第17話

 魔王は深淵の血で汚れた口元を腕で拭い、それを振り払う。床の血だまりが新しい血を受け、波紋を広げた。

 それを見届けた俺は、ようやく自分が肉体に戻れていないことに気付いた。これまでは魔王が敵を倒してから間を置かずに戻っていた。しかし今の俺は魔王が動かす俺の肉体を眺めているだけだ。

「どういうことだ」

 思考を整理するために口から出たその言葉に、魔王は俺の肉体で天を見上げるようにしてから答えた。


「小僧は我と代わり過ぎたのじゃよ。初めて小僧の肉体を奪おうとした時のことは覚えておるかの?」

 忘れる訳がなかった。あの時の死を感じるほどの渇きや痛み、それを忘れることなど生涯ないだろう。

「我はあの日、一心の血を引く者の魂を食らい、この世に顕現するつもりじゃった。しかしいざ顕現の段階になると食らったはずの魂が再び現れおった。しかも複数個じゃ。大方一心が小僧の魂を予めこの肉体に分割して封印しておったのじゃろう。我の魂よりもこの肉体に馴染みのある魂が複数個も生じたのじゃ、結局我がこの肉体の主導権を握ることは出来なんだ」

 忌々しいと、魔王はこめかみの辺りを掌で覆う。しかし口とは裏腹に頬は緩んでいる。


「じゃが、小僧は自ら我に魂を差し出し続けた。複数個全てを使い切るほどにの。その結果が今のこれじゃ」

「覚えが、ないぞ」

「魔族との取引を無意識で行い、魂を奪われる者はごまんと居る。小僧も類に洩れなんだな」

 契約が絶対遵守されるというこの世界で、そんな理不尽が生じる物だとは考えにくい。だが今この状況が、魔王の言葉を保証してしまっている。

「そんなふざけた話があるのか?」

「残念ながら、と言っておこうかの? じゃが逆にそれを悪用することも出来る。それをしたのが異界人共じゃ。そしてそれこそ我が異界人を滅ぼさんとする理由でもある」

 静かに、ゆっくりと魔王が息を吐く。その様は、自分の肉体でありながら完全に別物だった。そして今まで俺の肉体に魔王が宿っている時のそれとも違う。今の魔王は完全に力を取り戻したからか、威厳のような物を身に纏っている。


「異界人共の血は我が友を苛み続けておる、じゃから滅ぼす」

 ついと、魔王の視線がライナに移った。声や姿は認知出来ずとも、俺のためと行動を控えていたライナだったが、そこで初めて錬気を行う。透明の錬気が、よく練られている。幽体の俺ですらその圧を感じる。

「人間に戻してくれた恩があるからやり辛いな」

 ライナの勘がそう語りかけているのだろう。戦う理由もよくわかっていないはずなのに、ライナは戦闘態勢に入った。

「気にする必要はない。結局深淵も佐伯も我が滅してしまったしの。甲斐はなかった。それに生かしておけば役立つかもしれんという下心でそうしたに過ぎぬ」

 ライナの鞭にライナが練った全ての錬気が集う。


「何となく、良い奴だと思ってるんだけどな」

「痴れ者が、我は魔王で小僧は勇者。やることと言えば決まっておろう? 祖先から夢物語を耳にしなかったのかの? 異界人どもの世界では魔王と勇者はこうあるべき、そう語られておるそうじゃぞ」

「俺はもう普通にメリル人のつもりなんだけどな」

「残念じゃが、異界人の血が我が友を苛んでおる」

 魔王から、七色の火の粉が生じ、爆ぜる。


「その友ってのは――」

「――我の振舞いを許しはしないじゃろう。感情は異界人に奪われておる。もっともあったところで我を止めようとするじゃろう、そういう女じゃ」

 だからこそ我は止まらぬ。そう口にし、魔王の瞳が青く輝く。

 魔王が口を開いた瞬間、ライナの雷蛇が鳴いた。音は雷蛇が砕く床の音、そして光は雷蛇の輝き、雷蛇が全てを飲み込み、後には舞い上がった粉塵が残る。全身全霊で打ち込んだのだろう、春奈を相手にした時のように追撃は出来なかったのか、ライナは塵の奥へと細めた目を向けるのみだった。


