第30話

 月瞳の君が、弾き飛ばされるように倒れ、転がった。


「月瞳の君!」


 林を抜けた二人は、慌てて月瞳の君に駆け寄る。


 全身に傷を負った月瞳の君は、人の姿に戻っている。左腕の傷は特にひどく、皮一枚で繋がっているような有様だった。


「ユ……、ユハ」


 苦痛に顔を歪めた月瞳の君は、ユハを見て弱々しい声を発する。


 ユハは、すぐさま月瞳の君に左手で触れ、右手をかざした。恐怖と焦燥に強張っていた表情は茫洋としたものとなり、その目はここではないどこかを見ている。


 淡い輝きと共に月瞳の君の怪我が癒されていく。


 シェリウは聖句を唱えながら精神を集中させた。これで、定期的に波のように押し寄せてくる痛みを誤魔化すことが出来る。


 視線をユハたちから引き剥がし、野原へと向けた。


 ゆっくりと、剣を手にした炎瞳の君がこちらに歩んで来る。ただこちらへと近付いて来る。それだけでも押し寄せてくる恐ろしい威圧感。


 シェリウは思わず顔をそらした。


 視線の先では、ラハトが二人の修行者と激しく切り結んでいる。その動きはとても自分では追うことが出来ない速さだ。


 今ラハトに助けを求めれば、声を掛けただけでも集中を乱し、致命的な隙を生み出してしまう。これまでの経験で、シェリウにもそのことは理解できた。


 自分たちだけで切り抜けるしかない。


 シェリウは意を決すると、懐の素焼の小さな壺を握りしめた。ここまで何とか残っていた最後の雷の種。力は十分に溜まっている。


 ほとんどの聖王教徒には知られていない、恐ろしい言葉や難解な言葉が多く織り込まれた聖句を唱える。複雑な手順に則って手と指を動かして印を結び、力を練り上げ、術式を編んだ。


 雷の種に蓄えられた力を元にした術式に導かれ、大気を漂い、飛びまわる精霊が呼応する。怖ろしい破壊の力が励起れいきした。渦巻くように集い、暴れ回る凄まじい力にシェリウの精神と肉体は戦くが、何とかそれを抑え込み、形にしていく。


 ゆっくりとこちらに歩んで来る炎瞳の君。 


 印を結ぶ指先に痛みがはしり、限界が近いことを知る。印を結ぶというのは、精神と魔力を集中するための焦点であると共に、簡易的な法陣を肉体によって描き、構築する技だ。その印の中に収まる力ならば制御できるが、念入りに構築した法陣と比べて、その限界は低い。今のシェリウが組み立てる術式は、印を結ぶことだけではすぐに制御を失ってしまうだろう。


 シェリウはその限界の際を感じ取り、力を高めていく。


 強まる指の痛み。


 ここだ。


 シェリウは目を見開き、印をほどき、大きく聖句を叫んだ。


 純粋な雷の力が大気に解放され、猛る。


 それは、熱した石を慌てて放り出すような、ろくに狙いも付けていない力の解放だったが、近付いた炎瞳の君へぶつけるには十分なものだった。


 紫電がまるで玉のように集い、光を放ち、一瞬の轟音とともに出現した。


 激しい衝撃と眩さに、思わず顔をそむける。 


 すぐに視線を戻すと、すでに光は消え、煙と焦げ臭い匂いが漂っていた。草原は広い範囲で焼け焦げ、辺りに葉や土が飛び散っている。


 立ち込める煙の切れ間から、その顔半分が焼けた美しい顔が見える。


 すぐに風が煙を追い散らし、半身が黒く焦げた炎瞳の君が姿を現した。


「この痛みは聖戦の頃を思い出す……」


 炎瞳の君は、呟くように言うと、焦げた己の頬を撫でた。そこから、徐々に傷が癒えていく。


「大したものだ、人の子よ。魔術で私を傷付けた者は、久しくいなかった」


 炎瞳の君は、その橙色に輝く瞳でシェリウを見つめた。


 凄まじい疲労感が体を襲う。シェリウは、立っていることができずに、その場に膝をついた。


 意識が朦朧として、現実感が遠のく。 


 目の前に立つ炎瞳の君への恐怖すらも薄らぎ、強い倦怠感がシェリウから意識を奪おうとする。


 肩に手が置かれた。


 その手からは優しくも烈しく熱い力が流れ込み、朦朧としていた意識を覚醒させる。しかし、疲労は重く体に圧し掛かったままで、倒れ込まないようにするだけで精一杯だ。


 のろのろと視線を上げれば、ユハがこちらを見て力強く頷く。


「ありがとうシェリウ」


 ユハはそう言うと、右手に剣をもったまま一歩進み出た。


 止めようとするが、極度の疲労がシェリウの声すらも封じている。

 

