第14話

 苦悶に満ちた表情が穏やかになっていき、荒い呼吸が浅く、規則的になっていく。

 

 男は、大きく息を吐くと、目を閉じた。


「ひとまず、これで大丈夫です。傷は全てふさがりました」


 顔を上げたユハは、振り返ると息を呑んで見守る男の家族に言った。その言葉を聞いて、歓声が上がる。


「ありがとうありがとう」


 涙をにじませた男の妻が、ユハの手をとった。


「まだ安心しないでください。傷をふさいだだけで完治はしていません。血もたくさん失っていますから、栄養を取って、定期的に薬を飲まないといけません」


 冷静なシェリウの声に、妻は表情を引き締めて、大きく頷いた。


 男は、漁に出ている時に水に潜んでいた魔物に襲われて、腹に大きな傷を負った。その傷は内臓にまで達するもので、医術による治療は絶望的なものだった。しかし、癒しの術ならばそれを治すことはできる。しかし、ただの切り傷や打撲と違い、臓腑を治すことは、並の癒し手には難しい。大きな魔力は当然として、人体に対する深い知識と、臓器の位置や傷の範囲、刻一刻と変化する患者の体調を“観る”力も要求される。


 ユハにとってもそれは大きな試練だったが、これまでの経験によって癒すことが出来た。それは、欠片の力に半ば支配された時の経験でもあったが、その時の記憶はユハの中で大きな力となって活きている。


 ユハは男の妻に微笑むと、眠ってしまった男の体の上に手をかざし、目を閉じる。手から感じる男の生命の響きが、脳裏で光と影と聞こえるはずのない音とが混在した奇妙な像となって形作られた。男の体を網のように駆け巡る生命の光が結ばれて人体を描き出す。その光の中に、微細な患核が僅かな熱を持って点在していた。その脈動は、小さな雑音のように感じられる。


 シェリウの言う通り、傷を負った際に入り込んだ毒がまだ体のあちこちに残っている。男の体力の落ちている今、癒しの力でその毒と戦うことは彼を衰弱させてしまう恐れがある。それよりも、薬を服用して毒を制し、徐々に体力を回復させる方が良いだろう。


 現状をシェリウに伝えると、シェリウは頷き手にした紙に薬の名や手順を書き連ねた。その紙を妻に手渡しながら、内容を読み上げる。彼女は文字を読めないが、シェリウの言葉を覚えるであろうし、忘れたとしても、村の長老や出入りする商人は読むことが出来るだろう。


 ひと仕事終えたことで安堵をの溜息をつくと、ユハは天井を見上げた。


 葦で組まれた天井は迫持アーチ型で、弧を描き、人の背丈の倍近くもあるほど高い。壁から天井までの曲線に沿って並び立ち、屋根を支えている柱も壁も葦を束ねたものだ。


 壁の隙間から風が吹き込む。


 湿気と暑さに覆われたこの地だが、なぜか壁越しの風は涼しく感じた。





「早速働いてもらうぜ」

   

 マムドゥマ村に逗留して数日後、カドラヒはそう言ってユハたちを駆りだした。勿論、それは急な話ではなく、カドラヒの紹介で癒し手として働くためだ。


 カドラヒの商会は、諸教派の人々と繋がりが深い。彼らの中でも貧しい者は、リドゥワ教区における聖王教会の助けを得ることが出来ず、病や怪我に苦しんでいる者も多かった。カドラヒはユハたちをそこに派遣することに決めたのだった。


「恩に着せるんだよ、ユハ。せいぜい信者を増やしてきな」


 あらかじめシェリウに頼まれていた薬草や薬品などを手渡しながら、カドラヒはにやりと笑った。


 修道女ユハにとって、癒しの施しはあくまで修行の一環だ。そんな思惑をからめることに大きな抵抗があったが、己を守るために決めたことだ。幸い、お金を取るわけではないので、その点については気が楽だったが、正教派の教えを伝道するような真似はするなと釘を刺された。確かに、癒しと布教を一揃えにして訪れるのは伝道僧の習いであったので、改宗を迫っているように思われてしまえば、諸教派の信徒にとって面白くないだろう。

 

 こうしてマムドゥマ村を発った一行は、リドゥワに戻ることなく、近くの川で舟に乗せられる。船頭は、リドゥワで運河を渡る際にも世話になった男だった。


 ユハと共にいるのは、シェリウ、ラハト、月瞳の君。それ以外にも、ナムドと、もう二人の黒い人ザダワフが同行していた。この二人の男は、一見するとマムドゥマ村の者に見える。しかし、実のところはスハイラ将軍がマムドゥマ村に置いていった第二軍の兵士だった。腰に吊るした質の良い刀だけがその証だ。


