第4話
空高くから王城を見下ろしている。
諦め悪く伸ばし続けた手は虚空さえ掴めない。俺の手は、まるで土偶のように短く、円錐形になっていた。
状況が全く把握できないそのまま、俺の身体に引かれるように目まぐるしく風景が流れて行く。
城に入った時には広がっていた青空が、今や雲に覆われていた。
一足で、数百メートルは移動している。空高く跳ね上がり、落下。
その繰り返しだ。どれだけ続けるつもりだろう。
数十歩。大きな一歩が積み重ねられた今、俺は廃鉱山へと辿り着いていた。
俺の肉体が、四つん這いになって荒い息を吐いている。
「なんだというのじゃ、あの化物は」
その声には、酷く違和感があった。自分の声を耳にするとここまで気分が悪くなるものなのだろうか。
そう思ったが、違う。自分の声に近しい癖に、明らかにそれと異なるその声が不気味なのだ。
「お前は、誰だ?」
答えは、返ってこないと思っていた。
しかし、俺の姿をした何かは律儀に答える。
「我を見違えるとは、平和な世において鈍したか一心。我が名は灼眼の魔王なり」
魔族は、人間に通じる名を名乗る。本名は仲間にさえも伝えないと言う。それは、養成所で習ったことだ。
そして、灼眼の魔王といえば俺の祖父さんが討伐したとされていた魔王の名だった。
本当に、祖父さんは魔王を封印しただけだったようだ。脳裏に厳しい修行を俺に課していた祖父さんの姿が浮かぶ。
自然、今は握れぬ拳を作るように力が籠った。
「我は貴様の問いに応じた。次は貴様の番じゃ。あの化物はなんじゃ?」
化物、魔王という化物が、相手を化物と表現する。それが酷く滑稽だ。
「何のことだよ?」
「あの娘じゃ」
その一言に、頭へ血が昇りかけて、俺は深く息を吐く。
血潮熱くしてなお鈍らず。祖父さんに文字通り叩き込まれた教えはまだ俺に息づいている。
「あの娘の力、人ではあるまい」
「春奈は間違いなく人間だ。次に化物呼ばわりして見ろ、俺はどんな相手でも許さない」
魔王が顔を歪める。自分の顔は、こんな表情が出来たのかと寒気がした。
「貴様に何が出来るというのじゃ」
その顔は、完全に俺を見下していた。挑発しているのかも知れなかったが、それに俺が乗ることはない。
「祖父さんと俺の区別もつかない無能に無能扱いされるのは不愉快だね」
「く、くく。そうか。一心の子孫であったか。それは失礼をした。さすが彼奴の血を継ぎし者じゃ、そのような形に堕ちてもまだ大口を叩けるか」
酷く歪な笑みを浮かべた魔王は立ち上がり、その手に鏡となるような氷を生んだ。
その氷に映る俺の姿は、まるで絵本に出てくるような幽霊の姿をしていた。
丸い身体に真ん丸の目、突起のような手に、俺の肉体へと繋がっている長い尾。
「どういう、ことだ」
答えを期待した訳ではない。ただ、漏らしてしまっただけだ。
「ふん、五十三年前の契約を遂行したに過ぎぬ。恨むなら一心を恨むのじゃ。もっとも我も彼奴に文句を付けたいところじゃがの、彼奴は今どこにいる?」
殺意だろう。赤い瞳が怪しく光る。律儀に答える魔王に、俺も応える。馴れ合いではない。身体を取り返す手がかりを得るためだ。
「祖父さんなら三年前に亡くなったよ」
魔王が舌打ちし、つまらなさそうに足下の石を蹴り飛ばす。
「封印が強まった理由はそれか……」
考えろ。どう尋ねれば俺の望みが叶う。
思考を巡らせた。いくつもの言葉が組み合わさっては脳内で霧散していく。
そして魔王が空を仰ぎ、状況に変化が訪れる。
「ふん、五十三年もの空白は我の知らぬ技術を生んだか。はっ、とても百五十年程前までウホウホ言うだけの存在じゃったとは思えぬの。当事者は残らず死に絶えたというに、実に迷惑な存在よ、異界人どもめ」
まるで彗星が降るように、飛来する勇者たちの姿があった。
