第15話

 杯が飛び、薬湯が飛び散る。皆が一瞬呆気にとられていたが、男が怒りの声を上げた。


「何するんだ!」


 パニトゥを見るシェリウの視線が鋭くなる。


「この子に紫沈草は駄目だ! 死んでしまう!」 

「何言ってるんですか! 紫沈草は毒薬なんかじゃ……」


 目じりを吊り上げ、唸るようなシェリウの言葉をラハトは手で遮った。


「この子に……、と言ったな? 他の者なら大丈夫という意味か?」


 パニトゥは厳めしい表情のまま頷くと、ユハとシェリウを睨み付けるように見た。


「説明は後だよ。今は一刻を争う。そこで黙って眺めてるつもりなのかい? だったらとっとと出ていっておくれ。大勢で居られても邪魔でしょうがないからね」


 シェリウは何かを言おうとして、口を噤む。ユハはそんな彼女を横目に見て、パニトゥに視線を戻した。パニトゥはふんと鼻を鳴らした後、腕組みする。


「もし、年寄り一人で働かせて気が咎めるなら、手伝わせてやろうじゃないか。ただし、あたしのすることに口出しはさせないけどね」

「分かりました。何をすればいいですか?」


 ユハは即答すると身を乗り出した。パニトゥは一瞬驚きの表情を浮かべるがすぐに言う。


「あんたが癒しの術に優れてるのは分かる。だから力を貸してもらおうか。解熱と痛み止めを続けておくれ。ただし、加減を間違えないように。この子にはこっちの薬を使う。早く煮出すんだ」


 パニトゥは、言いながら腰の袋を外す。そして、固い表情のままのシェリウに押し付けた。


「分かりました。シェリウ、お願い」


 シェリウは頷くと、袋を開けた。中にある粉末を摘まむ。


「そっちの器と同じ物を使うんじゃないよ。別の鍋を使って煮出すんだ」


 紫沈草の薬湯が入っていた杯を指差しながら、パニトゥは少年の家族に顔を向けた。父親が慌てて家の鍋を持ってくる。シェリウは水を張った鍋にパニトゥに指示された量の粉末を入れると、聖句を唱えて煮出し始めた。ユハも、少年の体に癒しの力を注ぎこむ。


 病人の発熱は、病と闘うために肉体が放った火であるという。だが、その火は肉体を焼き尽くすこともある。そうならないために、癒し手はその火を見守り、御する。ユハは、肉体の闘う力は奪うことなく、慎重に繊細に力を流し込み、己の放った火によって焼かれ弱った体に活力を与えていった。


「若いのに大した二人だねぇ……」


 小さく息を吐いたパニトゥは、沸騰する鍋を見つめていたが、おもむろに懐から小瓶を取り出すと、油のようなものを一滴注ぐ。


「よし、火を止めておくれ」


 シェリウはその声に応えて聖句を止めた。





 少年に薬を飲ませた後、ユハたちは一息入れることとなった。


 皆で茶を飲みながら、ユハはパニトゥに聞く。


「どうしてこの子に紫沈草の薬湯を飲ませては駄目なんですか?」

「あんた達は正教派だろう? 異端の邪まな技を学ぶと、魂が穢れてしまうよ」


 パニトゥはそう言って口の端を歪めた。その言葉を聞いたユハは目を瞠ると、大きく頭を振る。


「そんなことはありません! 色々な土地に、色々な人が暮らしている。その人たちが受け継いできた知恵、技は、掛け替えのない大きな宝なんです。聖女王陛下も、光翼教の司祭に大いなる導きを受けたと伝わっているんですよ。それは、ええと……」

「キェーラ記、十章、十五節」


 シェリウの言葉にユハは頷いた。


「そう、そこに記されているんです。異教徒の教えだとしても、聖女王陛下は賢明なる智慧として尊ばれたんですよ。それは、私にとっても同じです。もちろん、秘すべき知識だというなら、聞くわけにはいきませんけど……」


 もしかすると、部外者が聞いてはいけないことなのかもしれない。今更ながらにそのことに思い至ったユハは、思わず口ごもる。


「別に秘密ってわけじゃないさ」


 パニトゥは微かに目を細めてユハを見た後、肩をすくめた。

 

「あたしだって、紫沈草がおこりに効くことはよく知ってる。だけど、ウシュメルの中には、紫沈草の薬湯を飲むと、肌が荒れたり唇が腫れたりする者がいるんだよ。酷いことになると、息が出来なくなって死んでしまう者も時々いるんだ。ウシュメルは紫沈草によく似た草花もよく食べるが、それでその症状が出る者は、紫沈草でも必ず同じことになる」


