第27話
朝の市場はすでに多くの人々が行き交い、喧騒に支配されていた。
暴徒たちによって破壊され、焼打ちに会った商店も少なくないが、それでも人々は必死に日常を取り戻そうとしている。
ユハと月瞳の君は、そんな賑わう街路を人々の間を縫うようにして、小走りで駆けていた。
その背後からは、カフラという男を先頭に、何人もの男たちが追ってくる。彼らは一見するとただの市民のように見えるが、その足並みが乱れることなく、ここまでずっとユハたちから離れることはない。おそらく、ラアシュに仕える間者の類なのだろう。
月瞳の君の足ならば、たとえユハを抱えていたとしても、彼らを振り切るのは容易い。あえてそうしないのは、ぎりぎりまで追手を自分たちの方へ惹きつけておきたいからだ。
とはいえ、ここまで走りづめのユハはさすがに苦しくなってきた。思わずよろめき、己の体力の限界が近いことを感じる。
「辛くなってきた?」
何ら疲れの見えない月瞳の君が、ユハを見た。荒い息遣いとともに、ユハは頷く。
「もうそろそろあいつらを撒こうか。ここまで連れて来たら十分でしょ」
月瞳の君はそう言うと、立ち止まった。ユハもそれに従う。月瞳の君は振り返り、自分たちを追ってくる男たちを一瞥して大きく息を吸い込んだ。
「助けてぇ! 殺される! 刃物を持ってる!!」
月瞳の君は、恐怖に満ちた叫びをあげてカフラ達を指差す。何事かと振り返った人々は、若い娘二人を見て、そして指差した先の男たちを見た。
この市場にいる人々のほとんどは、大なり小なり先日の暴動の被害を受けている。その為、月瞳の君の叫びに敏感に反応した。
「てめえら、ここでまた何かするつもりか!!」
「いい加減にしろよこの野郎!!」
血の気の多い者たちが、怒りの声と共にカフラ達へ向かった。
「あんた達、大丈夫かい! こっちに来るんだ!」
店先の女が慌ててユハたちに声をかける。
「怖かったですぅ」
涙ぐんだ月瞳の君が、ユハの手を引き女の方へ向かった。ユハにはとてもそんな演技は出来ない為、強張った表情のまま、無言だ。幸いそれは、恐怖で何も言えないように見える。
振り返れば、カフラ達と取り囲んだ人々が、大声でやり取りをしている。
女に導かれて店の横の路地に踏み込んだ二人は、そのまま駆け出して、さらに細い道の奥へ向かった。
「跳ぶわ」
微笑んだ月瞳の君はそう告げると、ユハを抱きかかえて、素早く跳躍した。
浮遊感と共に、建ち並ぶ商店の屋根へと舞い上がる。
次々と屋根伝いに跳び、駆け、ラハト達と待ち合わせている方向へ向かった。市場から離れた所で再び路地に降り立つ。
「はあ、疲れた。……とりあえず一休みしようか」
月瞳の君は、そう言ってユハをおろした。ユハは息を吐きだすと地面に立つ。この人間離れした疾走に慣れてしまったが、それでも疲れを覚えてしまう。
ここは、どうやら特に暴動の被害が大きかった地区らしく、焼け落ちた家屋が目立つ。人通りもまばらで、焦げ臭い匂いが未だ漂っていた。
辺りを見回していたユハは、違和感を感じて振り返った。聖句を唱え、精神を拡大して目を凝らす。
「どうしたのユハ?」
その様子に気付いたのか、月瞳の君が首を傾げる。
「まだです! まだ追って来てる!」
ユハの目が、地を這ってくる存在を“観た”。それは、半ば幽界に身を置いた、肉眼では見ることが出来ない不可視のモノだ。まるで蛇のように身をくねらせたそれは、地に差した人の影のような姿だったが、全身に、無数の目が浮かんでいる。
「本当だ。ユハ、鋭いわねぇ」
月瞳の君が顔をしかめる。その瞳が細くすぼまった。
その影の持つ力には覚えがある。マムドゥマ村で、祝福の木に憑りついていた妖魔と似た気配を帯びているのだ。気付かれたことを察したように、影は速度を増した。
細い人の形をした影は拡大し変貌して、まるで巨大な手や鉤爪のような形となる。まだ遠くにいるというのに、禍々しい気配はこちらへ押し寄せ、ユハの感覚を圧倒した。あの影に捕まれば、魂そのものを囚われてしまう。ユハは直感的に理解する。
剣が鳴った。
剣が求めている。それを感じ取ったユハは一瞬躊躇い、そして意を決した。背に負った剣の柄に手を伸ばすと、何の力みも見せずに抜き放つ。影が放つ、鎖のように縛り付けようとする気配が消え去った。
剣の鳴る音と呼応するように、己の中の力が高まっていく。
大きく広がった影が迫った。