英雄騎士、王国騎士団副団長、傭兵勇者、白銀の勇者などなど名を馳せた勇者たち。
そして、春奈。
総勢十三名の勇者が魔王と対峙する。
王国騎士団副団長、名をサラスと言ったか。
彼女は騎士としては胸当てに手甲、脚甲のみの軽装だ。その彼女が一歩前へと足を踏み出す。
「勇人殿、お気持ちは察しよう。だが、世界のため大人しく犠牲となってくれ」
酷い言葉だった。だけど、間違っていない。世界を守るためならば無辜の民だろうと一人を犠牲にするくらい、国を預かる者であれば覚悟をしなければならないだろう。
「お話が違いますサラスさま」
「落ち着いてくれ春奈殿。これは相手が魔王かどうかを確かめているだけだ」
地位も、年齢もサラスの方が上だ。しかし、その彼女は春奈の一言で顔を青ざめ、脅しを掛けられた小者のように口を動かしている。
「ふ、ふふふ。小娘一人に怯え慄く勇者共か。此度の人の世を奪うのは容易であろうなあ」
俺の肉体が、例の歪んだ笑みを浮かべる。
周囲の勇者の目に、怒気が宿った。祖父さんがいたら未熟者と叱責が飛んだだろう。
その中で、春奈だけが虹彩から光を消し、魔王を見据えていた。
「灼眼の魔王さまとお見受け致します」
「いかにも」
魔王が鷹揚に頷くと、春奈の瞳が一瞬だけ揺れた。
「勇ちゃんを、返して下さい」
「ふむ、返せとは言うがな。これは53年前に一心から譲り受ける契約をした物じゃ」
「物?」
魔王の言った二文字を繰り返した。次の瞬間、春奈の周囲に虹色の錬気が漂う。
「非礼を詫びよう」
魔王のその一言に、周囲の勇者がざわめく。春奈の力は、伝説の魔王ですら恐れるものなのか。そう顔に浮かべながら。
「我は五十三年前、一心共と戦を行った。結末は知っておるか?」
「戦闘において劣勢となった一心さま方は討伐を諦め、貴殿を封印することとしたと聞いております」
その歴史は、春奈をおいて誰も知らなかったようだ。その場にいた誰もが驚愕に目を見張っている。もちろん、俺も知らなかった。何故高位の勇者たちですら知らない正史を春奈が知っている。その疑問は浮かんだ瞬間解けた。祖父さんが、直接伝えたのだろう。
「そうだ。我は強く、一心共は脆かった。しかしじゃ、彼奴の封印術だけは我も認めよう。最終決戦のその時までに、力の九割が彼奴に封印された。我はそこで勝利をしたところで、後の侵攻に滞りが生まれることが容易に想像できた。そして一心共も一割の力の我ですら討伐出来ぬことを悟っていた。そして契約が持ち出された」
伝説の勇者の真実に、勇者たちの顔に失望の色が浮かぶ。憧れは、容易に反転する。魔族と取引をしようとする者の存在など信じられないのだ。しかも、その者は人類の尖兵である勇者だった。
「その内容はなんですか?」
「五十年の後、我の力の全てを解放する。見返りとして五十年の時を眠れ。五十年後、目覚めた際には一心に封印されし我が力ごと彼奴を食うことになっていた。じゃが、裏切られたぞ。彼奴は既に死に、残った子孫には脆弱な力しか存在しなかった」
「……今、勇ちゃんは?」
「ここに居るぞ。ほれ、そこじゃ」
魔王が確かに浮遊している俺を指差す。罠だ。俺はそう感じた。
春奈にその直感を伝えようと叫ぶが、その声は春奈の耳に届かない。
「無駄じゃ、肉体の繋がりがある我と貴様じゃから貴様の声が聞こえるだけじゃ」
「勇ちゃんはなんと?」
「教えると思うてか?」
「ですね。勇ちゃんを返して貰ってからゆっくりと聞くことにします」
「我を滅せば一心の子孫も滅びるぞ?」
「はい、だからこうします。幽界縛」
春奈が幽界縛と唱え、手をかざした瞬間だ。
春奈の錬気から透き通った鎖が無数に生え、それらが俺の肉体にまとわりつく。