 そして、眠っている少年に視線を向けた。


「この子はあたしも良く知ってるから最初から分かっていたけど、初めての患者にはその症状がでるのかどうか、少ない量の紫沈草で必ず試すんだ。悠長に思えるかもしれないが、薬で殺してしまったら元も子もないからね」

「……エルアエルの昔の賢人が、牛や山羊の乳を飲んだ者に発疹がでたり、死ぬ者が稀にいるということを書物に記していました。それと同じことですね」


 シェリウが言った。パニトゥはシェリウを見やると、片眉を上げた。


「学のある薬師様だねぇ。残念ながら、あたしゃ、よそのことは知らない。だが、ウシュメルには、そういう者が昔から時々いることは確かなんだ。だとすれば、よその人間にも似たようなことがあっても不思議ではないねぇ」

「私、知りませんでした」


 ユハは溜息をつくと頭を振った。


「無理もないね。ウシュメルの中でもこの症状はそう多くない。それに、治療が間に合わないことはよくある。もし症状が出ていたとしても、きっと気付かずに病のせいで死んだということになるだろうからねぇ」

「その薬もおこりに効く薬草なんですね」

「正確には木の皮なんだけどね。まあ、酷く苦い味だから、あたし特製の油で少し飲みやすくするのさ」

「すごい……。そんな薬があるなんて初めて聞きました。お願いします。その薬の事も教えてください! シェリウも知りたいよね?」


 ユハは、目を輝かせて言った。そして、振り返りシェリウの手を握る。


「え、あ、うん……」


 シェリウは少し気まずそうにパニトゥを一瞥して、小さく頷いた。


「仕方ない。カドラヒの坊やにこき使われているあんた達に、給金代わりに教えてやろうかねぇ」


 ユハを見て、シェリウを見たパニトゥはからかうように言った。  





 治療を終えた頃には陽は沈んでいた。


 薬が効きはじめているのか、少年の容態は安定している。しかし、患者の体力は持つのか。決して予断を許さない。ユハたちは経過を見守るためにこの家に泊まり込むことになった。


 小さな炉の火を囲んで、簡単な夕食をとる。


 ユハは、ウシュメルの伝承や歌についてパニトゥに質問攻めにした。少しばかりの雑談から、彼女の知識の深さを感じ取れたからだ。パニトゥは初めは戸惑った様子で聞かれたことを答えていたが、そのうちにユハの問いを広げるように様々な伝承を語り始めた。乾いた高地であるイラマールとは全く異なる葦原の国ショナ・ウルクの物語は、ユハを夢中にさせた。


「……はるか昔、巨人王がこの地を治めていた頃の話だ。一人の『高貴なる人』が巨人王の追手から逃れて、葦原の国へ逃げ込んできた。ここに暮らしていた人々は、葦の束の中に彼を匿い、まじない師は霧を呼んで里を覆い隠した。やがて、巨人王の追手は高貴なる人を見失い、彼は危機を逃れることが出来た……」


 ユハは、驚きと感激から思わず声を上げた。


「ああ、『水郷の善き漁師たち』ですね! 追手から逃れた高貴なる人は、漁師たちに感謝し、祝福を与えた。その祝福によって作物は溢れるほど実り、魚は網の中で波立てて獲れた。水郷の人々は喜び、高貴なる人を大いに敬ったという」 

「知っているのかい?」


 パニトゥは目を瞬くとユハを見やった。

 

「外典イルウルーク書、六章に記されています」


 シェリウの答えにユハは大きく頷いた。


「それです。それで読んだことがあるんです。その話しがウシュメルの人たちのことだったなんて驚きです」

「正教派の教典とどこまで一緒か分からないけど、きっと大筋では同じ物語だろうね。ちなみに、あたしが使った薬を採るための木も、高貴なる人が植えた物だと言われてるんだ。本当がどうかは分からないがね」

「高貴なる人々は、この地を訪れた際に故郷から様々な作物や草木、獣を持ち込んだと言われていますね。その木もその一つかもしれません」


 シェリウの言葉に、パニトゥは頷く。


 ユハは、共に話を聞いているナムドたちを見ながら言った。


「諸王国の時代にも、逃げ出した奴隷を匿っていたって話も聞きました。はるか昔からずっと、ウシュメルの人たちには寛容と慈愛の徳が受け継がれているんですね」

「なんだか嬉しそうだねぇ」


 片眉を上げたパニトゥは、しげしげとユハの顔を見る。


「聖典に記されていたことが過去の伝説や伝承と結びついているなんて、本当にわくわくするんです。ここに来るまでの旅の中で、幾つもそんな話を聞いてきました。昔から伝えられていたことが、今の私たちに繋がっている。すごいことだと思いませんか?」

