様もお喜びになると思いこちらに置いているだけです」


 お辞儀をしたのっぺり顔の男に対して、三つ指をつき、頭を下げながらコハクは答えた。

 その声は、少しだけ震えている。

 眷属を相手にいているだけにも拘わらず、冷や汗で額を濡らすほど緊張しているということは、彼女にとって蛇神がそれだけ大きな恐怖の対象なのだ

ということがモミジにも伝わってくる。

 モミジも、今は争うつもりはないということを表すため、唸ることをやめていた。


「コハク様の思いやりは、素晴らしいことです。」


 のっぺりとした男の声にコハクが少しホッとして肩の力を抜いたコハクが視界の隅で捉えたのは、ほぼ無防備なモミジに向かって飛んでいく

水の刃だった。


「ですが、汚らわしい四足の妖怪などイビガワ様には不要です。」


 のっぺり顔の男の言葉を無視して、コハクはモミジに慌てて駆け寄った。


「モミジ!モミジ!大丈夫?」


 モミジは、咄嗟に体をよじったおかげで致命傷は避けられたようだが、右の前足から横腹にかけて深く裂けているようで真っ白だった毛並みは

真っ赤に染まっている。

 モミジはそれでも弱みを見せまいと、駆け寄ってきたコハクの頬を舐めると、コハクの体を自分の体で隠すと、頭を低くして、近付いてくるのっぺり顔の男に向かってグルルルと低い唸り声をあげた。


「おやおや…コハク様、ゴミ始末の邪魔はお止めください。イビガワ様が悲しまれますよ。」


 コハクは、のっぺり顔の男の声に身を竦める。恐怖で手は震え、いつも青白い顔をさらに真っ青にしているコハクは、弱弱しく首を横に振った。

 そんなコハクを守るように、モミジは全身の毛を逆立ててのっぺり顔の男を睨み付ける。

 正直、勝てる見込みはない。だが、こんなの怯えるコハクを残して逃げることも、無抵抗に殺されることもしたくはなかった。


「この子は…モミジはゴミなんかじゃない…」


 コハクが、絞り出すような声で話す。

 それは、蚊の鳴くような声だったけれど、懸命に絞り出した言葉だとモミジは感じた。

 しかし、のっぺり顔の男は、相変わらず張り付けたような薄笑いを湛えたまま、やれやれというような仕草をした。


「コハク様、その言葉はイビガワ様への叛逆とみなしますよ。

 今なら聞かなかったことにして差し上げましょう。私も、あの時のようにあなたを教育なんてしたくないのです。

 それにあなたは、大切なイビガワ様の伴侶となるお方。其のお陰で随分贅沢な思いをしていること、忘れてはいけませんよ。」


 【あの時のように】という言葉を聞いた途端、コハクの体はビクンと跳ねる。

 過去に、コハクはあののっぺり顔の男に、体を恐怖で硬直させるほどの酷いことをされたということだけは、モミジにも分かった。

 考えるより先に、体がのっぺり顔の男の喉笛を目がけて動いた。

 手負いだとは思えない速さで距離を詰めたモミジだが捉えた!と思った瞬間、モミジの牙も爪も空を掻いていた。

 痛みが腹に走り、体が吹き飛んでから、自分がのっぺり顔の男に蹴飛ばされたことに気が付く。

 このままではコハクに自分の巨体が当たってしまうと気が付き、蹴られた衝撃を逃がさないように、自分の体のダメージも省みずモミジが四肢に力を目いっぱい入れ勢いを殺す。

 真っ赤な血がボタボタと音が聞こえるほどの勢いで、モミジの足元に散るのを、コハクは蒼白な顔をして見ていることしかできなかった。

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