「ぐう。くふふ、素晴らしいぞ。純血の異界人ですらここまでの奇跡を行使することは出来まい。貴様、何者だ」
「一心さまの二番弟子、それに何より、勇ちゃんの幼馴染です」
鎖がどんどん魔王を締め付けていく。俺の身体をじゃない、魔王をだ。
鎖は肉体を締め上げたかと思うと、肉体をすり抜け、何かを絡め取っていた。
その何かが今の俺のような形を取り、それが魔王だった。やがてそれは俺の身体から離れ、宙吊りにされるようにしてその姿を露わにした。
「今です、勇者さま方」
身動きの取れない魔王、それに刃を立てればそこで魔王は討伐可能だと春奈が伝える。
伝説の勇者ですら倒せなかった魔王が、こうも容易にやられるのかと誰もが思っただろう。
少なくとも俺は、そう思っていた。
「やるぞ」
そう言い、サラスが剣を振るう。
「え?」
その剣が突き立てられた先は、春奈の背だった。
背から貫通した刃が、春奈の胸から生えるようにしている。
「何をしている、お前たちは勇者だろう!」
サラスのその声に、勇者たちが次々と春奈へと襲い掛かった。
「何を、何をしているお前らぁぁぁぁ!」
俺の叫びは誰にも届かない。
魔王の押し殺すのに失敗した声が、逆に大声となって響く。
「正しい判断じゃ、勇者共。百分の一程度に弱った我相手ならば、世界中の勇者共で我の命に届くかもしれんからの! あはは、あははは、あははは!」
血潮熱くしてなお鈍らず。
昂る感情は力とせよ。熱き血潮は脳を冷まし得た熱である。
勇者もどきの祖父さんの顔が浮かぶ。
何も語らず、尻拭いだけを押し付けた爺。
俺は、昨晩魔王がそうしたようにして自分の肉体に食らい付く。
自分の肉体は、混沌としていた。沈み込む端から闇が俺を覆い尽くさんとばかりに寄ってくる。
消えろ。返せ。動け。
多くの言葉が脳裏を過る。だが目的はただ一つだ。
その目的のために俺は自分の肉体の中をさ迷う。肉体の主導権は今や魔王のものだった。
都合よく願う。どんな力かも知らない。だけど封印された俺の力よ、目覚めろと。
必然、そんな奇跡は起こらない。
「うむ? くく、いいぞ勇人とやら」
魔王の言葉が耳に届く。しかし、内容は頭に入っては来ない。
「脆弱過ぎるこの身に力を満たせ。我に力を与えるのじゃ」
頭に入って来ないのだから魔王の言葉を理解することは出来なかった。
春奈へと、勇者たちの剣が、槍が、矢が向かう。
俺の中で何かが弾けると同時に、闇が俺を覆い尽くす。
その中で、俺は自分の身体の主導権を手にした。
身体が思い通りに動く。理屈はわからないし、どうでもいい。
油断しきった勇者たちに体当たりをし、吹き飛ばす。
膂力自体に差がないのか、注意が逸れていたのかは知らないがそれで勇者たちが吹っ飛んだ。
後には、サラスの剣だけが突き刺さる春奈の姿が残り、抱き寄せた。
「春奈! 春奈!」
春奈は口元から血を流しつつも、笑った。
「お帰り、勇ちゃん」
「ああ、ああ、ただいま」
「行こうか、勇ちゃん」
初めは血が足りていないのかと思った。春奈は死んでしまうのかと思った。
だけど、俺は春奈を見くびっていたようだ。
「この程度で私は死なないよ。行こう、勇ちゃん。あなたを殺そうとするような人たちのいない場所へ」
春奈は突き刺さる剣を引き抜くと、その場に捨て、俺に抱き着く。俺の手は無意識に春奈の傷口を抑えるが、その甲斐はなかった。新たな血が漏れ出すことがない。
春奈は俺を抱きしめたまま、跳ぶ。
一歩だ。一歩で俺たちは廃鉱山から直線距離一キロ先の場所へと着地した。
そしてまた一歩。繰り返される跳躍で、ついに俺たちは王都外へと足を踏み出す。
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