 ユハは、炎瞳の君の前に立った。





 怖い。 


 炎瞳の君から発せされる威圧感は、不可視の暴力となってユハを圧倒する。沸き起こる恐怖が全身を縛り、気力を萎えさせようとする。


 しかし、剣の柄を強く握り、歯を食いしばって炎瞳の君を見据えた。


「分かたれし子よ。ここまで逃れてきたそなたの幸運を称えよう。それは、そなたのもつ欠片の力の証。だが、幸運の河の流れもいつかは途絶える。そなたの幸運なる旅も、ここで終わりだ」


 炎瞳の君は、ユハを見つめて言った。


 ユハは、大きく息を吸い込み、視線に力を込めて炎瞳の君に答える。


「私は、聖女王陛下の欠片を宿すだけの非才なただの修道女です。だけど、我らが姉に授かったユハ、という名と、そして私を助けてくれる大切な人たちを誇りにしています。私は、道具ではありません。私は、この誇りを守るために、あなた達には決して屈しない」


 言葉と共に、剣から、ユハの体から微かな光の粒子が発せられる。ユハ自身はそれに気付いていなかったが、陽光の下でも彼女の体はまるで光をまとっているように輝いていた。


 炎瞳の君の目が大きく見開かれる。


 そして、口を開こうとした瞬間。


「いたぞぉ!!」


 野に大きな声が響き渡る。


 丘の向こうから、大勢の黒い人々ザダワーヒが姿を現した。


 おそらく、五十人は越えるだろう。手に武器や農具を持った屈強な男たちは、汗だくで荒い息と共にユハたち目掛けて走って来る。


 駆け降りてきた人々の先頭を駆ける、巨躯の男を見てユハは声を上げた。


「ダリュワさん!」


 よく見れば、隣を走っているのは弟のナムドだ。続く他の男たちも皆、見覚えのある顔ばかりだった。


 彼らは、マムドゥマ村の人々だ。


 リドゥワにいるはずのダリュワが、まるで正反対の方向から、マムドゥマ村の人々と共にやって来た。そのことに、ユハは混乱した。


 この大勢の乱入者たちに、ラハトと二人の修行者も戦いを止めた。薄暮と群青は、すぐに炎瞳の君の側に駆け寄る。ラハトも、彼らを見ながらユハの傍らに立った。全身に浅からぬ傷を負ったラハトを見て、ユハは思わず顔を歪める。ラハトはユハの顔を見て小さく頷いた。


「ユハ! 大丈夫か!!」


 駆け寄ったダリュワと男たちは、ユハたちを守るようにして集まった。ユハは皆の顔を見回しながら問う。


「ダリュワさん! どうしてここに!?」

「リドゥワから逃げ出したとすれば、ナムドの教えた道を通るはずだからな。何とか間に合ってよかった」 

「……いえ、そうではなくて、どうしてマムドゥマ村の人たちとここに来たんですか?」

「お前たちを守るためだ」


 ダリュワは、厳めしい表情のまま答えた。その答えの意味が分からず、ユハは問い返す。


「守る?」

「ああ。リドゥワから逃げ出せていたなら、安全な所まで守り届ける。もし太守に捕まっていたなら、救い出す。その為に、皆を連れてきた」


 驚くユハに、マムドゥマ村の男たちは笑顔で頷いて見せた。


「そんな……。せっかくカドラヒさんが巻き込まれないように考えていたのに」

「……ユハ。お前たちやカドラヒは、良かれと思ってこうしたんだろう。だが、俺たちにとってこれは屈辱だ。俺たちマムドゥマの者は、お前たちに救われた。それは、千金を積んでも返しきれない恩だ。そんな恩人を見捨てては、アシュギ様やご先祖の名誉と魂に傷をつけることになる。これは、俺たちの問題だ。それなのに、お前たちもカドラヒも、俺たちに話を通さずに、好き勝手に話を進めた。だから、俺も勝手にすることにした」


 愕然としたユハに答えるダリュワの表情は、微かな怒気を帯びていた。


「ユハ、あんたは兄貴が皆を脅しつけたと思ってるだろ。大丈夫だ。皆、『癒し手イス・シーファ』の危機と聞いて、黙っていられなかったんだ。決して強制されたわけじゃないぜ」


 ナムドが笑みを浮かべ、小さく頭を振った。


「そうだ。これは商会とは関係ない。マムドゥマの人間が勝手にしていることだ」


 ダリュワの傍らに立つ男が答える。


「あなた方を見捨ててはアシュギ様やご先祖に面目が立たんよ」

「あんた達は、我々の命を救ってくれた。今度は、我々があんた達の命を守る番だ」


 他の男たちも口々に言った。


「皆さん……」


 大きく心が揺れる。


 それは、大勢の好意を受けたことによる感激と、そして、皆を巻き込んでしまったという動揺がない交ぜになったものだ。


 自分たちを庇うということは、太守どころか、聖王教会を敵に回すということになる。今更ながら、自分の境遇を正直に伝えていないことを後悔した。


 炎瞳の君を見る。


 教典にある炎瞳の君は、戦列の只中に躍り込み、殺戮の嵐を巻き起こしたという。もしここで炎瞳の君が容赦なくその力を振るったならば……。マムドゥマの人々が血の海に沈むことを想像して、ユハは恐怖に震えた。


