第17話

 月光の下、色とりどりの天幕が白い砂原に咲き誇っている。


 カラデア人、ルェキア族、鱗の民。そして南からやって来たであろう多様な衣装の人々。駱駝や驢馬、縞馬、そして駆竜や甲竜。ひしめく兵士たちの興奮を帯びたざわめきと、獣たちの鳴き声の中を、シアタカたちは歩く。


 その中でも一際大きな天幕に案内された。


 待っていたのは、デソエから逃れる際に出会った黒石の守り手ダカホルや数人の黒石の守り手たち。そして、乳白色で、多彩な色艶を帯びた髪をもった黒い人々ザダワーヒだった。彼らが、ワンヌヴの言っていたユトワ王国の司祭だろう。


 シアタカを見たダカホルは、驚愕の表情を浮かべて駆け寄った。


「久しぶりだ、ダカホル……」


 右手を上げたシアタカは、ダカホルの異様な様子に気付き、歩みを止めた。


「ダカホル、どうしたんですか?」


 怪訝な表情のキエサに答えることはなく、ダカホルはシアタカを見つめている。


「シアタカ……、お前は……」


 震える声と共にダカホルはシアタカの肩を掴んだ。


 次の瞬間、世界が変わった。




 空は澄み切った青色となり、目の前には陽光に照らされた砂原がどこまでも広がっている。


 一人の女が立っていた。


 薄汚れた簡素な麻の貫頭衣を着て、黒髪を結い上げている。陽光の眩しさも気にならないのか、碧眼は大きく見開かれていた。


 女の背後に広がるのは、黄褐色の砂と白い砂が混ざり合い、薄い色を帯びた砂原だ。


 この光景を、シアタカは見たことがあった。


 アシス・ルーを出発して西へ向かう時、誰かが“船出”だと、冗談交じりに言っていた。

 そこは、沙海との境界。東の砂漠と西の沙海が出会うと土地。白い砂と褐色の砂、渦巻く風がせめぎ合う地だ。


 野営地にひしめいていた人々の声は聞こえず、沙海を渡る風の音さえも聞こえない。しかし、静寂ではない。どこからか、囁き声が聞こえるのだ。どこから発せられているのか、誰のものなのか、分からない。しかし、微かな声が、絶えず何かを囁いている。


 女は、自分を見ていない。シアタカは気付いた。碧い瞳はこちらを向いてはいるが、その視線は遠く、自分の背後の白い砂原の向こうを見ているように思える。確かに自分を見つめていないはずなのに、なぜかその瞳から目を離すことが出来ない。まるで、鷲掴みにされたように、その場に捉えられている。しかし、それは決して不快な感覚ではない。親しい者に肩を抱かれているような、そんな奇妙な感覚だった。


 女は、おもむろに口を開いた。


「あなたを、かつてないほど近く感じる」


 その声、その容姿。それは自身の中に在る欠片にそっくりだった。しかし、目の前に立つ彼女が欠片ではない、という確信がある。その根拠を言葉にすることは難しかったが、彼女の持つ気配が欠片とは全く異なっているように感じられた。


 胸に手を当てながら、女は言う。


「皆の輝きは増してきていて、私の目を楽しませてくれるの。これまでの静寂が嘘みたい。そして何より……」


 女は微笑むと、背後の褐色の砂漠を振り返る。そして、再びこちらに向き直った。


「遠い白い海にいるあなたの輝きが、一際眩く私の瞼の奥に届く。その輝きは、私が“目覚めた”あの日に観た輝き……。あなたは古きものの力を得て、今や誰よりも眩く輝いているの。今はもう、耳を澄まさなくても古きものの声が聞こえる。それが、どれだけ嬉しいことか。何度月が満ち、欠けたのか、私には知りようがないけれど、もうこの静寂の牢獄に飽き飽きしてるから。本当に……、何もかもにうんざいしてる。……だけど」


 女の口元が大きな弧を描く。ゆっくりと右手を伸ばした。


「時の止まったこの牢獄の中で、あなたの輝きは救いの光。あなたの死の刃で、呪われた糸で織られたつづれ織を切り裂いて、全てを終わらせて」


 女が伸ばした手が先から崩れていく。体が形を失っていき、白い砂の山と化していった。


 青い空と砂原の向こうに女は消えたが、シアタカには、女の笑みがいつまでも宙に残っているように見えた。 


 陽光に照らされた砂原は暗くなっていく。


 ささやきはざわめきに変わり、やがて人々の交わす言葉として形を成した。

 



