第28話

 ユハたちは、深く草の生い茂った丘の細い道を歩んでいた。


 胸まで水に浸かったために、月瞳の君を除いて皆、濡れそぼったまま歩を進めている。


 汚泥にまみれ、水を吸った服は重く不快だ。そろそろ夜が明けるが、この辺りの土地は湿気が多いため、朝日を浴びてもそう簡単には服は乾かないだろう。しかし、ここで足を止めるわけにはいかない。


 大きな街道を進むことは出来ない。


 追跡の手を逃れるために、ユハたち一行は、ナムドに教わった小道を辿り一路西へ向かっている。


 森や丘を抜ける険しい抜け道は、時に生い茂った草木に阻まれて道でなくなる時もあった。それでも、太陽が天の半ばに昇った頃には、見晴らしの良い平野の道へとたどり着く。しかし、この道も言わば間道の類であり、森や丘に囲まれ、人の行き来も少ないようだった。普段の旅ならばそれは不安な要素だったが、今はそれが安全だと感じられるのは皮肉な話だ。ナムドが同行してくれたならばもっと効率よく進めるのだろうが、残念ながらそれは望むべくもないことだ。 


「少し休もう」


 ユハとシェリウに目をやった後、ラハトが言った。重たい体を引きずるように歩いていたユハは、すぐに同意する。


「……疲れた」


 見通しの良い斜面に腰を下ろしたシェリウが、溜息と共に呟いた。隣では月瞳の君が身を投げ出すように寝転ぶ。


 中天の太陽に灼かれた体は熱く火照り、草原から立ち上る湿気によって息苦しいほどだ。未だ濡れたままの重い衣服によって不快さは増している。ただ、昨日のような爽やかな風が何度も吹き付けてくることが唯一の救いだった。


 夜までに服が乾くと良いな。ユハは襟首を前後させて風を送り込みながら思った。


 一際強い風が吹く。ユハは、風に踊る長く伸びた髪を撫でつけながら、道の先に目を凝らす。


 突然、月瞳の君が跳ね起きた。


 それに気付いた皆が月瞳の君を見る。


「どうしました?」


 微かに顔を上げ宙を見るように顔を巡らせていた月瞳の君は、大きく目を見開いた。


「……まずい」

「え?」

「まずいまずいまずい! 姉さんが来る!!」


 月瞳の君は、悲鳴のような声を上げる。


 背後から届く、怖ろしい獣の咆哮。


 来た道に茂っていた林から、巨大な影がこちらに駆け寄って来る。


 その巨大な獣は、立ち上がり身構えていたユハたちの頭上を飛び越え、降り立った。それは、額に紋様が描かれた巨大な雌獅子だった。


 獅子は、雷鳴のような咆哮と共に鋭い牙を剥き出しにする。その咆哮と威嚇は、凄まじい力となってユハに襲いかかった。


「げ、月瞳の君、あれは、あなたのお姉さん……なんですか?」


 震えるユハの問いに、月瞳の君は泣き出しそうな顔で頷いた。


 月瞳の君の言葉を信じるならば、この巨大な獅子は聖女王の使徒、炎瞳の君ということになる。魂まで恐怖させるようなこの威圧感は、『畏怖の女』という異名で恐れられた戦場の使徒だとすれば納得できた。


 もう一度獅子は吼える。そして、次の瞬間、そこには長身の女が立っていた。


「姉さん……」


 月瞳の君は、強張った表情で一歩進み出た。


「六十年ぶりだな、妹よ」


 腕組みした炎瞳の君が、おもむろに口を開く。


「そんなになるかな……。姉さんも、大聖堂から出るのは久しぶりなんじゃないの?」

「そうだ。そして、そのままこんな所まで駆り出された。妹が愚かな真似をしたお蔭でな」


 問いかける表情豊かな月瞳の君と、答える無表情な炎瞳の君は対照的だったが、その顔立ちはどこか似ていた。


「愚かな妹は放っておいて、のんびり大聖堂で瞑想してくれていればよかったのに」

「身内の不始末だ。身内で片付けるしかあるまい」

「不始末……。私はそう思ってはいないけれどね」

「お前にそう思わせるのは、その分かたれし子か」


 炎瞳の君の燃えるような瞳が、こちらを向いた。その力に射すくめられて、ユハは固まる。


「……なるほど。智慧の使徒の言葉も納得できる。欠片の輝きが眩しいほどだ」


 炎瞳の君が目を細めた。心なしか、身を縛る力が軽減したように感じる。


「その娘は、あの剣を携えているのか?」


 そう言った炎瞳の君の目が見開かれた。月瞳の君は、微かに口元を緩める。


「そうよ。このは、剣を託されたのよ。それだけでも、特別なのが分かったでしょう? 姉さん、ユハを教会や聖導教団に渡しては駄目なのよ。それでは、決してあのは目を覚まさないわ……」