 やがてたどり着いたのは、広大な湿地。一面に広がるのは背の高い葦と、水、という光景だ。


 そして、舟を進めるうちに見えてきたのは、縦長で迫持アーチ型の屋根を持つ家屋が立ち並ぶ集落だった。その家屋は、ほぼすべてを葦を建材として建てられている。土壁や石壁の家屋を見慣れたユハにとって、それはとても奇妙に見えた。


 陸地の一部は整地されて水田になり、人々が働いている。水牛や大鐘虫といった大きな家畜を連れた人々の姿も見える。


 葦の間に立ち並ぶ家屋は、まるで水面に浮かんでいるようだ。そして、後にその印象は事実だと分かった。岸辺や小島に建てられた家屋が半ばだったが、多くの家屋が泥と井草で作った浮島に建てられているのだ。初めてその浮き島に降り立った時は恐る恐る足を踏み入れたが、いざ歩いてみると揺れはあるものの案外安定している。こんな物を作り上げた人々の技と知恵に、ユハは感心しきりだった。


 葦原の国ショナ・ウルク


 この地はそう呼ばれている。


 大河エセトワとその支流の周辺には、無数の湿地が広がっていた。特に下流域の湿地帯は広大で、その面積は一国に匹敵するほどだ。この地に暮らす人々はこの沼地に根差した生活をしており、周辺のウルス人やカザラ人には沼地のカザラニヴドカザラと呼ばれているが、この地の民は自分たちの事をウシュメルと名乗っていた。


 船頭を務める男も、この地の出身だという。

 

「俺たちの先祖が奴隷としてこき使われていた頃の話しだ。主人の所から逃げ出した逃亡奴隷を、ウシュメルたちはよく匿ってくれたのさ。今でも、仲良くさせてもらってる」


 ナムドはそう言って笑う。


「科人の類も気にせずに受け入れたから、諸王国からは煙たがられていたがな。お蔭で、今も周りからは胡散臭いと思われている。諸教派の信徒でもあるから、リドゥワの教会からも無視されているんだ」


 同行している第二軍の兵士はその横で肩をすくめた。


「今のユハにぴったりな土地ねぇ」


 月瞳の君の言葉はシェリウの表情を険しくしたが、ユハは苦笑するだけだった。


 ユハたちは、その日からすぐに点在する集落を巡りながら治療を始めた。医師や癒し手が不足しているこの地では、ユハのような優れた癒し手は引く手あまただ。最初の日に二人の子供の病を癒したことで噂はあっという間に広がり、すぐにあちこちから施療を乞われる忙しい日々が始まった。

 





 治療を終えて、家の外で別れの挨拶をしていたユハたちは、大きな声に顔をめぐらせた。


 こちらに向かってくる小舟を操る若い男が、ユハたちに手を上げて何かを叫んでいる。必死の形相の男は、近付くなり、浮島に飛び移った。


「見付けた……、やっと見つけた!」


 荒い息を整えながら、若者は言った。


「あんた達、癒し手の一行だろ! 頼む、うちの集落に来てくれ!」

「どうしました?」

「うちの子が、おこりの病にかかったんだ! 何度か高熱が出ては下がってを繰り返してる」

「それは危ないですね! 一刻も早く治療しないと!」


 ユハは、シェリウと顔を見合わせた。シェリウも厳しい表情で頷く。おこりは何度か発熱を繰り返して症状が悪化していく。そして、何日も長引く病ではない。死の訪れはあっという間だ。


「急ごう。案内してくれ」


 彼女たちを一瞥したラハトは、男の肩に手を置くと促した。男は何度も頷くと舟に飛び乗る。ユハたちも自分たちの舟に乗った。


 ウシュメルの二人は、早く、しかし慎重に舟を進める。

 

 上空では、空ノ魚の群れが飛び交っていた。


 羽虫を貪り満腹となった空ノ魚は乳白色に染まり、空へと舞い上がる。そして、そこにはそれを待ち構える鳥たちがいた。


 空ノ魚が蚊といった羽虫を餌とするとはいえ、それで獲り尽くすわけではないそして、蚊が原因となるおこりやその他の熱病、下痢、脹満といったこの地独特の病は、湿地で生活する者につきまとう宿痾しゅくあとして人々を悩ませていた。