ユハは聖句を唱えながら剣を逆手に握り直す。そして、その刃を地面に突き立てた。僅かに遅れて、影がユハへ肉薄する。
影が刃に触れた瞬間、凄まじい力がユハを襲った。まるで全身が軋むようなその力に抗しながら、聖句を唱え、刃の先へとその精神を集中する。己の内なる欠片の力がまるで奔流のように溢れ出そうとするが、それをユハは必死に制した。己の中を巡る力を汲み出し、導き、整え、剣へと流し込む。それは、時間にしては僅かなものだったが、ユハには無限の苦行のようにも感じられた。
次の瞬間、向かってくる影は、その勢いのままに直立する刃によって真っ二つに切り裂かれた。巨大な鉤爪だった姿は、地面の上で風に吹かれた塵のように散り散りとなって薄れ、消えていく。
そして、気配は完全に消え去った。
「大分使いこなせるようになったじゃない」
安堵の吐息を吐きだしたユハの傍らで、月瞳の君は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「シェリウ!!」
ユハの呼び声に、シェリウは顔を上げた。歩を早めたユハへ、シェリウも駆け寄る。
「ユハ!!」
二人は、ぶつかるように力強く抱き合い、頬を寄せ合った。
「大丈夫? 怪我はない?」
顔を離したユハは、シェリウを見つめる。涙をにじませたシェリウは、深く頷いた。
「良かった……、本当に良かった……」
ユハはもう一度、シェリウに頬を寄せ、背に回した手に力を込める。
「ユハ、ごめんね。あたしのせいで、あんたを危険な目に合わせちゃった……」
「……シェリウが謝る必要なんてないよ。全ては、私が原因なんだ。本当に謝らないといけないのは、私の方だもの……」
「そんなことない」
シェリウは、強く頭を振った。
「あたしは自分の意思でユハと共にいるんだ。だから、あいつらに捕まったのはあたしの失敗。本当は幾らでも上手くやれる方法があったのに、馬鹿な真似をして、皆に迷惑をかけてしまったのよ。自分が助かるためにユハを囮にするなんて、護衛失格よ……」
目を伏せたシェリウを見て、ユハは思わず叫ぶ。
「馬鹿なこと言わないで! 私は、シェリウを護衛だなんて思ってない! シェリウは私にとって、かけがえのない姉妹なんだよ。シェリウが私の事を守ってくれるように、私だってシェリウを守るの!」
ユハはシェリウの肩を掴み、その目を見つめる。見つめ返すシェリウの瞳が揺れた。
「ユハ……」
「はいはい。いつまでたっても終わらないから、それくらいにしなさい」
月瞳の君はユハとシェリウの頭に手を置くと、ポンポンと軽く叩いた。
離れた二人の元へ、一人の娘が歩み寄る。見慣れないその少女を見て、ユハは戸惑った。この美しい黒髪と鳶色の瞳を持った少女は、シェリウと似ている。まるで外見も違うというのに、なぜかユハはそう思った。
「初めましてユハ。私は、イェリムといいます」
「イェリム……、もしかして、シェリウの分霊だったっていう……」
ユハは驚きの表情を浮かべてシェリウを見た。シェリウは頷く。
「そう。イェリムはあたしの分霊。館から逃げ出すために助けてもらったの」
イェリムは、シェリウの母親を殺した恐ろしい存在。ユハはそう思っていたために、あまりに穏やかそうなその表情を見て困惑を深めた。
「シェリウ。あなた、ちゃんとこの
月瞳の君が冷静な口調で問う。シェリウは強張った表情で答えた。
「イェリムは友達なんです。そんな言い方をしないでください」
「ああ、そう。シェリウがそう言うなら、構わないわ。シェリウの友達なら、私の友達ね。よろしくイェリム」
一転して笑顔を浮かべた月瞳の君に、イェリムも微笑んだ。
「はい、よろしくお願いします」
「ラハトも、良くやったわねぇ。あんな派手な狼煙、驚いたわ」
月瞳の君の言葉に、ラハトは小さく頷いた。ユハは、ラハトに頭を下げる。
「ラハトさん、無茶を言って、本当にすいませんでした」
「それが俺の仕事だ」
静かに答えるラハトに、ユハは思わず笑みを浮かべた。皆が無事にここで出会えた。そのことに安堵する。この後にさらに困難が待ち受けていることは分かっていたが、まずはシェリウを救い出せたことを素直に喜びたかった。
「ユハ……。シェリウを救ってくれてありがとうございました」
一歩進み出たイェリムが一礼した。その言葉に、ユハは首を傾げる。
「え? シェリウを救ったのはラハトさんとあなたでしょう?」
真剣な表情のイェリムは、小さく頭を振る。