 そして、炎瞳の君がおもむろに口を開いた。


「分かたれし子よ。我が“獣”になれば、その者たちの首をそなたの前に積み上げることは容易い。そなたの所縁の者たちなのだろう? それでよいのか?」

「なめるなてめえ!」

「こっちは何人いると思ってるんだ!」


 穏やかな口調で語られる恫喝に、怒りの表情を浮かべて男たちが叫ぶ。


 炎瞳の君は表情を変える事無く男たちを一瞥した。


 それだけで、男たちはどよめき、怯えた表情で後退る。


 炎瞳の君から発せられる、まるで砂漠から吹き付ける熱風のような威圧。呼吸が浅くなり、涙がにじむ。


 しかし、同時にユハの周りにある光が増した。剣が鳴り、満ちた力が恐怖を打ち消す。


 ユハは、炎瞳の君を睨み、言った。


「そんなことは許しません」


 己の中から迸る力のある言葉。


 何かに打たれたように、炎瞳の君が仰け反り、一歩退いた。


「『癒し手イス・シーファ』……、其方そなたなのか? ……いや」


 呟くような炎瞳の君の言葉。


 険しい形相のダリュワが、恐怖を振り払うように大きな声でえた。


「俺たちは誰だ!?」


 その声に烈しく叩かれたように、男たちの口から声が弾きだされた。


「清貧なる剣の同胞はらから! 聖戦士アータカの裔!」

「清貧なる剣は恩義を忘れない! 命の恩義は命をもって報いる!!」 

「『癒し手イス・シーファ』を守れ!!」


 雄叫びと共に、男たちは一斉に動いた。棒や鍬、槍を持つ者は地を突き、武器と盾を持つ者は打ち合わせ、片手の空いている者は自らの体を叩き、力強い拍子を刻み始める。そして、口からは勇ましい歌声が放たれた。それは、聖戦に赴く戦士を称える古い歌だ。


 不揃いだった男たちの声はやがて重なり合い、一つの大きな歌となり、響き渡る。


 炎瞳の君は動かない。


 ただ、男たちを見やって微かに目を細める。そこに、この場に相応しくない郷愁の感情を感じ取ったような気がして、ユハは戸惑った。


 その時、男たちの歌声を切り裂くように、甲高い音が響き渡った。


 鳥の鳴き声にも似たその音は、地上ではない、頭の上から聞こえる。


 ユハは、思わず空を見上げた。


 雲一つない青空を、五人の翼持つ人が舞っていた。


 翼人だ。


 ユハは驚き、目を凝らす。


 それほど高空を飛んでいるわけではない為に、その姿はここからでもよく見える。


 皆、軽装の鎧を身につけ、弓や剣、槍といった武器を携えている。その装束には統一感があり、彼らが只者ではないことは分かった。その翼人たちのうちの一人が、笛を吹いている。それが甲高い音の源だ。


 四人の翼人が、ゆっくりと地上へと舞い降りる。そして、ユハたちから少し離れた小高い丘の上に立つ。空に残っていた笛吹きの翼人は、それを見届けた後、飛び去って行った。


 突然の空からの乱入者たちに、皆が沈黙して成り行きを見守っている。


 丘に降りた翼人たちのうち三人が弓を手に取り、矢をつがえた。そして、ゆっくりとその矢を丘の下、彼らを見上げる者たちへと向ける。


 弓矢を構えていない一人が進み出ると、鋭い視線で皆を睥睨した。


「我々は第二軍、アタム・ヤグズィド・イムルである! 衆を頼んで争うことは、王国法によって禁じられている!! 双方、刃を収めよ!!」 


 翼人兵が叫んだ。


 第二軍といえば、北の国境いを守っている軍団。ユハにはその程度の知識しかない。その第二軍の兵士がなぜこんな所にいるのか、ユハには分からなかった。


「お待ちください、名誉ある軍団兵よ。我々は王都アタミラよりやってきた異端審問官です。この者たちは異端の罪を犯した者です。世俗の方々には関わりのない……」

「黙れ!」


 恭しく一礼した後の薄暮の言葉を、翼人兵は大声で遮った。


「我らは軍団の先鋒の役を務めるのみ。お前たちが誰であろうとどうでもいい。ただ、ここで争いが起きようとしていたことだけが事実だ。申し開きは後で聞く。今はここで大人しくしているんだ」

「先鋒ということは……、今から本隊がここに来るということですか? 我々にそれを待てと?」 


 薄暮の問いに、翼人兵は誇らしげな表情で答えた。 


「そうだ。我らアタム・ヤグズィド・イムルは勇猛、かつ迅速だ。お前たちを待たせはしない。……光栄に思え。将軍閣下がお出ましになる」

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