「薬草は残ってる?」  

「勿論。熱冷ましを主にしてまだまだあるわ」


 ユハの問いにシェリウは大きな鞄を叩いて見せた。短い時間であったにもかかわらず、カドラヒは、シェリウの要求した薬草や薬品の大半を調達してくれた。シェリウは、知る限り全ての湿地独特の病を想定して薬を揃えている。おこり葦原の国ショナ・ウルクだけでなく、湿地や沼地が多い土地ではよく見られる病だ。はるか昔から医師や薬師、癒し手にとって宿敵のような病であったから、ユハもシェリウも対処法は学んでいる。しかし、進行が早く、確実に死に至る上に土地や患者によっては癒しの術が効果をしめさないために、知識と経験、観察力が必要とされる難しい病だった。


 患者の家は少し離れた集落にあった。


 島に建てられた家に飛び込むと、少年が荒い息と共に目を閉じている。周囲では家族が深刻な表情で見守っていた。

 

「癒し手を連れてきたぞ!!」

 

 男はそう言いながらユハたちを案内する。立ち上がり、歩み寄る家族たちにユハは落ち着いた表情で丁寧な挨拶を返した。こういう時にこちらが慌てていると皆が不安がることを理解しているからだ。


 ユハは、少年に縋るようにしている母親の肩にそっと手を置く。他の家族に引き離される母親に頷いて見せると、静かに、深く息を吸い込んだ。目を閉じて、少年の頭の上に手をかざす。すぐに忘我の境地に入り、不可視の力を感じ取る。同時に、己の中から湧き出る力と少年の生命とを重ねていった。癒しの術を練り上げていく中で、ユハの手が淡い光を帯び始める。


「お湯を沸かします。水を入れてもらえますか」

 

 シェリウの言葉に、ラハトは頷くと、鍋を手に水辺へ向かった。その間に、シェリウは鞄から薬草を取り出す。


 水を張った鍋を受け取ると、細かく砕いて乾燥させた紫沈草の葉を入れる。そして、鍋に触れながら聖句を唱えた。ゆっくりと湯気がのぼりはじめ、やがて泡立ち始める。湯の中で葉が躍った。


 この二人は只の癒し手や薬師ではない。ユハとシェリウの技を見て、見守る者たちの間に驚きと期待の声が漏れた。


 全身に様々な患核が広がっている。ユハは、おこり特有の症状を観てとった。急激に強い癒しの力を注ぎこんでしまっては、弱った身体には逆効果になるだろう。精神を拡散させながらも焦点を定める。ゆっくりと癒しの力を流し込み、熱を冷まし、関節や筋肉の痛みを和らげていった。


 紫沈草の葉独特の匂いが漂い始める。


 ユハはそれに気付いて忘我の域から戻ってきた。その傍らで、シェリウは煮出した薬湯を慎重に杯へと移す。


 薬湯の熱を冷ましているその時。


「パニトゥ様を連れてきたぞ!」


 中年の男が叫びながら駆けこんで来た。その後を老婆がゆっくりと入って来る。

 その老婆は、家にいるウシュメル女性と同じ衣装を着ているが、鳥の羽や水晶といった装飾品を身に付けており、ウシュメル女性特有の帽子も、他の女とは異なる刺繍で彩られている。


 老婆は、室内をじろりと見回すと、その視線をユハに止めた。その表情は厳めしく、不機嫌そうに見える。


「親父、もう癒し手に来てもらったんだ」

「癒し手?」


 若者の言葉に、中年の男は首を傾げた。


「ああ、最近噂を聞くだろ? あちこちの村で施療してる癒し手様さ。おとといには、キェムナの子も救われたんだ」

「それは聞いたが……」


 男は若者からユハに視線を移し、気遣うような表情で老婆を顧みた。


「おやまあ、皆が随分と騒いでいる噂の癒し手とやらはどんな奴かと思ったら、こんな小娘なのか」


 老婆は不機嫌そうな表情のまま言う。


「あの……」


 ユハは、突然現れた老婆に戸惑いの表情を浮かべた。


「すまん、癒し手様。こちらはまじない師のパニトゥ様だ。優れた癒しの技をもっていて、ここらのウシュメルは皆、世話になってる。うちの子がおこりにかかったから、俺が助けを呼びに行ったんだが、親父もパニトゥ様を呼びに出たらしい」


 若者の言葉に、ユハは頷いた。自分たちがどこにいるのか分からない状況では、馴染み深いまじない師を呼びに行くのは当然の事だろう。ユハは、立ち上がってパニトゥに挨拶をしようとするが、パニトゥはそれを手で留めると、聞いた。


「それで、あんたの見立てはどうなんだい?」

「今は癒しの術で病状を抑えています。ですが、おこりの毒は癒しの術では今すぐには消しきれないので、病を弱めた後に、薬湯を服用してもらおうと考えています」

「薬は何を使うんだい?」

「これを……」


 パニトゥは、シェリウが差し出した杯を匂いを嗅いで顔をしかめると、その手から叩き落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る