第5話
遠くから何かが迫る、
身構えた俺が見た物は、幽霊のような姿をしたものだ。
「ぬぅぉぉぉぉ」
それは、悲鳴を上げながら俺の足下の地面にめり込んだ。
春奈がそれを警戒するように身構える。
春奈の視線は攻撃を放った相手の位置を探る動きだった。
春奈の力を持ってしても見つからないだろう。そんな相手は存在しないのだから。
俺にはわかる。これは、魔王だ。
魔王はスライムのように飛び散っていた。
しかしまさかこれで絶命したわけではあるまい。腐っても伝説の魔王とまで呼ばれた存在だ。
そして案の定、ゆっくりとだが飛び散った破片は一つの塊へと集まり出す。
「春奈、魔王が飛んできた。今はスライムっていうかお化けみたいな形になってる」
「勇ちゃんの家にあるあの幽霊の絵本みたいなやつ?」
そうだ。そう首肯すると、春奈は少しだけ眉を寄せた。
困った。そんな顔だ。
「どうした?」
「うん、私には魔王さまが見えないから」
十中八九、俺の身を案じているのだろう。それ以外に春奈が困る理由は見当たらない。
「案ずるなと伝えておくがよい。現状、その娘と争うつもりはないぞ」
魔王は諸手を上げるようにしてみせた。
「春奈と争うつもりはないってさ」
「それなら勇ちゃんから早く出て行って欲しいよ」
春奈が唇を尖らせると、魔王は間抜けな姿をしつつも、威厳のある声で話す。
「それは不可能じゃ。今や我と小僧は一心同体といえよう。幽界縛をしている間はお主も他の力を使うことは出来まい? 我を滅したければ小僧を殺すしかないのが現状じゃ」
「何勝手に一心同体になってるんだよ」
「心外じゃな。勝手ではないぞ。しっかりとした契約に則っておる」
「契約は祖父さんを食うだろ、俺は関係ないはずだ」
「但し書きじゃ。契約履行の際に一心が死んでおる場合、その子孫を食らう」
くそ爺。何を勝手な。
「む~…………」
春奈が、不満気に唸っている。つぶらな瞳を半分ほど閉じ、こちらを見ている。
「なんだよ?」
「幽界縛」
俺の周囲数メートル圏内に例の透明な鎖が現れ、円を描くように蠢く。
硬質の音を撒き散らしながらそれは、徐々に円の幅を狭め、最後には魔王を捉えた。
「魔王さま、私にも平時からお声を聞かせて頂くことは可能ですか?」
「現世での器を持てば可能じゃろう。小僧、そういうことじゃ。肉体を寄越せ」
「勇ちゃんの身体以外でお願いします」
鎖が魔王をさらに強く拘束する。このまま引き千切れそうだ。
「ええい、忌々しい。わかった、わかった。お主の眼を食わせよ。かわりに我の眼をくれてやる。何、痛みは一瞬じゃ。それでお主はこの灼眼の魔王たる我の灼眼を手にする。我はお主の尋常ならざる力の一端を手にする。これは悪くない契約じゃろう?」
「何を企んでいる? 破格過ぎるだろう」
自身が伝説たる最重要パーツを手放すと言う魔王に、俺は疑わざるを得ない。
しかし、その魔王はまるで無知をあざ笑うかの如く鼻を鳴らした。
「そこの娘と異なりどうしてこうも愚かな者が一心の孫なのじゃ。よいか、我は今力の九割以上を失っておる。それがそこな娘の眼球一つでも食らえば五割じゃ。五割は力を取り戻せるじゃろう」
一割未満の力の灼眼よりも、春奈の眼には価値があるらしい。
だけど、灼眼を手に入れた春奈は果たして人間と共存出来るのだろうか。
「その契約、結びましょう。あの、自分で抉らないとダメですか?」
「構わん、我が契約に則り全てを行おう」
「ちょっと待て。春奈、本気か?」
困らせてしまった。春奈の眉は、すっかりハの字になってしまう。
だけど、春奈は首を縦にする。
「大丈夫だよ、どのみち私はもう皆とは暮らせないもん。勇ちゃんがいないあの場所には、戻れない」
俺は幸せ者だと思う。だけど、惚れた女にそこまでさせてもいいものだろうか。自分のために他の全ての幸せを犠牲にさせてもいいのだろうか。
「魔王、お前が俺の身体を使っている間、俺は今のお前みたいになってた。その状態の俺を、春奈は見えるか?」
「痴れ者が、つい先刻のことじゃろうが。見えておらんかったじゃろう」
「そう、だよな」
そんなこともわからないほど俺はバカだ。そんなやつのために春奈は目を失ってもいいのだろうか。
「ありがとう、勇ちゃん。でも私は大丈夫だよ。それよりも伝説の灼眼が手に入るんだよ、私もっと強くなっちゃうかも」
胸の前で握り拳を作った春奈が笑う。だけど俺は知っている。春奈は別に力を求めてなんかいない。ただ彼女は強いだけだ。一度も強くありたいと言う姿を見たことなどない。
「使うでないぞ。いくらお主でも肉体が持たないじゃろう。力量の問題ではない、種族が異なる」
「お優しいんですね、魔王さま」
春奈が、拘束されたままの魔王に目をやった。
「強いものには敬意を払う。それが魔族じゃ。王としてへりくだる真似はせんがの」
「ご立派です」
「ふん、それでは始めるぞ」
春奈が幽界縛を解き、魔王が聴き慣れない言語を口にし始めた。
春奈の足下に見たことのない陣が浮かび、炎が触手のように生える。春奈の身体を這うようにせり上がり、その先端は眼前にまで登りつめた。
「あ……ぐぅ……」
俺のためだろうか、春奈は口にしそうになる痛みを堪えるように奥歯を噛んでいる。