 そして世界は夜になった。


 周囲から喧騒と沙海を渡る風が押し寄せてきて、それがシアタカの感覚を激しく刺激した。


 足下がよろめき、何とか踏みとどまった。大きく息を吐きだす。


 同時に、一斉に驚きの声が上がった。それは、この場に居合わせたダカホル達、黒石の守り手たちが発した声だ。他の人々は守り手たちの様子を見て戸惑っている。


 シアタカは視線を落とし、目を見開く。自分の周りに、水面に石を投げ込んで生じた、波紋のような放射状の円ができていたからだ。同じようにその円を見て、顔を上げたダカホルと視線が合った。


「シアタカ……、今のは何だ?」


 目の前に立つダカホルが、問う。シアタカの肩を掴む手に力がこもった。ダカホルにも今の光景がみえていたのか。シアタカは驚く。


「……俺にも分からない」


 シアタカは一瞬の逡巡の後、答える。ダカホルは小さく唸ると、シアタカを見つめた。


「だが、あれはウル・ヤークスの民だった。そして、お前に語りかけているように見えたぞ。何を言っていたのかは分からなかったが……」


 そして、視線を落とす。


「それに、この砂紋だ。お前は、砂の音を聞き、文を書くことなどできないはず。だが、この砂紋を描いた。こんなことは前代未聞だ。お前は、何をした?」


 それは、自分が聞きたいことだ。己に起きたことが理解できないシアタカは、返答に窮してダカホルと視線を交わすことしかできない。


「ダカホル、一体、何の話をしてるんです?」


 キエサが戸惑った表情で歩み寄った。


「前に会った時に、この男から黒石の力を感じると言っただろう? シアタカの目は、黒石の欠片を宿していないにもかかわらず、何より深く黒石の色を帯びている。その力は、まるで結晶の形となって顕れているようだ」 

「ああ、カドアドも同じことを言っていました」

「そして、俺が今、シアタカに触れた途端、幻を観た」

「幻?」


 怪訝な表情で首を傾げたキエサを見て、ダカホルは頷く。


「お前は観ていないか……」

「はい、特に何かを見たということはありませんでした」

「守り手は皆、観ているな?」


 ダカホルが振り返ると、カドアド達は深く頷く。


「……私も、観た」


 シアタカの傍らで、アシャンが口を開いた。


「お前も?」


 ダカホルは驚いた様子でアシャンに顔を向ける。シアタカも、驚き、アシャンを見た。


「俺は、この幻は黒石と縁を結んだ者が観たと考えていたのだが……。なぜ蟻使いの娘が?」

「それは、私の魔術が原因だと思われます」


 右手を上げたサリカが言った。


「魔術?」

「そうです。シアタカとアシャンは、以前、魂の淵源で深く繋がりました。そのことが、何か深く影響を与えているのでしょう」

「私は、その時、シアタカの中に在る欠片と会ったんだ。今観た幻は、その欠片に似ていたと思う」


 アシャンは、そう言いながらシアタカに顔を向ける。


「欠片だと? さっきからお前たちは何の話をしているんだ?」


 困惑した様子のダカホルは、助けを求めるようにキエサを見て、シアタカを見た。


「ダカホル、落ち着いてください。まずは、皆を紹介させてもらいます。それからこの事について話しましょう」


 溜息をついた後、キエサが言った。




 

 ひとまず一行は天幕の下で腰を下ろす。


 キエサは、ダカホルたち黒石の守り手たちや、カングたちユトワ王国の人々に、シアタカたちを紹介した。


 その後、すぐに話題はシアタカたちが観た幻へと移る。


「アシャンも、確かにあの女を観たんだな?」


 シアタカの問いに、アシャンは頷いた。


「間違いないよ。あの女の人は、欠片とそっくりだった。だけど、何か違うと思うんだ。何て説明したらいいのか分からないけれど……」

「……俺も、そう感じた」


 確信がないために力ない答えだったが、アシャンの言葉はシアタカの感じた印象と同じだ。


「それで、欠片というのは、あの幻とどういう関係があるのか、教えてもらおうか」


 強い口調と共にこちらを見据えたダカホルに、シアタカは頷く。これから共に戦う者たちに、真実を誤魔化していらぬ憶測や誤解を招きたくない。シアタカは、全てを話すことを決めた。


「これは、俺の問題だが、俺だけではなく、ウル・ヤークス王国の根幹に関わる問題でもあるんだ。少し長くなるが、聞いてほしい」


 そして、シアタカは己の内にある欠片について、ここまでの旅路であったことを語り始めた。途中に、何度かアシャンやサリカ、カナムーンが話を補足してくれている。


「そのような話は聞いたことがない……」


 ようやく語り終えた後の短い沈黙。それを破ったのはカングの呻くような一言だった。


「だが、納得はできる。あの幻を見たのは、シアタカとアシャン、そして黒石の守り手だ。即ち、我々は黒石を介してシアタカの魂の淵源に触れたのだろう」


 頷いたダカホルは顎に手を当てると瞑目した。


「一つの肉体に複数の魂が宿ることは稀にあることだが、そのほとんどは人や獣のものだ。そなたの話を聞いてみると、その欠片というのは、少なくとも全き魂や霊ではない。おそらく、ウル・ヤークスの聖女王というのは、我らが祭祀の王のように半ば精霊のような者なのだろう。だとすれば、己の力を分かつことが出来るのか……?」