 月瞳の君は縋るような表情で言う。


「それは、我らの決めることではない」

「そうやって黙って従ったまま、百年が過ぎたのよ。結局あいつらは、百年を費やして何も変えることが出来なかった。だとしたら、そろそろ別の方法を試すべきだと思わない?」

「だとしても、それはその娘が大聖堂に還ってから考えるべきことだ」

「姉さんの分からず屋……」


 月瞳の君は、炎瞳の君を睨み付けた。


「……時間稼ぎか」


 ラハトが呟くように言うと振り返る。ユハもその言葉に振り返った。 


 そこには、いつの間にか二人の男が立っている。


「ふう……、ようやく追いつきましたよ」


 中年の男が、笑みを浮かべて言った。その隣に立つ青年が、ユハを、そしてラハトを睨み付ける。


 アタミラで自分をさらったスアーハの修行者たち。ユハは、彼らを見て息を呑み込んだ。


「……おや、一人、道連れが増えていますね。どうやら、只者ではないようだ」


 中年の男、薄暮は、イェリムを見て目を細めた。隣の青年、群青と顔を見合わせて頷く。そして、すぐに笑顔に戻ると、ユハに顔を向けて小さく両手を広げた。


「さて、分かたれし子。ご無沙汰しておりました。聖王教会があなたを待っています。お迎えに上がりましたよ」


 にこやかな薄暮の言葉に、ユハはその目を見据えて答える。


「私はあなた達には従いません」

「従う、従わないではありませんよ。分かたれし子は、聖女王の欠片。即ち、聖女王陛下の物なのです。道具は、ただ使われるだけ。持ち主の元に戻ることを拒むことなど許されません」

「私はイラマール修道院の修道女、ユハ。道具などではありません」


 沸き起こる感情を抑えながら、努めて静かな、しかし力を込めた言葉を発する。

 

 薄暮は微かに肩をすくめると、ラハトを見た。


「ふむ。では、『羽筆』。いや、ラハトだったかな? 君は分かたれし子を差し出すつもりはないか?」

「ユハを守るのが俺の仕事だ」

「ユハを渡すわけがないでしょう! さっさと帰ってください!」 


 割り込むように、シェリウが叫んだ。薄暮は、笑みを深くしてシェリウに顔を向ける。


「シェリウさん。アタミラでは大変お世話になりました。あなたのおかげで我々はまだまだ未熟であると思い知らされた」


 その丁寧な口調に、シェリウは戸惑いの表情を浮かべた。


「あなた達が分かたれし子を差し出さないというのならば、仕方がありません。これも良い機会だ。シェリウさん、あなたには指教のお礼をしなければなりません。ラハト、君にもね」


 薄暮はそう言って笑みを深める。隣に立つ群青が一歩進み出た。炎瞳の君は未だ動かない。


「……ユハ」


 月瞳の君が耳元で囁く。


「姉さんはきっと私を狙ってくるわ。悪いけど、あなた達を助けてあげられないと思う」

「月瞳の君。危ないと思うなら、炎瞳の君に従ってください。私は決して怨みません」


 ユハは、月瞳の君を見つめて言った。自分は分かたれし子として定められた運命に屈するつもりはない。しかし、使徒である月瞳の君がそれに付き合う必要は無いのだ。これまで、自分は何度も彼女に救われてきた。それだけでも、返しきれない恩を受けている。そんな月瞳の君に、自分の姉と戦い使徒であることに逆らえと願うことはできなかった。


