第22話
盾を構え、砂原を歩く。
砦は、岩塊という巨大だが粗雑な天然城壁の隙間を、砕いた石で埋めて突き固めていた。さらに、岩塊の表面を削り、整えて滑らかにしている。工兵たちの、
砦へ向かう戦列の最前列は、横一列に広がったキシュだ。一糸乱れず進むキシュの後ろを、キシュガナン、そして鱗の民の隊列が続いていた。
その隊列の中には月光を帯びた水面のような巨体、『
攻城戦で生死を分けるのは運だ。どんな武勇の士であろとも、壁や障害物に動きを阻まれ、思わぬ方向から飛来した矢や石を受けて呆気なく死ぬ。だからこそ、
しかし、彼らの体はそこまで大きくはない。隊列の全てを守ることは出来ないだろう。そして何より、精霊が現世にいられる時間は限りがある。精霊を無敵の盾として頼ってはならないということだ。
まもなく足を踏み入れる砂原には、肉眼で確認することは出来ないが、法陣が敷かれている。近付く一歩ごとに、緊張感が増していく。すぐに砦からの攻撃も始まるだろう。
上からは矢や石。地には法陣。
その先に、巨大な化け物が大きな口を開いて待っている。天と地からその牙が襲い掛かり、自分はそれに噛み砕かれる。それが分かっているのに、禍々しい顎へ向かって歩いているような感覚だ。それは、死への恐怖だった。
エンティノは、目や勘が人並み以上に優れている。それは“死”がよく見える、ということだ。
そんな彼女にとって、この恐怖感は決して慣れることはない。紅旗衣の騎士の中には、この恐怖と
エンティノはただ幼い頃のように、愛する人たちとただ笑い合い、喧嘩をして、何でもない平穏な日々を過ごしたいだけだ。しかし、今の自分の境遇はそれを許してくれないだろう。何より、戦い、殺すこと以外何もない自分に、そんな平穏が訪れるのか、疑問だった。
そんな感傷にも似た思いに浸っていても、エンティノの足は構うことなく砂原を踏みしめ、歩く。
決して早足になることはなく、しかし足を緩めることもない。戦士たちは、淡々と死の顎へ向かった。
砦を守るウル・ヤークス兵の顔が見える距離まで近付いた。
法陣はもう目の前だ。
次の瞬間、戦場を覆う空気が変わった。
その感覚を言葉にすることは難しい。突然、耳の奥で聞こえていた微かな音が消えてしまったような、視界の隅に見えていた物が消えていたような、形容しがたい奇妙な感覚だ。しかし、確かに何かが変わったと確信出来る感覚だった。
エンティノは、シアタカと顔を見合わせる。
サリカやユトワの司祭たちがやってくれた。
シアタカが頷いた。
空を飛ぶ洋鵡が叫ぶ。
「戦士タチヨ! 茨ハ刈リ取ラレタ!」
「今だ! 行くぞ!」
シアタカの号令に戦士たちが雄叫びで応える。
彼らは砂を蹴立てて駆け出した。
この想定外の事態に、兵士たちの間で動揺が走る。
力を注ぎ、練り上げ、編み上げた術式を打ち砕かれると、その反動は術者へ返る。
敵を待ち構え、集中していたことによって、彼らはある意味で無防備だった。そこへ魔術の反動が襲い掛かったのだ。本来ならば躱すことができるはずが、不意を打たれて背後から一撃を受けたようなものだ。跳ね返ってきた力によって、大きな疲労と苦痛が魔術師たちを苦しめることになった。
魔術師たちは疲弊しているが、敵は全速で砦に迫っている。このままでは、敵は無傷で
敵はこちらの魔術を破る力を持っている。そのことを前提として戦わなければならない。魔術師たちは無理を押して、新しい魔術を紡ぎ始めた。
法陣の魔術が発動した後に、間髪入れずに飛び立ち、損害を受けた敵兵へ空兵が追撃する。本来、ウル・ヤークス軍の策はその流れを想定していた。その好機を逃さぬために空兵は、
大鳥の装具を再度点検していたウリクは、法陣が破られたことを聞いて驚きの声を上げた。
「そんな……。どうなるんでしょうか」
イェナが呆然とした表情でウリクを見た。
「分からん。魔術師たち次第だな」
敵が無傷で迫っている以上、自分たちの役割はより大きくなった。しかし、空に上がることができなければその役割も果たすことができない。
まずいな。ウリクは舌打ちした。仲間たちの表情が動揺で揺らいでいる。戦場で集中力と士気を失うことは何より危険だ。
空兵たちの不安げなささめきを断ち切るように、武具を鳴らし岩を蹴る足音が響く。
兵士が岩棚に駆けあがって来るなり叫んだ。
「ハディ千人長より命令だ! 空兵は出撃! 敵の進撃を遅滞させるぞ!」
「手順通りに羽蟻を蹴散らせるのか?」
翼人空兵が不安げな表情で問う。本来ならば、空兵は魔術師の援護の元、飛び立つはずだった。しかし、法陣の魔術は破られた。彼らは魔術師ではないが、魔術を破られると魔術師もただでは済まないことを知っていた。もし空兵部隊がこのまま何の助けもなく飛び上がっても、圧倒的に数で勝る羽蟻の群れに取り囲まれて落とされてしまうだろう。
兵士は大きな声で答えた。
「魔術師たちは何とかすると言ってる! 信じてくれ!」
「了解した。合図と共に飛ぶ」