しかしそれでも触手が春奈の眼球を貫いた時には苦悶の声を上げた。目を逸らしてしまいそうになる光景を、俺は見据えた。
炎の触手は、春奈の眼から流れ落ちた血液を舐め取るように蒸発させ、そして消える。
瞼を開いた春奈の右目は、見るも鮮やかな赤色をしていた。
「見えるか、聞こえるか?」
魔王の問いかけに、春奈が首肯する。
「少し、見え方がおかしいですけど」
「慣れれば元より遠くも見えるじゃろうよ」
答えた魔王は、相変わらず間抜けな姿だが、どこか力強さを感じさせた。前言の通り、五割の力を取り戻したのだろうか。勇者が、魔王の力を取り戻す手助けをした。これが知られれば人類に対しての裏切り者と称されるかもしれない。
「して、これから――」
魔王が口に出した瞬間だった。春奈の手に剣が生まれ、それが魔王を両断するように振るわれ、空を切る。
外したのでも魔王が回避したのでもない。タイミングとしては必殺だ。
魔王が目を見開き、冷や汗を浮かべたように見えた。
「幽世のものは、さすがに斬れませんか」
「それは、の。女神の聖剣といえども、彼奴の加護を斬らせる訳にもいくまいて」
春奈が女神の祝福を受け、聖剣を賜ったとは聞いたことがあったが、初めて見るそれはとても美しいものだった。刀身は光を受け、輝くような銀色。意匠は黄金で象られ、それ自体が光を湛えているようだ。
容赦ない。まさか春奈がこういった手段に出るとは予想も出来なかった。
そんな俺の視線に気づいたのか、春奈が取り繕うように手を振る。
「これで倒せたら勇ちゃんも助かるよね、って思ったらつい」
「虫も殺さぬような顔をしておいて油断ならん奴じゃ」
「だって、勇ちゃんその恰好じゃ街にも入れない」
恰好? 俺はなんとなしに視線を落とす。視界に入ったのはところどころに黒い肌が混ざっている手だった。
鏡、鏡。周囲を見渡すが当然そんなものは存在せず、魔王が陥没させた地面、国境を示す崖へと目をさ迷わせる。鹿か何かが繁みを揺らす音が遠く聞こえた。
「勇ちゃん、これ」
そう言って春奈が差し出した手鏡の中には、やはり黒が混ざった肌をした俺の姿が映る。それ以外にも黒い瞳の中に、揺らぐ炎が映っていた。
「なんだ、これ?」
「我と同化している証じゃろう」
別に明らかに化物だったり人に不快感を与えたりするほどの見た目ではない。ただ目立つはずだ。これは、逃亡者として望ましくない姿だ。
「何とか、ならないのか?」
魔王からの返事はなく、代わりに春奈が語り掛けてくる。
「外套、買って来ようか?」
それしかないか。頷くと、春奈は瞬く間にこの場から姿を消す。
「我に身体を渡せばただの黒い肌になるのじゃがな」
「そうホイホイ身体をくれてやれるか」
しかし疑問が湧きおこる。始めはこちらの意志に関係なく身体を乗っといて置きながら、なぜもう一度同じことをしない。出来ないのか。
その疑念は即座に解かれる。
「ふん、忌々しい。混ざったおかげで同意がないと身体を使えんとは。とんだ契約違反じゃ」
「契約違反されたんなら破棄しろよ」
その方がよっぽど自由に出来るだろう。
「我はこう見えて幽世に存在しておる。現世との結びつきのないままさ迷えばいずれ朽ちる」
「他のものに憑りつけないのか?」
「一度小僧と同化しようとした手前難しいじゃろう」
つまりは、俺が死ねば魔王も死ぬ。そういうことらしい。勇者として正しい道は、自殺すること、か。
「もしも、俺がお前に乗っ取られたら、お前はどうするつもりなんだ?」
「異界人を滅ぼし、世をあるべき姿に戻すもりじゃ。魔族は自由に闊歩し、思い思いに人を食らい、眠ければ寝、退屈になれば戯れる」
養成所で習った歴史に、間違いはなかったようだ。
魔族に食らわれ、田畑を荒らされ困窮した人間のため、女神は異界人を呼び寄せる手段を伝えたと言われている。それを用いて召喚されたのがご先祖たちで、彼らは例外なく特異な力を持っていた。その力で人間を救ったとのことだった。
「もっとも、小僧のように脆弱な肉体では同族にすら命を奪われるやもしれんがのう」
「魔族同士でも殺し合うのか?」
「言うたじゃろう。退屈になれば我らは戯れに領地を、奴隷を求め争う」
「は、バカバカしいな」
「異界人共の元居た世界では人間同士の殺し合いもあったそうじゃが?」
あり得ない。実際魔族以外と人間が争った歴史なんて百五十年の間存在していないのだから。
「俺たちは戦争なんてしたことないぞ」
「…………ふむ、どうやら魔族に味方した人間のことは秘匿されておるようじゃの」
それこそあり得ない。魔王の話ですら戯れに殺すのだ、そんな奴の下になんてつけるか。
「信じないのならばそれでもよいじゃろう。ただ事実じゃ」
「信じられるか」
そうして話は途切れた。そこで、春奈が真新しい外套を手に戻る。
「勇ちゃん、これ」
「ああ、サンキュ。っと、これ金な」
「うん」
いくつか渡した銀貨を春奈は、皮袋にしまうとそれを腰に下げた。
「行くか」
「どこに行くのじゃ?」
「旅道具を買いにだよ。その後は隣の自然国へ行く。あそこの樹海ならそうそう人は来ないし、食糧は豊富だししばらく身を隠せるだろ。それでいいか、春奈?」
春奈に尋ねると、少し遅れて同意してくれた。
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