「いえ。私が感謝しているのは、シェリウの魂を救ってくれたことです」
「魂……?」
「はい。私が過ちを犯した後、シェリウの魂は暗黒の牢獄に囚われていました。私は何とかしたかったけれど、シェリウの元に赴くことが出来なくなってしまった。それに、もしシェリウの前に現れたとしても、きっとシェリウは私を許してはくれなかったでしょう」
「それは……」
「でも、あなたがシェリウを牢獄から解き放ってくれました。あなたのお蔭でシェリウはまた笑うことが出来た。そのことを、本当に感謝しているんです」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、私だって何度もシェリウに助けてもらってきたんだ。もしシェリウがいなければ、きっと私は……、今の私ではいられなかったと思う。だから、あなたが……、シェリウが感謝する必要なんてないんだよ」
ユハはそう言ってイェリムを見て、シェリウを見た。シェリウは、照れたように顔を逸らす。
「……やはりあなたは、魂の伴侶と呼ぶにふさわしい人」
微笑んだイェリムは呟いた。
その大袈裟な言葉にユハは驚き、そして納得する。確かにそうなのかもしれない。初めて会った時から今まで、シェリウと自分は深く繋がっていると感じていた。魂の伴侶という言葉は、それを表すに相応しいように思える。
「そうだね……。私もそう信じてる」
ユハは微笑んだ。
夜を待って、ユハたちが向かったのは、リドゥワでも外れにあたる地区だ。
戦乱の続いたウルスの地において、都市とは即ち城壁に囲まれた土地ということになる。リドゥワもその例外ではない。この巨大な街は、港を除けば、分厚い城壁に囲まれていた。
リドゥワから脱出するためには城壁を越える必要があるが、当然のことながら、城門から堂々と出ていくことはできない。ラハトは、こういった非常事態の為に、リドゥワからの脱出路を見つけ出していた。
それは、一つの暗渠だ。
リドゥワは運河や水路が街中に張り巡らされた水運の街でもある。その為に、他の都市と比べてもその城壁はどうしても水の流れを考慮したものにならざるを得ない。大河エセトワは決して穏やかな河ではない。時に増水、氾濫し、荒々しくその力を振るう。それに対処するために、リドゥワは様々な排水設備が整備されていた。
今、松明の明かりに照らされてユハたちの前にあるのも、そんな水路の一つだった。
しかし、小さく細い暗渠は長い間その役割を果たしていないのか、生い茂った茂みに覆われ、半ば姿を隠している。水路の水の流れもほとんどなく、澱んだその水面は、夜であることも相まって、暗闇をそのまま落とし込んだような色をしている。この土地もリドゥワの外れの貧民街の中にあり、おそらく行政にも忘れ去られ、ろくな整備を受けていないのだろう。松明の明かりが作り出す陰影は、荒れ果てた草深い土地と、水路が潜り込んでいく暗い穴を不気味に見せている。
こういった、“死んだ”水路というのはこの街には幾つかあると、ラハトは言う。それらのうちでもこの排水路は、ある程度大きなものであり、中を通って城壁を越えることができるという。この暗渠が、ラハトがリドゥワ脱出のために見つけ出していた道だった。
「……この中を潜っていくわけ?」
眉根を寄せた月瞳の君は、暗い穴を覗き込んだ後、ラハトを顧みた。
「そうだ」
「私、泳ぎたくないんだけど」
「今の水位なら、歩いて行けるほどの深さのはずだ」
「はず……? 確かめたわけじゃないのね?」
「ああ」
「いきなり深くなっていたらどうするのよ」
「泳げばいい」
「だから嫌だって言ったじゃない」
「我慢するんだな」
ラハトのにべもない答えに、月瞳の君は唇を尖らせた。
「何よそれ……。まあいいわ。ユハ、肩を貸して。今度は私がユハに運んでもらう番ね」
その言葉の意味が分からず、思わず月瞳の君を見た瞬間、そこには猫がいた。縞柄の猫は、ユハを見上げて一声鳴くと、素早く彼女の肩に飛び乗る。
これなら、自分でも月瞳の君を運ぶことが出来そうだ。
ユハは思わず苦笑すると、顔の横にある猫の額を撫でた。猫は、喉を鳴らすと目を細める。
ラハトはそんなユハと月瞳の君を見ていたが、顎で暗渠を示して言う。
「行くぞ」
そして、ユハたちは生ぬるい流れの中に足を踏み入れて行った。
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