 何かの作動音と同時に視界に透明感が戻った。

 そこには雷蛇が生まれる前と変わらずに、青い瞳をした魔王が立っている。

「残念じゃ。娘の友というからには期待しておったのじゃが、小僧では届かぬ」

「へ、悪かったな。……勇人、居るなら頼む。あいつの相手はきっと春奈じゃなきゃ無理だ」

 どうやって? とかそんな情けない言葉を吐く暇はなかった。俺は即座に結晶化している春奈の下へと急ぐ。天井をすり抜け、完全な闇である土の中を通り、ただただ真上へ。


 下というよりはもう後ろからという感覚が近い。その後ろから激しく音が響いている。

 ライナはああ言いながらも、なんとか魔王を倒そうとしているのだろう。感覚的にライナが戦闘を続けているのがわかった。百五十年前、始まりの異界人百人の八割が亡くなったという深淵の魔王との戦い。その深淵の魔王を圧倒した灼眼の魔王は五十三年前二十居た賢者を五にまで減らした。

 ライナ一人、十年に一人の逸材といわれていても、それまでだ。


 焦っていた。一分後にはライナは死んでいるかもしれない。だけど、こんな時に祖父さんの言葉が頭を過る。そして俺は方向転換した。行先は今なお雪の残る複製人間が眠る部屋だ。

 佐伯の研究室から伝わる音は、止まっていた。最悪の想像をし、頭を振って追い出し、俺は俺の複製体を前に辿り着く。液体が満ちた容器の中に、元の俺の肌色をした複製人間が納められている。口元を覆う妙な物質から気泡が生まれては消えていく。


 短い手を伸ばし、触れる。そして俺はその胸元に吸い込まれた。

 視界が真っ白になった。それから、久しぶりの顔が現れる。

「このメッセージが起動したということは灼眼の魔王にまた遅れを取ったのだろう。我ながら情けない」

「祖父さん?」

 俺の呼びかけには応じず、祖父さんが続ける。


「誰が聞いているか知らんが、俺の愛弟子に春奈という娘がいる。彼女に全てを伝えてある、可能ならば助力を乞って欲しい。もしもその余地がないのなら周囲にある容器を全て解放し一言『魔王を滅せ』と言って欲しい。外へ向かって歩けばすぐに元の世界に戻れる、頼んだぞ」

 あれをしろ、無理ならこうしろ、それだけ告げられてどうして相手が従うと思うのか、やはり祖父さんは祖父さんだった。


「……もしもこのメッセージを聞いているのが勇人だったら聞け」

 俺は踵を返し、外へと向かって歩いた。背後から祖父さんの声がしている。

「この身体は他の複製人間と異なり、佐伯のシステムを組み込んでいない。中身が空っぽということだ。灼眼の魔王と身体を共有する経験をしたはずのお前なら魂をこの身体に定着させることが出来るはずだ」

 なおも続く祖父さんの言葉を背中に受けたまま俺は進む。そして真っ白な世界は砂粒が落ちるようにして崩れていく。


 目が覚めると、俺は再度容器に入った俺の複製人間を前にしていた。

 改めてそれに触れてももう白い世界に行くことはなく、ただすり抜ける。魂をこの身体に定着させる方法とやらを結局祖父さんの口から聞くことはなかった。例え最後まで例のメッセージとやらを聞いても教えることはなかっただろう。そういう奴だ。

 だから俺は自分で試す。幽体になった時、俺には尾がある。それを複製人間に差し込んだ。ゆっくりと尾が伸びる感覚と共に温かみを感じた。それからは早かった。視界は気泡に覆われ、耳には気泡が生まれる音、鼻は液体が入り込んでくるのに少しも痛まず、口も液体の中でありながら十分に空気を取り込み、むき出しの肌は春の陽気を感じるように暖かだ。


 内側から容器に触れると、蓋のように前方が持ち上がり、中の液体が一気に零れた。

 液体が漏れる音は一瞬で、容器の外に小さな水溜りを残し、後は全て流れて行く。

「寒っ」

 口にせずにはいられなかった。辺りを見渡すが当然着替え何て物はなく、俺は錬気を始める。即座に簡単な衣服が生まれ、わずかばかりの暖を得て気付いた。普段よりも錬気の具合がいい。祖父さんに力を封印されていた頃にあった、錬気の感覚と発現までの時間差が少なかった。まるで魔王化しつつあった時のようだ。


 掌を見下ろし、それからすぐに顔を上げた。

 そしてライナへ援軍を送るため、俺は片っ端から容器を開けていく。容器は押し込めば上向きに開いて行った。開き切るのを見送ることなく俺は数十ある容器を全部開き切った。

「魔王を滅せ!」

 光のない目が数十組俺を見つめている。そして、そのうちの大半が直立し、佐伯の研究室へと向かって行った。


 それを見届け、俺は螺旋階段へと駆ける。行きとは逆に錬気で滑り上がる。やはり錬気の具合がよく、それは下りに劣らぬ速度で坂道を上った。童女が生んだ雪が作る寒気から離れ、少しずつ気温が上がっていく。それに合わせて俺の心臓も鼓動を強くしていった。

 春奈をどうすれば結晶化から戻せるか、その案はまだ浮かんでいなかった。

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