 

 ユハは拳を握って言う。


「まあ、気持ちは分かるけど、ウルス人なのに沼地のカザラニヴドカザラの話しをそんなに面白がる娘も珍しいと思うよ」


 パニトゥがウシュメルではなく他の民からの呼び名を口にしたことに自嘲の色を感じ取ったユハは、真剣な表情で頭を振った。


「私の師はこう教えてくれました。我々の知識や技は、様々な人々が試行を積み重ね、長い時の中で伝えてきた無数の星の輝きの一部のようなものだと。きっと、アシス・ルーやアタミラの大図書館に行っても、世界の全ては記されてはいないと思います。世界中の沢山の知らない土地や会ったことがない人たち。そして、そこでしか学べないことがあり、その人しか知らないことが世の中にはたくさんあるはずです。それは、ウルスやカザラやウシュメルなんて関係なくて、それどころか聖王教徒や異教徒であっても関係ない。賢人や僧侶だけじゃなくて、竈の前にいる母親や、羊を追う子供しか知らない秘密だってあると思うんです」

「あんたはその全てを知りたいのかい?」

「……知ることが出来たらいいなとは思いますけど、きっと無理だと思います。それに、知ることだけを目的にしてしまうと、わくわくしなくなるかも知れない。そんな気がするんです」


 少し首を傾げたユハは、自分の曖昧な物言いがおかしくて思わず笑みを浮かべた。


「ご馳走ばかり食べてたら、飽きてしまうものねぇ」

「それは例えが違うと思います」


 月瞳の君の言葉にシェリウは即答する。そのやり取りに、ユハの笑みは苦笑に変わった。


 小さく息を吐いたパニトゥは、ユハを見つめた。


「正直に言おう。あんたの癒しの力は、途轍もない。あんたは、目がくらむほどの輝きをまとっているように観える。あたしは、これまでの人生であんたのような癒し手にあったことはないよ。若くしてそんな大きな力を持てば、皆、傲慢の病を患うことになる。だが、あんたは随分と謙虚だ。あたしはそれに驚いてるんだよ」

「私は……、力持ちみたいなものなんです」

「力持ち?」

「はい。一人で大きな岩を持ち上げて、深い穴を掘ることが出来るような力持ちです。確かに私の力は大きいかもしれません。だけど、その力だけでは何もできないんです。ただの力持ち一人だけでは、道を造ることは出来ない。道は、ただ切り拓くだけでは雨や地崩れですぐに駄目になると聞きました。道を造るには、難所を越える良い道筋を知っていたり、水捌けや地盤の固さを考えて道を均し、崩れないようにする技を持っていたりしないといけない」


 ユハは、シェリウを、そして仲間たちを見て、パニトゥを見た。


「そして何より、一人で闇雲に道を造っていたって、すぐに力尽きるでしょう。この道がどこに繋がるべきかを考えて、知識や技を備えて、そこに向かいたいという人たちと共に道を造らないといけないんです。……例え話が下手でしたね、ごめんなさい」


 表情を変えずに自分を見つめるパニトゥを見て、ユハは思わず謝った。シェリウのように博識であれば、聖典や古今東西の文献を引用して適切な言葉を選ぶことが出来るのだろうが、それができない自分の学の無さを責めるしかない。


「……いや、とてもよく分かるよ。あんたの気持ちはよく伝わった」


 パニトゥは口元を緩めるとナムドに視線を移した。


「カドラヒの坊やが娘っこ二人を寄越すなんて、血迷ったのかと思ったけど、とんでもない誤解だったね。あんた達がここに遣わされたのは、ウシュメルにとってとても幸運なことだ」

「やっと分かってくれたか、パニトゥ婆さん。あんたが頭の固い年寄りじゃなくて安心したよ」


 ナムドはにやりと笑う。パニトゥは顔をしかめた。


「まったく、カドラヒの坊やといい、あいつの所には礼儀知らずが揃ってるね。あんた達はこいつらの真似をしちゃあ、駄目だよ、ええと……、そう言えば名前を聞いてなかったね」


 ユハに顔を向けたパニトゥは、少しきまりが悪そうな表情を浮かべる。


「ユハと言います。よろしくお願いします」


 微笑んだユハは、一礼した。

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