ウリクはそう言うと、有無を言わせぬ視線で空兵たちを見回した。空兵たちは意を決した表情で頷く。
鐙に足を懸けたウリクは、己の愛鳥に跨った。皆も次々と続く。
大鳥の鞍の脇や背中には、大きく膨らんだ袋が積まれていた。限界に近い大量の石や杭状の投箭を積んでいるのだ。本来ならば大鳥の体力と機動力を大きく損なう危険な荷物の量なのだが、この飛行では、機動力や航続距離は関係ない。空戦を前提としておらず、ただ砦の周辺を飛ぶだけだ。魔術師たちが、あの羽蟻の群れを追い払うという前提の装備だった。
そして、翼人空兵は護衛として大鳥空兵に随伴する。彼らは空域に残留している羽蟻を相手にする役割だ。
全ては計画通りにいくことを前提としており、もし失敗すれば、自分たちはわざわざ重りを積んで敵の餌食となるために飛ぶことになる。
初手の魔術を破られたことで、不安が募るが、自分たちは味方を信じて命令を遂行するしかない。
ウリクは大鳥の首を撫でながら、己の不安も鎮める。
「見ろ!」
翼人空兵が空を指差した。
見上げれば、空中に光を帯びた雲が形を成し始めている。空兵たちは安堵の声を上げた。
「魔術師たちも頑張ってくれているな」
ウリクは呟く。
騎手の合図と主に、大鳥たちが翼を広げ、振るい始めた。
「頼んだぞ!」
舞い上がる砂塵に目を細めながら叫ぶ兵士の声。ウリクは右手を上げて応えた。
アシャンは、戦士たちと砂原を踏みしめ駆けていた。
隣には、ウァンデがいる。エンティノがいる。ハサラトがいる。ウィトがいる。ラゴがいる。カナムーンがいる。エイセンがいる。そして、シアタカがいる。戦士たちの後方で戦いを見守っているはずのアシャンの感覚は、彼らと共に最前線に在った。
張り巡らされたキシュの感覚が、アシャンに千の目と千の耳、千の鼻を与えている。
あらゆる場所に自分がいるような奇妙な感覚は、万能感を感じさせ、一方で己の肉体を常に意識していなければ、本当の自分が消え去ってしまうような恐怖感もあった。だから、常に自分というものを意識している。
しかし、その一方で、あまりに自分を補強すると、キシュとの繋がりが薄れてしまい、群れの細部にまで意識が届かなくなってしまう。自分とキシュとの繋がりをどう保つのか。アシャンはそれに常に苦心している。その絶え間ない努力によって、キシュの近くにいる人間の中でも、親しい者なら個別に認識できるようになった。
キシュの群れを繋ぐラハシ達の意思は、この陽光の下でも見て取れる光、そして戦場の喧騒を貫き響く笛の音のように、音と光を合わせた大きな力として感じ取れる。その意思は
その中でも、ジヤの意思はキシュの先頭に立ち、激しい光と音の塊となってキシュを導いていた。
砦は近い。
これから起こる凄まじい戦いを思い、アシャンは身震いする。
突然、
その音につられて、ユハは空を見上げる。
雲一つないはずの空に、一つの雲が浮かんでいる。その雲の浮かぶ高さは普通の雲よりもはるかに低く、
駆ける戦士たちはまだ気付いていない。
次の瞬間、空に無数の赤橙の炎が舞った。
光る雲から炎が雨のように降り注いでくるのだ。炎は流れ星のように尾を引きながら、次々と雲から吐き出される。
大きな波のような感情が頭の中を駆け巡り、アシャンは顔をしかめた。キシュの恐怖の感情だ。
炎の雨に襲われた
それはキシュの防衛本能に根差した根源的な警告のため、群れにはどんな情報よりも優先して伝播する。
キシュガナンはよく『キシュが出来ないことは火をおこすことだけ』などという。他にも、キシュと火にまつわる言葉は多い。そして、そのほとんどは、否定的で悪い意味をもっている。
キシュは火を扱うことができない。それどころか、根源的な恐怖心をいだいている。キシュガナンと共に焚火や炉の近くにいる程度ならば平気だが、大火を前にしたり、突然火を近づけられたりすると、驚き、怯み、酷い場合には激しい混乱や恐慌に陥ってしまう。
アシャンにとって、
その結び目の一つであるアシャンは、網全体に響く動揺を感じ取っていた。
動揺と恐怖は響き、伝わる。網の端から、寄り集まっていた縄がほどけ、結び付けられていた大きな形を失おうとしている。縄がほつれ、ほどけ、結び目が断たれようとしている。このままこの匂いと音が広まれば、群れが維持する隊列が乱れ、崩壊する恐れがあった。
アシャンは、アエラの聴覚や嗅覚へ伝わる情報よりもはるかに強烈な“心の声”を発した。それはキシュを落ち着け、形を自覚させるための“呼びかけ”だ。
それに気付いた他のラハシたちも、アシャンに同調し、続けざまに“呼びかけ”を発する。“声”は互いに響き合い、大きくなってキシュへと伝わっていく。
同時に、一人のラハシが
しかし、遅かった。
恐慌に陥った
炎の雨は、地上に達することなく空中で消えていく。
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