 月瞳の君は、ユハを見つめ、そして泣き出しそうに表情を崩す。


「馬鹿ねぇ……。私があなたを離すわけないじゃない」


 ユハの頭を撫でながら、月瞳の君は答えた。





「妹よ、どうするつもりだ。もう、共に木陰で微睡まどろむつもりはないのか?」


 炎瞳の君が、重々しい口調でたずねた。月瞳の君は笑みを浮かべて答える。


「残念だけど、私たちが微睡まどろむ木陰は失われてしまったのよ。だから、私はそれを取り戻すためにユハと共にいるの」

「そうか。ならば仕方がない」


 微かに首を傾けた炎瞳の君。月瞳の君の顔が揺らぎ、猫の頭に変ずる。その手には、長い柄の爪のような鎌が握られていた。


 戦いが始まる。


 シェリウは、大きく息を吸い込む。


 伝説の使徒と、スアーハの修行者。この恐るべき敵に勝つことが出来るのか。懐疑の念が恐怖と共に押し寄せるが、聖句を唱え、それを押し殺した。


 短い言葉を繰り返していくうちに、心が静まり、精神が集中し、感覚が研ぎ澄まされていく。


 薄暮が右手を上げた。


 次の瞬間、シェリウは遠くの林に大きな力を感じ取った。その力は、直線を描いて、自分にまで繋がっている。そのことに気付く。


 風を切る音と共に何かが飛来した。


 イェリムがシェリウの前に跳び込む。


 凄まじい音とともに、イェリムの黒髪と、そして右手が吹き飛ぶ。 


 シェリウの眼前で引き千切れた指と手の断片が宙を舞い、そして消えた。少し離れた地面に、鈍い音とともに小さな水晶玉が落下する。


 魔弾だ。


 大聖堂の地下で、聖導教団の魔術師が使った魔術。魔力を帯びた弾が、己の体を貫いた。その魔弾がイェリムの体を傷つけたのだ。


「イェリム!!」

「大丈夫です、シェリウ」 


 イェリムが振り返り微笑んだ。しかし、シェリウには、彼女の力が乱れていることが感じ取れる。分霊の体は半ば幽体であり、半ば物質だ。その曖昧な状態の肉体は、維持する力を上回る魔術的な攻撃を受ければ、大きな傷を負うことになる。太守の館では、呪付された剣で傷つけられてもその傷はすぐふさがったが、魔弾によって失った髪と右手は、失われたまま形を取り戻していない。


「残念、はずれましたか」


 薄暮は肩をすくめた。


「棗は、シェリウさんに是非ともお礼がしたいと張り切っていましたからね。どうやらあなたの使い魔は優秀なようだ。棗もまだまだ修行が足りないようですね」

「イェリム、シェリウ、お前たちは守りに徹しろ。このままだと、撃ち殺されることになる」


 ラハトが薄暮と群青から目を離さずに言った。


「でも、魔弾の射手を何とかしないと!」

「棗はもう違う場所に移動している。隠れ場所を探している間にまた魔弾を撃ち込まれるぞ。棗を追い詰めたとして、奴は魔術だけでなく、斬り合いも得意だ。俺は、こいつらを相手にしなければいけない。お前たちだけで相手取れるのか?」

「わ、私とイェリムなら!」


 太守の館では、兵士たちとあの姉妹たちを相手に戦えたのだ。たった一人の相手に負けるはずなどない。そう思ったシェリウを、ラハトは振り返った。その冷たい視線に体が凍る。


「自惚れるな。俺たちは敵の選んだ戦場にいる。己の縄張りの中にいるスアーハの修行者があの女たちと同じだと考えると、すぐに殺されるぞ」

「私もいます!!」


 ユハが叫んだ。


「ユハ!? 何言ってるの!?」


 シェリウは驚きの声を上げる。


 ユハは引き攣った笑みを浮かべてシェリウを見た。背に負った剣に触れながら言う。


「言ったでしょう? 私だってシェリウを守るって。この剣の使い方が分かるようになってきたんだよ」

「でも!」 

「こんな言い方は良くないかもしれないけど、あの人たちは私を殺すことはできないんだ。だからシェリウ、私を盾にして! 私は、祝福の剣で魔術を打ち消すことが出来る。きっと、魔弾を防ぐこともできるはずだよ」

「た、盾って……」


 ユハのあまりに率直で危険な言葉に、絶句した。溜息をついた後、決意に満ちた表情のユハに言う。


「あいつらの目的はあんたなのよ。あんたが真っ先に捕まったら、それでお終いなの、分かってる?」

「だから、三人で立ち向かおう。イェリムは強いって、教えてくれたじゃない。私を盾に、それに餌にすれば、きっと魔弾の射手は出てくる。勝てるよ!」


 ユハの言葉はあまりに楽観的で危うい。シェリウはそう感じたが、咄嗟に反論できない。


「シェリウ。ここはユハを信用なさい。私とラハトが助けられない以上、あなた達だけで切り抜けるしかないのよ」

  

 月瞳の君が静かな口調で言った。シェリウは動揺を抑えながら、ラハトに答えを求めた。


「ラハトさん……」

「皆、もう心を決めた。シェリウ、後はお前がどうするのか決めろ」


 ラハトの答えに、シェリウは顔を歪めた。深く息を吸い込み、皆を見回す。

 

「……分かりました。ユハと一緒に戦います」

「いつまで女と戯れてるんだ、羽筆ぇ!」 

 

 シェリウの言葉を切り裂くように、群青の声が発せられた。


「さあ、この前みたいに俺たちを倒して見せろ。今度はきちんと止めを刺せよ。さもないと、地の果てまで追い続けてやる」 


 群青は挑発するように左手を差し出した。その指先から、彼の体は陶器のような艶を帯びた白色に変化していく。そして、すぐに全身の半ばまでが白く変貌した。左腕には陶器のような白い短槍が握られている。


「逃れたいなら、殺してみろ」


 赤い瞳を輝かせて、群青は言った。

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