 シアタカへ語りかけるカングの言葉は、やがて己への問いとなって止まった。傍らに座るツィニが言う。


「ここまでの話から推測すると、欠片という存在は聖女王と異なる己の意思をもっているように思えます。あるいは、分霊に近いのかもしれませんね」

「確かに、それが一番近い存在なのかもしれんな」


 カングは頷いた。


「我々が観たあれは、欠片なのか?」


 目を開いたダカホルが、おもむろに口を開いた。シアタカは、その問いに小さく頭を振る。


「いや……、正直分からない」


 あの、境界の砂漠に立っていた女は、自分の中にある欠片に似ていた。しかし、欠片から感じる、冷たく吹き付けるような憎しみは感じなかった。欠片は、己の中から湧き出した水のように感じる存在だったが、あの女から感じる力は違った。例えるなら、どこか遠くから響いて聞こえる水音のような、そんな遠い印象だ。


「確信も、証拠もない、だけど、俺は違うと思う。アシャンも同じように感じた」


 シアタカの視線を受けて、アシャンも深く頷く。


 ダカホルは、二人を見て、小さく息を吐いた。


「あの幻で見た女だが、とても小さな繋がりを感じたのだ」


 シアタカは驚き、思わず目を見開く。


「それは、どういう意味だ?」

「繋がりという言葉が正確なのか自信はないが……、共鳴は、分かるな?」

「ああ。琵琶ウードの弦を引くと、琵琶ウード全体が震えて大きな音となる。谷間や洞穴が大きな風の音を奏でることも同じだと聞いたことがある」

「そうだ。我々も、精霊も、世にある全ての存在ものは皆、歌っているのだ。そして、同じ歌声をもつ存在ものは共に歌い、響きあう。それが我らの耳に形となって届く最も分かりやすい例が、共鳴だ」

「それは、我らの間で教えられている説と同じです!」


 サリカが目を輝かせて言った。ダカホルはサリカに頷いて見せる。


「黒石と共に世界を観る時、極小から極大まで、人の“目”では見えないような事象を感じることになる。それは、我ら人間には完全に観ることが出来ないが、おおよその概要は掴むことが出来た。ウル・ヤークスの魔術でもその教えが伝わっているのなら、おそらく正しい考え方なのだろうな」

「そうやって異なる知を持ち寄り、突き合せることで、より真実の泉に近付くことができる……」


 サリカは噛みしめるように呟いた。


「あの幻を観た時、俺は、あの女に、共鳴のようなものを感じたのだ。決して大きな音ではないが、小さく弦を弾くことで響きあう、そんな感覚だ」


 ダカホルは、己の胸に手を当てて言う。


「他の守り手も感じたのか?」 


 カングの問いに、守り手たちは首を傾げた。


「あなたほどの力の持ち主だからこそ、何かを感じたのかもしれません」


 ダカホルに顔を向けてツィニが言った。サリカが頷く。


「魂は心や体に影響を与える。その欠片は、憑りつき、人を狂わせる悪霊のようなものなのか? もし、欠片がそなたの魂に悪しき力を及ぼしているのならば、いつ己を失うのか分からない者が軍を率いていることになる」


 カングが厳しい表情で聞いた。やはり、皆、同じような感想を持つものだ。シアタカはカングの問いに微かに苦笑しながら、頷いた。


「正直に言えば、欠片は俺を良くない方向へ導こうとしている」


 その答えによって、緊張が走った。


「だけど、俺はそれに抗う。決して、己を見失うことはない。俺の意志が、何より、皆が守ってくれるからだ」


 シアタカが、仲間たちを見回した。皆、強く頷く。


 キエサは、隣で頷いたカナムーンを見て驚きの表情を浮かべた。しかし、肩をすくめた後、その表情は笑顔に変わる。


「カナムーンを口説き落すなんて、大した男だよ。俺は、それだけで信用することができるな」

「そうだ。私は沙海の砂原でシアタカを信じて、そしてここまでやって来た。それによって導かれたものは、何かね?」


 カナムーンがぐいと首を伸ばすと、カングを見た。そして、振り返る。月光に照らされて煌めく、赤銅と甲殻。


「……大いなる希望よ」


 ラワナが答えた。

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